やっと、少し都会の高知市内のホテルに着いた。今日は快晴で、日差しは強く、日に焼けた。木陰に入ると爽やかな秋風を感じつつ、村人から差し入れの飲み物をいただき山里の人たちに感謝しながらの1日だった。
Vajontダムの災害の話をアップしたところ「空の窓際写真家さん」から16年前に撮影した写真を送っていただいた。感謝です。(この写真の版権は空の窓際写真家さんが有していますので無断転用はしないでください)
子供の頃、この大災害の記事を新聞で読んだことがあり、社会人になってイタリアでの調査報告書を読んだことがあった。当時世界一のダム高さを誇ったこのダムは、非常に急峻で、非常に深い谷に作られたアーチダムだった。普通、高さに対して長さが2倍程度のU字谷ならアーチダムは非常に経済的だが、それをはるかに超えて、高さ262m、幅が200m程度の1.0を下回る格好のサイトだった。(空の窓際写真家さんは「I字谷」といった。源太郎もそうだと思う)
2001年だったと思うが、映画「Vajont - La diga del disonore」、直訳すると「不名誉のダム」と訳していいのだろう、という映画を見たことがある人もいるだろうが、そのダムの災害だった。ちょっと災害の経緯を書くことにしよう。記憶で書いているのでスペルの間違いはご容赦。
アドリア電力会社、「SADE」が1957年から建設したダムがVajontだが、この設計者はダムの権威だったcalro Semenza、源太郎たちは「セメンツァ」と呼んでいた。ただ彼は地質屋ではなく、構造の権威で、地質専門家は他にいた。しかし、彼の息子は地質家でこの左岸のTocという山は崩れやすいと警告を鳴らした。しかし、若い学者の意見は無視され、格上の専門家たちはこれを一蹴した。不幸の始まりであった。
「1963年10月9日午後10時39分、Vajont Dam左岸のMonte Tocが延長2km以上に渡って地すべりを起こし、膨大な土塊が時速100kmという高速でダム湖になだれ落ち、滑落した土砂は2億4000万m³と推定される。当時のダム湖には1億1500万m³の水が貯水されていたが、土砂に押し出されて津波となった湖水は対岸と下流に押し寄せ、右岸に向かった津波は谷の斜面を高さ250mまで駆け上った。ダムから240m以上の高さにあった集落では、低い場所にあった家屋が波に飲まれた。そして、5000万m³に及ぶ水がダムの天端を水深100mの高さで飛び越え、峡谷の出口にあったLongaroneは、津波の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。この結果、2000人以上の住民が亡くなり、街は平地と化した。しかしダム自体は、最上部が津波により損傷したのを除いてほとんどダメージは無かった」
こんな惨事があったのだ。東京オリンピックまであと四年。だからあと三年で60年の時が過ぎ去ろうとしている。人間は忘れやすい動物だ。源太郎は今になって教訓は伝承されないといけないとしみじみ思う。今回の調査チームには、源太郎の1/3の年回りの若者たちがいる。一服しながら、経験話をしているが、はてさてどのくらい伝わっているのだろうか。
それにしても、高い場所からの撮影ができない源太郎に代わり、見事な写真を「空の窓際写真家さん」にいただけるということは、これも技術の伝承に他ならない。今夜は、仕事を少し忘れて、飲むことにします。ありがとうございました。