春にしては少し寒いが春である。
こういうときに「花が一斉に開いた」、という表現がよく使われる。
やがてその花々が一斉にしぼみ、枯れる。
花の場合は、それで仕方がないことで済ますわけだが、
経営ではそうはいかぬ。
今売れている。しばらくするとその売れ行きが止まる。
これではやっていけない。
すなわち、今の刈り入れにひたすらでは
将来(さき)はない、ということである。
今売れないという。
だから大方が今の刈り入れだけに夢中になっている。
将来のことより、とにかく今の食い扶持を、
といった気持ちはじゅうぶん分わかる。
しかし私がわかったとて、世間が理解してくれたとて、
明日から刈るものが実際になくなったら、どうもならなない。
だから明日の心配などする余裕あるか、と言うことだろうが、
その明日は間違いなく、明日には今日として迎えることになるのだ。
今年も、来年も、再来年も、5年後も、10年後も
四季を通じ、できれば毎月安定的に刈り入れができることを構想する。
そのためにはどう考えなければならないか。
どう経営の配分を図らなければならないか。
「そうした構想」(後述)を考える。それが長期戦略である。
これは私の実感であるが、
かっては長期戦略はといったら最短でも10年先を想定していた。
それが最近では5年。中期が3年といった感覚である。
理由はいろいろあろうが、
短くなった分だけ経営者の構想が小さくなり、
そして経営自体が短期決戦的になっていることは否めない。
上の「そうした構想」とは、
四季を通じてしかも毎年花をみたかったら、
四季を通じて花が咲く花の種を蒔く。
2年草、3年草、草でそうしたものがないなら「木」だ。
木なら60年間ぐらい先の収穫時を見越して、
今蒔くか、3年後に蒔くか、といったように
とにかく長期視野が練らねばならない。
とにかく1年草だけでは2年目には収穫はない。
安定して収穫し続けるためには、種蒔きをずらすか、
収穫時が異なる種類の種蒔きを計画に折り込み、実施されねばならない。
この分散・配分、時間軸を主軸に置いた論理が経営理論から遠ざけられ、
集中投下による生産性、平面的な論理が幅をきかす、
それが続けてきていることが根底にあると考えている。
こういうときに「花が一斉に開いた」、という表現がよく使われる。
やがてその花々が一斉にしぼみ、枯れる。
花の場合は、それで仕方がないことで済ますわけだが、
経営ではそうはいかぬ。
今売れている。しばらくするとその売れ行きが止まる。
これではやっていけない。
すなわち、今の刈り入れにひたすらでは
将来(さき)はない、ということである。
今売れないという。
だから大方が今の刈り入れだけに夢中になっている。
将来のことより、とにかく今の食い扶持を、
といった気持ちはじゅうぶん分わかる。
しかし私がわかったとて、世間が理解してくれたとて、
明日から刈るものが実際になくなったら、どうもならなない。
だから明日の心配などする余裕あるか、と言うことだろうが、
その明日は間違いなく、明日には今日として迎えることになるのだ。
今年も、来年も、再来年も、5年後も、10年後も
四季を通じ、できれば毎月安定的に刈り入れができることを構想する。
そのためにはどう考えなければならないか。
どう経営の配分を図らなければならないか。
「そうした構想」(後述)を考える。それが長期戦略である。
これは私の実感であるが、
かっては長期戦略はといったら最短でも10年先を想定していた。
それが最近では5年。中期が3年といった感覚である。
理由はいろいろあろうが、
短くなった分だけ経営者の構想が小さくなり、
そして経営自体が短期決戦的になっていることは否めない。
上の「そうした構想」とは、
四季を通じてしかも毎年花をみたかったら、
四季を通じて花が咲く花の種を蒔く。
2年草、3年草、草でそうしたものがないなら「木」だ。
木なら60年間ぐらい先の収穫時を見越して、
今蒔くか、3年後に蒔くか、といったように
とにかく長期視野が練らねばならない。
とにかく1年草だけでは2年目には収穫はない。
安定して収穫し続けるためには、種蒔きをずらすか、
収穫時が異なる種類の種蒔きを計画に折り込み、実施されねばならない。
この分散・配分、時間軸を主軸に置いた論理が経営理論から遠ざけられ、
集中投下による生産性、平面的な論理が幅をきかす、
それが続けてきていることが根底にあると考えている。
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