生意気にも、経営関連の学会に入っている。
学会の様々な会合に出入りし、
大勢の学者先生とお知り合いになれた。
その交流の場で、いつも問われて困ることは、
「ご専門は?」である。
学者にとって、自分の専門分野こそが、学者たる
所以であり、そうした質問は極く当たり前のこと。
にもかかわらず、問われる以前からどぎまぎし、
問われたら、言葉に詰まる。
経営に関する学会に初めて入ったのは昭和61年。
その後30年近い間、専門らしき専門分野を持ってないのは、
私の怠慢である。
もちろん、いつか自分の関心、集中できる分野に出会い、
それに関して、自分なりに掘り下げて研究してみたい
といった野望は、常に頭にあった。
それでいながら、これまで自分の専門はもとより
専門といったように絞ることができず、あれや
これや,そのとき、そのときに引かれるものに
目移りしながら、さらに連想でもって、自分の
関心を、やたらに広げていくあり方、やり方を
続けて、ここまできた。
正直に言えばこれがもっとも私の性分に合っている。
そして、それが私の生き方として一番過ごしやすい、心地よい。
そう断言しながら、一方では関心を絞れないことに対すること。
絞りきれず分散、目写ししていることによる、
いわば知の積み重ねのないことに、
一種の不安を感じているのも事実である。
だからといって、よくジョークに使われる、
「専門を持ってないことが、私の専門なのです」
とは、かりにそれが居直りに聞こえないとしても、
私は使いたくない。
私なりに、「消費者中心主義」、「売れて儲かるシクミの研究」、
「売らずとも売れる営業の研究」といったことは、
長年、私なりにアカデミックな観点から研究している。
だから、少し赤い顔をして、
「私の専門は、売れて儲かるシクミの研究です」
と言ったことがある。
その折の、学者先生達の怪訝な顔。
それを思うと、これまで通り、
「いや、私は浅学で、専門らしい研究など、むにゃむにゃ・・」
が一番似つかわしく思うのである。
で、今年も、この「むにゃむにゃ・・」でいきた。
むにゃむにゃ・・
学会の様々な会合に出入りし、
大勢の学者先生とお知り合いになれた。
その交流の場で、いつも問われて困ることは、
「ご専門は?」である。
学者にとって、自分の専門分野こそが、学者たる
所以であり、そうした質問は極く当たり前のこと。
にもかかわらず、問われる以前からどぎまぎし、
問われたら、言葉に詰まる。
経営に関する学会に初めて入ったのは昭和61年。
その後30年近い間、専門らしき専門分野を持ってないのは、
私の怠慢である。
もちろん、いつか自分の関心、集中できる分野に出会い、
それに関して、自分なりに掘り下げて研究してみたい
といった野望は、常に頭にあった。
それでいながら、これまで自分の専門はもとより
専門といったように絞ることができず、あれや
これや,そのとき、そのときに引かれるものに
目移りしながら、さらに連想でもって、自分の
関心を、やたらに広げていくあり方、やり方を
続けて、ここまできた。
正直に言えばこれがもっとも私の性分に合っている。
そして、それが私の生き方として一番過ごしやすい、心地よい。
そう断言しながら、一方では関心を絞れないことに対すること。
絞りきれず分散、目写ししていることによる、
いわば知の積み重ねのないことに、
一種の不安を感じているのも事実である。
だからといって、よくジョークに使われる、
「専門を持ってないことが、私の専門なのです」
とは、かりにそれが居直りに聞こえないとしても、
私は使いたくない。
私なりに、「消費者中心主義」、「売れて儲かるシクミの研究」、
「売らずとも売れる営業の研究」といったことは、
長年、私なりにアカデミックな観点から研究している。
だから、少し赤い顔をして、
「私の専門は、売れて儲かるシクミの研究です」
と言ったことがある。
その折の、学者先生達の怪訝な顔。
それを思うと、これまで通り、
「いや、私は浅学で、専門らしい研究など、むにゃむにゃ・・」
が一番似つかわしく思うのである。
で、今年も、この「むにゃむにゃ・・」でいきた。
むにゃむにゃ・・