経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

あやしげ

2009年07月20日 | Weblog
解散が明日。

しばらく巷は騒々しいことだろう。
なにせ「環境公害」をアピールする街宣車すら
音が大きくうるさい国なのだから。


誰しも、自分が正しいという観点から、正義を主張する。
ところがそれぞれの立場から発せられた正義の概念は異なり、
何が正しいかはイデオロギー、国、個々の立場等々によって
異なるし、また時間によっても変化する。

だから、各々が己の観点から正義を主張することによって、
立場の相違がより明確になり、その結果しばしば争いが起こる。
2つの国が相互に平和を願い、それが起因となり、
争いにといった話は笑えない現実である。

国内事情という言葉が出てくる。
これは国のまとまりが難しいということが背景にあって、
「まとめる」ために仮想敵を外に求める。
つまりうちの和のために外国との争いを求める、
その意味では、日本国内は、おだやかで平和かなと思う。

仮想敵を作る。これは何も国だけではない。
日常でもよく見られる、いわば定番手段である。

 私たちは無意識にしろ意識してにしろ、
「群れの結束のためには仮想敵をつくる」ことを、
ごく当たり前のごとく、やっているのである。

連れ買い物などで、「ねぇ、あんた、これどう思う」と、
おばんが隣のおばんに問いかけるのは同意を求めてのこと。
群れの原点的行為といってよい。

おばんだけではない。
人は自分の立場や考えの正当性の拠り所として、
共通の正義や理念を求めて群れるが、
群れを保持し団結を深めるためには、群れ共通の仮想敵が必要になる。

仮想敵を見失ったり拡散したりすれば、
群れたグループのリーダーを中心とする求心力は脆弱になり、
群れの中に異なる正義と理念同士の大小のぶっつかりあいが発生。
そのあいまいさに耐えきれなくなった個は、そのグループから飛び出すか、
また新たな正義を主張し、その正当性に部分的にでも共鳴しえる仲間と
別のグループを創成する。

わかりやすい事例は、この国の政党やその派閥の歴史であろう。

大義名分は例外なし。すべて「国民のため」。
だが本音はそうしたところにないことは、国民の知るところである。

本音をいいなさいよ、ということで
何事かを成すのに、「俺自身の自我の欲求具現のため」と、
絶叫したのでは、支持は得られず、群れはできない。

正直者が落選することが当たり前になれば、
嘘も方便に裏打ちができ、正当化される。

やはり政治家なら、「国民のため」といった大義名分は、
心になくとも、嘘でも必要不可欠なのだ、と。


仮想敵は、はっきりしている。
仮想敵と「敵」をつけて攻撃するというわけだから、敵は悪者。
それを浮き彫りにすることで、こちらは正義の味方の群れ、
ということを国民に印づけることができる。

罵り、誹謗、中傷といった相手への攻撃が、
自分たちの正義を補強、裏打ちになる。
まことに、おかしげなことではある。

和を求める手段として、争いを使う。
正しさの主張が、敵を作る。
まことにおかしげなことだ。が、それは事実である。

こうしたあいまいさ、おかしげな中に存在し生を営んでいるが私たち。
そして当然ながら、この自分もそのあいまい、おかしげな存在の一つなのだ、
ということをしかと自覚しておくことだとおもう。

閑話休題
思うに、彼らのいう大義名分のしらじらしさは、どうだろう。
今回の選挙ほど、ことが、国民とは無関係なところで、
無関係に起因し、無関係に始まっている例は、ないだろう。

それだけに、国民は、国民の判断で、あいまいではない、
おかしげでない結果をきちんと出すに違いない。
私はそう予測、確信している。 09.7.20