寒い朝である。
寒さ、と体感し、それを「朝」につけて、
寒い朝と感じたのはこの私。実感だからである。
エスキモー人なら、「暖かい」と感じ、
エスキモー語で、「暖かい朝だ」というだろう。
彼の実感だからだ。
お互いの言葉がわからないとして、
私が、寒いと叫んでも日本語はわからないエスキモー人は、
ポカンとするだけだろう。
エスキモー人が、暖かいと叫んでも、私は何のことかわからない。
同じ朝が、一人は「寒い」、一人は「暖かい」。
この二人が、体感を言葉に発しても、わからない。
お互いの言葉がわかるとして
私が寒いと体感し、「暑い」と言ったとしたらどうだろう。
汗をかいた彼がシャツを脱ぎ寒いと言ったらどうだろう。
私が寒いと体感し、震え出すとどうだろう。
汗をかいた彼が、シャツを脱ぎ始めたらどうだろう。
この話から、いくつかのことがわかる。
1-寒い、暖かいということは区々人に取っての評価であること。
2-それらを情報とするには、両者の評価が一致、
共有していることが前提。
3-言葉ではどうでも言える。
4-体感は、言葉以外が、真意を伝える。
以前書いたが、情報はコト。
情報にコトとフリナガをつけて、
情報イコール「コト」と考えるのである。
そうすれば、頭に「嬉しい」と付ければ「嬉しいコト」。
「悲しい」を付ければ「悲しいコト」になる。
つまり「コト」そのものが変わるのでなく、
付する形容詞によって変化するということである。
しかし、そのコトを他の人がどう受け取るかは、
まったく別のこと、という理解を絶対に忘れてはならない。
念押しするのは、そのことを忘れるから、
誤解、売れない、不信感、などなど
諸々も問題が発生している、と考えるからである。
寒さ、と体感し、それを「朝」につけて、
寒い朝と感じたのはこの私。実感だからである。
エスキモー人なら、「暖かい」と感じ、
エスキモー語で、「暖かい朝だ」というだろう。
彼の実感だからだ。
お互いの言葉がわからないとして、
私が、寒いと叫んでも日本語はわからないエスキモー人は、
ポカンとするだけだろう。
エスキモー人が、暖かいと叫んでも、私は何のことかわからない。
同じ朝が、一人は「寒い」、一人は「暖かい」。
この二人が、体感を言葉に発しても、わからない。
お互いの言葉がわかるとして
私が寒いと体感し、「暑い」と言ったとしたらどうだろう。
汗をかいた彼がシャツを脱ぎ寒いと言ったらどうだろう。
私が寒いと体感し、震え出すとどうだろう。
汗をかいた彼が、シャツを脱ぎ始めたらどうだろう。
この話から、いくつかのことがわかる。
1-寒い、暖かいということは区々人に取っての評価であること。
2-それらを情報とするには、両者の評価が一致、
共有していることが前提。
3-言葉ではどうでも言える。
4-体感は、言葉以外が、真意を伝える。
以前書いたが、情報はコト。
情報にコトとフリナガをつけて、
情報イコール「コト」と考えるのである。
そうすれば、頭に「嬉しい」と付ければ「嬉しいコト」。
「悲しい」を付ければ「悲しいコト」になる。
つまり「コト」そのものが変わるのでなく、
付する形容詞によって変化するということである。
しかし、そのコトを他の人がどう受け取るかは、
まったく別のこと、という理解を絶対に忘れてはならない。
念押しするのは、そのことを忘れるから、
誤解、売れない、不信感、などなど
諸々も問題が発生している、と考えるからである。