1つのものをみて、それに付けることができる形容詞は、
形容詞の数だけある、といってよい。
人は、それぞれ自分の思いの中から、それに似つかわしい
形容詞を無意識、ときには意識的に付ける。
様々な形容詞の中から、それぞれ違う人間が、
いわば自由選択すれば付けられる形容詞も、
いろいろになるはずだ。
ところが現実は、違う。
ごく限られた形容詞に集約されるのだ。
このことを、週刊誌の書き出し風に表現すると、
選択肢がいくらでもあるのに、択一に絞られて
物事、価値観まで決めなければならなくなった、
縛りでがんじがらめの社会、企業の組織。
といったことになろうか。
しかし、このことを煎じ詰め、極端にいうと、
下記のようなことになり、私はぞっとするのだ。
ある会議の席上。
社長:「これは、間違いなくバカ売れ商品になる」
司会:「今の社長のご意見をどう思うか。
くったくない意見を許す」。
A:「間違いなくバカ売れするでしょう」
B:「社長やA専務のおっしゃるとおりバカ売れまちがいなし」。
C :「御意、B部長の申されたとおりです」
D:「私も、同意見です」
まさに、まさに、付される形容詞は、
裸の王様により集約されていくのである。
もう一つ。
以前、ここにアンルイスさんの話を書きましたが。
それを思い出している。
アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。
以下、彼女の話の概要。
売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。
だが、だれも注目しなかった。
親しい先輩が、こういってアドバイス。
「アン。だめよ。あんなケバケバの安物を身につけていては。
有名になりたかったら、無理してでも本物を身につけなくちゃ」。
何年か後、売れっ子になった。
彼女が身につけているのは安物の宝石である。
みんながアンに、こう言ったそうだ。
「アンさん、すごくすてき。あんな高価なもの身につけて。
うらやましいわ」。(この会話、田上の意訳)
まさに、まさに形容詞は、変わるのである。
そして肝腎なことは、どんな形容詞が付けられようと、
どうであろうと、本体自体には、「変わりがない」
ということだ。
形容詞の数だけある、といってよい。
人は、それぞれ自分の思いの中から、それに似つかわしい
形容詞を無意識、ときには意識的に付ける。
様々な形容詞の中から、それぞれ違う人間が、
いわば自由選択すれば付けられる形容詞も、
いろいろになるはずだ。
ところが現実は、違う。
ごく限られた形容詞に集約されるのだ。
このことを、週刊誌の書き出し風に表現すると、
選択肢がいくらでもあるのに、択一に絞られて
物事、価値観まで決めなければならなくなった、
縛りでがんじがらめの社会、企業の組織。
といったことになろうか。
しかし、このことを煎じ詰め、極端にいうと、
下記のようなことになり、私はぞっとするのだ。
ある会議の席上。
社長:「これは、間違いなくバカ売れ商品になる」
司会:「今の社長のご意見をどう思うか。
くったくない意見を許す」。
A:「間違いなくバカ売れするでしょう」
B:「社長やA専務のおっしゃるとおりバカ売れまちがいなし」。
C :「御意、B部長の申されたとおりです」
D:「私も、同意見です」
まさに、まさに、付される形容詞は、
裸の王様により集約されていくのである。
もう一つ。
以前、ここにアンルイスさんの話を書きましたが。
それを思い出している。
アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。
以下、彼女の話の概要。
売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。
だが、だれも注目しなかった。
親しい先輩が、こういってアドバイス。
「アン。だめよ。あんなケバケバの安物を身につけていては。
有名になりたかったら、無理してでも本物を身につけなくちゃ」。
何年か後、売れっ子になった。
彼女が身につけているのは安物の宝石である。
みんながアンに、こう言ったそうだ。
「アンさん、すごくすてき。あんな高価なもの身につけて。
うらやましいわ」。(この会話、田上の意訳)
まさに、まさに形容詞は、変わるのである。
そして肝腎なことは、どんな形容詞が付けられようと、
どうであろうと、本体自体には、「変わりがない」
ということだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます