経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

こと、こと、こと

2010年12月25日 | Weblog
寒い朝である。
寒さ、と体感し、それを「朝」につけて、
寒い朝と感じたのはこの私。実感だからである。

エスキモー人なら、「暖かい」と感じ、
エスキモー語で、「暖かい朝だ」というだろう。
彼の実感だからだ。



お互いの言葉がわからないとして、
私が、寒いと叫んでも日本語はわからないエスキモー人は、
ポカンとするだけだろう。

エスキモー人が、暖かいと叫んでも、私は何のことかわからない。

同じ朝が、一人は「寒い」、一人は「暖かい」。
この二人が、体感を言葉に発しても、わからない。


お互いの言葉がわかるとして
私が寒いと体感し、「暑い」と言ったとしたらどうだろう。
汗をかいた彼がシャツを脱ぎ寒いと言ったらどうだろう。

私が寒いと体感し、震え出すとどうだろう。
汗をかいた彼が、シャツを脱ぎ始めたらどうだろう。


この話から、いくつかのことがわかる。
1-寒い、暖かいということは区々人に取っての評価であること。
2-それらを情報とするには、両者の評価が一致、
共有していることが前提。 
3-言葉ではどうでも言える。
4-体感は、言葉以外が、真意を伝える。


以前書いたが、情報はコト。
情報にコトとフリナガをつけて、
情報イコール「コト」と考えるのである。

そうすれば、頭に「嬉しい」と付ければ「嬉しいコト」。
「悲しい」を付ければ「悲しいコト」になる。

つまり「コト」そのものが変わるのでなく、
付する形容詞によって変化するということである。

しかし、そのコトを他の人がどう受け取るかは、
まったく別のこと、という理解を絶対に忘れてはならない。

念押しするのは、そのことを忘れるから、

誤解、売れない、不信感、などなど
諸々も問題が発生している、と考えるからである。