経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

それでも日常語

2009年10月18日 | Weblog
経営はごく身近なものです。
身近なことは、身近な言葉で語ればいい。
それが私の考えです。

もちろん奥深く、専門的な分野を、
それも他の人が目に留めないような
新しいテーマを研究することで学問としての
経営学が進歩発展していく。

このことは、大いに意義があり、絶対不可欠です。
そのことは十分わかっていて、あえて言いたいのです。

それでも分からない話を難しく話す必要はないと。
またわかっている話をことさら難しく話す必要もないと。
相手にわかるように話をすることは話し手として当然なことだと。

伝えたいことあって話するのです。
話をする目的は、こちらの意思、考えを伝える話し手にもある。
本は相手に買ってもらい、読んでもらうためにある
そのために書き、出版している。

教えるということもそう。
相手が知らない、わかっていない、ということで成り立つ。
導くということも然り。

にも関わらず、です。
そうしたことをわかっているはずなのに、
わからない話をして、他の人がわからないといった表示を見せると、
「どうして俺のいうことがわからないのか」といった不快感を示す。

繰り返しますが、わからせるのが一義的には伝える側にある。
わからせない。わからないでは結果的には話さないことと同じ。
聴講に来た人は来なかったのと同じ。
双方、時間の無駄ということになります。

聴講するために集まった大勢の人が、
今話していることが伝わっているかどうか。
これを大づかみに掴み、話し方、内容などを微調整する。
これをやる人が、自分の話す内容を真にわかっている人だと、私は思う。
「やれる」人ではなく、「やる」人、と書きました。
技法ではなく伝えたい意図、情熱を持っている人だと言う意味です。


話す側の話で終わると、公平さを欠きます。
以下、聞く側、聴講側についても一言、三言。

わからない話をわかったつもり、というか
「わかったふり」をするというでは、見えないモノを見えるといった、
あの裸の王様の話と同じではなりませんか。
わからなければ、もっとわかるように、と問い直せばいい。
講師は、金をもらってそれで生業を立てているのですから
それで、いやがる人は本来はいないはず。

「先生」」と呼ばなければ不快な表情を見せるような
講師を甘やかしてはなりません。

一方、しなくて良い質問のための質問、儀礼的な質問、
自分を物知りだと目立たさせる意図で質問をする、
もっといえば、講師を困らせてやろうといった意図の人など、
いわゆる講師泣かせの受講者もいます。

それでも、私は伝える側が、伝えていく。
この姿勢だけは通すことが、根本だと考えています。
だからこそ私自身、高い位置、高い立場、
上から見下ろす姿勢を取る人多い学会、場は敬遠したいのです。
話は聞かないし本も買わないように心がけています。

それは、そうした人への批判ということより、
どうも居心地が良くない。おもしろくない。

それは、すぐ天狗になりやすく、
また出来が悪く、反応の鈍い講演をしたことを、
他のせいにしがちな私自身への戒めの為でもあります。

プロですから他のせいにしたくない。

その誇りだけは失いたくないのです。。