昨日で、あの「風の盆」は終わった。
残園なことだが、今年もまたいけなかった。鹿児島から、八尾は遠い。
以下、10余年前、雑誌「商業界のコラムに掲載した原稿を再掲。
今年も、越中富山、八尾の「おわら風の盆」の季節になった。
人口二万人の町に、今年も九月一日からの三日間で.
二十六万人を越す人々が全国からあっまっきた。
この祭りの凄みは、この町で生活をしている住民たちが、
観光客のためではなく、ただひたすら自分たちが楽しむために
歌い、踊るところにある。
徹底したアマチュアリズムを貫らぬき、
観光客への迎合はやらない、という戒めが、
きちんと守られているのである。
町に足を踏み入れた人々がまず驚くことは、
どこの祭りにも見られる喧騒さがないことである。
人々のざわめきすら薄闇にすいこまれてしまうのであろうか、
寂しく哀しい夜祭りである。
男は黒はっぴ、黒股引き、黒足袋姿で、直線的かつ躍動的な踊り。
女は揃いの浴衣に自足袋。そして編み笠を被るその陰影と、
白いあごを結ぶ紅紐の鮮やかさが醸しだすほんのりとした美しさ:。
しなやかな指先や腕の流れとともに膝から下、腰から背中にかけての
うねりが,闇夜に踊りの表情を映す。
八尾町には十一町があり,その数だけのおわら支部がある。
年配の地方衆(三味線、胡弓、太鼓)と唄い手と若い踊り子たちが同じ空間で,
三百年の歴史ある芸能を練り上げる。
見逃してならないのは、町を構成している店(たな)である。
この町には、よその町ではほとんど見られなくなった
和紙屋がある。
胡弓屋がある。
三味線屋がある。
指物屋がある。
染物屋がある。
それも祭りのときだけでの出店ではなく,昔からある老舗なのである。
その佇みは、他の店もそうであるが、「風の盆」と
町の人々の生活を支えている伝統と自信がそうさせるのか、
呼び込みも売り込みも媚もしないし、またお祭りだからといって
値段を吊り上げるようなこともいっさいない。
今は忘れ去られている商いの原点と商人の有り様が,この町にはある。
残園なことだが、今年もまたいけなかった。鹿児島から、八尾は遠い。
以下、10余年前、雑誌「商業界のコラムに掲載した原稿を再掲。
今年も、越中富山、八尾の「おわら風の盆」の季節になった。
人口二万人の町に、今年も九月一日からの三日間で.
二十六万人を越す人々が全国からあっまっきた。
この祭りの凄みは、この町で生活をしている住民たちが、
観光客のためではなく、ただひたすら自分たちが楽しむために
歌い、踊るところにある。
徹底したアマチュアリズムを貫らぬき、
観光客への迎合はやらない、という戒めが、
きちんと守られているのである。
町に足を踏み入れた人々がまず驚くことは、
どこの祭りにも見られる喧騒さがないことである。
人々のざわめきすら薄闇にすいこまれてしまうのであろうか、
寂しく哀しい夜祭りである。
男は黒はっぴ、黒股引き、黒足袋姿で、直線的かつ躍動的な踊り。
女は揃いの浴衣に自足袋。そして編み笠を被るその陰影と、
白いあごを結ぶ紅紐の鮮やかさが醸しだすほんのりとした美しさ:。
しなやかな指先や腕の流れとともに膝から下、腰から背中にかけての
うねりが,闇夜に踊りの表情を映す。
八尾町には十一町があり,その数だけのおわら支部がある。
年配の地方衆(三味線、胡弓、太鼓)と唄い手と若い踊り子たちが同じ空間で,
三百年の歴史ある芸能を練り上げる。
見逃してならないのは、町を構成している店(たな)である。
この町には、よその町ではほとんど見られなくなった
和紙屋がある。
胡弓屋がある。
三味線屋がある。
指物屋がある。
染物屋がある。
それも祭りのときだけでの出店ではなく,昔からある老舗なのである。
その佇みは、他の店もそうであるが、「風の盆」と
町の人々の生活を支えている伝統と自信がそうさせるのか、
呼び込みも売り込みも媚もしないし、またお祭りだからといって
値段を吊り上げるようなこともいっさいない。
今は忘れ去られている商いの原点と商人の有り様が,この町にはある。
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