ご苦労さん会で美味しい食事をいただき、少し元気になりました。明日から足腰が痛くなるかも。
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そして軽く一杯。源太郎は長いカウンターが好きです。
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小さな宇和島城ともお別れです。
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人間はすごいものを作る。長良川と並んで清流の一つ「四万十川」。
その川を渡る大きな橋。普通橋の下から眺めることはあまりない。船遊びや中之島の水上バス、富山の舟下り。そんなことでもないと見ることはない。
綺麗な曲線を描く橋の下で一服です。
素晴らしい秋晴れ。軽自動車が似合う道をどんどん遡ると、水田の奥に集落が現れた。
歩く、そしてまた歩く。普通、住民にとってよそ者が集落に現れたと思われると思うが、住民は気さくに声をかけてくれる。会釈して、調査の目的を伝えると「ご苦労様」と言ってくれる。そして、ある老夫婦はわざわざお茶やコーヒーをご馳走してくださった。「感謝」
「限界集落」という言葉を誰がつけたか知らないが、ここにも生活がある。「限界」なんて失礼な話だが、源太郎より少し上の皆さんが懸命に生活しているのだ。郷に降りるのには延々と車を走らせなければならない。ゆっくりな時間がすぎるこの地で、果たして源太郎は生活ができるのだろうか。そんなことを思いながらまた歩いた。
ANAが好きだという人には、なんで、と思われるかもしれないが、JAL側の第1ターミナルのラウンジは広くて、喫煙席もゆったりとしている。第二ターミナルの喫煙席は申し訳程度の空間で、源太郎のように愛煙家には、静かで、広い空間のこの第一ターミナルが好きというだけのこと。
早目にMihoちゃんに駅まで送ってもらい、今ゆったりした時間を過ごしています。フライトにはまだまだ時間があるが、ゆっくりコーヒーを飲みながらブログチェックをしています。
友人から茨城の袋田の滝の写真が送られてきた。源太郎はこの滝は見たことがなく、一度見て見たいとは思うが、それだけで茨城に行く気も起きないので、きっと見ることはないかもしれない。でも友人からの写真の贈り物、ありがたいアップしておこう。ありがとう。
今朝も富士山は綺麗な姿を見せてくれました。通常使う一眼レフをバックに入れたので、古い一眼レフで撮影です。源太郎はこれから松山に向けて出発です。
久しぶりの自宅での土曜の朝。空は完全に秋空、富士山には雪はない。
リビングでくつろいでいたJerryの脇にすっと現れたLaura。仲良くツーショットかと思えば、猫パンチと噛み付きでJerryをその場所から追い払った。「二人とも仲良くしなさい」
その場所をぶんどったLaura。なんて偉そうな顔をしているのか。ちょっと寒くなったので毛がふわふわになってきた。「豚まんのLaura」だね。
寒かったり、少し暖かくなったり。もうそろそろ初冠雪になる頃だけど、この前にちょっと雪化粧だったが初冠雪とはならなかった。日曜日は雨らしいので冷え込めば初冠雪が見られるかも。源太郎は残念ながら日曜日から出かけるので、今年は初冠雪を撮影することは無理かも。
ラウラは、階段に座り込み、Jerryを見張っている。寝ているJerryのそばに寄って、「猫パンチ」の連打。Jerryはいたたまれず、源太郎の元に。
源太郎が帰ってきた途端、JerryとLauraはまとわりついて離れない。
まぁ、可愛いのだが、スーツケースを覗き込み、入り込もうとする。
「あっちに行けよ」と言っても我関せず。
自宅の風呂に入って足を伸ばし、疲れはだいぶとれたと思う。
ラウラ、お風呂の蓋の上はあったかいだろ。
四国に比べると関東は「寒い」と言ってもいいくらいだ
届いていたAnna TatangeloとHelene Segara のCD(11枚)を聴きながらやっとゆったりできた。正反対の二人の歌声は魅力的だ。
「ラウラも、二人のように魅力的になりなよ」と思って見ても「無理だな」
やっと、少し都会の高知市内のホテルに着いた。今日は快晴で、日差しは強く、日に焼けた。木陰に入ると爽やかな秋風を感じつつ、村人から差し入れの飲み物をいただき山里の人たちに感謝しながらの1日だった。
Vajontダムの災害の話をアップしたところ「空の窓際写真家さん」から16年前に撮影した写真を送っていただいた。感謝です。(この写真の版権は空の窓際写真家さんが有していますので無断転用はしないでください)
子供の頃、この大災害の記事を新聞で読んだことがあり、社会人になってイタリアでの調査報告書を読んだことがあった。当時世界一のダム高さを誇ったこのダムは、非常に急峻で、非常に深い谷に作られたアーチダムだった。普通、高さに対して長さが2倍程度のU字谷ならアーチダムは非常に経済的だが、それをはるかに超えて、高さ262m、幅が200m程度の1.0を下回る格好のサイトだった。(空の窓際写真家さんは「I字谷」といった。源太郎もそうだと思う)
2001年だったと思うが、映画「Vajont - La diga del disonore」、直訳すると「不名誉のダム」と訳していいのだろう、という映画を見たことがある人もいるだろうが、そのダムの災害だった。ちょっと災害の経緯を書くことにしよう。記憶で書いているのでスペルの間違いはご容赦。
アドリア電力会社、「SADE」が1957年から建設したダムがVajontだが、この設計者はダムの権威だったcalro Semenza、源太郎たちは「セメンツァ」と呼んでいた。ただ彼は地質屋ではなく、構造の権威で、地質専門家は他にいた。しかし、彼の息子は地質家でこの左岸のTocという山は崩れやすいと警告を鳴らした。しかし、若い学者の意見は無視され、格上の専門家たちはこれを一蹴した。不幸の始まりであった。
「1963年10月9日午後10時39分、Vajont Dam左岸のMonte Tocが延長2km以上に渡って地すべりを起こし、膨大な土塊が時速100kmという高速でダム湖になだれ落ち、滑落した土砂は2億4000万m³と推定される。当時のダム湖には1億1500万m³の水が貯水されていたが、土砂に押し出されて津波となった湖水は対岸と下流に押し寄せ、右岸に向かった津波は谷の斜面を高さ250mまで駆け上った。ダムから240m以上の高さにあった集落では、低い場所にあった家屋が波に飲まれた。そして、5000万m³に及ぶ水がダムの天端を水深100mの高さで飛び越え、峡谷の出口にあったLongaroneは、津波の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。この結果、2000人以上の住民が亡くなり、街は平地と化した。しかしダム自体は、最上部が津波により損傷したのを除いてほとんどダメージは無かった」
こんな惨事があったのだ。東京オリンピックまであと四年。だからあと三年で60年の時が過ぎ去ろうとしている。人間は忘れやすい動物だ。源太郎は今になって教訓は伝承されないといけないとしみじみ思う。今回の調査チームには、源太郎の1/3の年回りの若者たちがいる。一服しながら、経験話をしているが、はてさてどのくらい伝わっているのだろうか。
それにしても、高い場所からの撮影ができない源太郎に代わり、見事な写真を「空の窓際写真家さん」にいただけるということは、これも技術の伝承に他ならない。今夜は、仕事を少し忘れて、飲むことにします。ありがとうございました。