タイトルは大仰だが、体制と文化の話の続きを、
政権交代の意義を高く評価している立場から
文化のそれと、対比、絡ませて、考えてみたい。
文化は体制維持のために利用された。
そうした背景歴史を持って、育ってきたという見方ができる。
たとえば体制下における絵画は、
当時の絵描きが食うための手段として肖像画からスタートしている。
次に襖、屏風画である。
これはお客は体制の上に乗っかっている人、
皇族、貴族、高級武士といった特権階級に限られる。
としたら、事実通り写実した肖像画や屏風画が書けるであろうか。
否であろう。
男は皆美男、逞しく強そうに、女は皆、美女、
優しく色っぽく、強調して書かれるのは、当然である。
したがって当時の肖像画が正しく当人を写しているとは到底思えない。
その意味で、そうした時代にカメラが存在したとしても、多分に発禁もの。
そもそも写真は体制には馴染まないもの、といってよい。
写真が日本の封建制度の末期に登場してきたのは、
偶然であろうとなかろうと、体制にとってはラツキーであった。
また体制の強い折に登場しなかったことは写真にとっては幸せだった。
なぜなら写真は、絵画と物書きと違うのは実写であり、
体制に媚をふるツールとしては、そぐわないからである。
高額で、そうした体制側にしか手に入れられないから、
そうした指摘は当たらない、という指摘があろうが、
それは写真のもつ本質的機能とは異なる論議である。
かって絵描きが、裕福層をスポンサーとしなければ、食えない
今はどうであろう。
大衆すべてが写真家、写真記者みたいなものである。
そのため写真による暴露、特ダネを専門としていた週刊誌フライデーは
消えたといってもいい。
こうしたことは、表現を変えていえば、
人の生活に於ける脚色行為やプライバシー部分が減少する
ということに外ならない。
要するに、隠してもすぐばれる、
しかも民のプライバシーより、政治家とか芸能人、
スポーツ選手とか、いわゆる著名人のプライバシーの方が、
虚飾も多かろうし、剥ぐいでの付加価値がつくし、面白ろかろう。
必然的に彼らは、いつも民による捌きの目を意識せざるをえない。
下手をすると偶像化し引き落とされ兼ねないからである。
これも大衆が分化することの特質であり、
その意味での社会的浄化作用効果は大きいといえよう。
宗教や文化が体制に媚びしないとき、
文化のリーダー達は体制の弾圧の対象となる。
例として茶の千利休。
体制のリーダーたる秀吉は、彼が存在する限り
文化の世界においてはリーダー足りえなかった。
このことをして、秀吉は千利休に嫉妬し、彼を殺すこととなった。
先に述べたように、元々絵描きや物書きは
不本意であってにしろ、体制の太鼓持ちとしてスタート。
これが明治半ばになってようやく体制の枠外、
あるいは批判の小説家等、すなわち結果としての貧乏小説家が出てきた。
彼らはそれまでも元来書きたいもの書くという本質は持っていたのだが、
いかんせん体制に受け入れられるものだけしか、
スポンサーたる紙屋が書かしてくれず鬱積が溜まっていたのである。
いきおい百花繚乱の如しである。
いわゆる文豪と呼ばれる人達を含め、
この時期に数多くの小説家等が輩出しているのは決して偶然ではない。
その意味では、彼らは文化の時代すなわち大衆の時代の到来が、
近いことを独特の嗅覚でもっとも早く嗅ぎつけた先覚者といえる。
事実その頃から、大衆に支えられた文化が萌芽してきている。
その背景には大衆相手でも商売になる、
と読んだ先賢の目を持つ優れた紙屋がいたということである。
こうした文化の歩みと政治の歩みを、ウサギとカメの如く、
「どちらが先に駆け着くか?」としたら、
実際にかけっこしなくても、勝負は明らかだ。
「体制」とは、体制を守るという本能を持っており、
文化は、旧来を打破することに、その存在価値を持っている。
ここに来て、やっとこさ、ほんとうにようやく
国民のための看板に、その実、体制維持、党維持、派閥維持
を主要業務として勤しんできた政権が倒れ、
ともかくも民を主と謳う政権が誕生した。
「民主党だってわかんないぞ、同じかも」、と言った声もあろうが、
そうしたこれからの問題以前に、
旧体制を無血でもって政権交代をなしたことを言っているのである。
日本国民の英知、賢明さ、そのことを言っているのである。
そのことは世界中に大きく誇っていいのでは、と思っているのである。
私がその関係者なら、今年のノーベル平和賞はオバマさんではなく、
日本国民だ。日本人の一人として、誇りに思っている。
政権交代の意義を高く評価している立場から
文化のそれと、対比、絡ませて、考えてみたい。
文化は体制維持のために利用された。
そうした背景歴史を持って、育ってきたという見方ができる。
たとえば体制下における絵画は、
当時の絵描きが食うための手段として肖像画からスタートしている。
次に襖、屏風画である。
これはお客は体制の上に乗っかっている人、
皇族、貴族、高級武士といった特権階級に限られる。
としたら、事実通り写実した肖像画や屏風画が書けるであろうか。
否であろう。
男は皆美男、逞しく強そうに、女は皆、美女、
優しく色っぽく、強調して書かれるのは、当然である。
したがって当時の肖像画が正しく当人を写しているとは到底思えない。
その意味で、そうした時代にカメラが存在したとしても、多分に発禁もの。
そもそも写真は体制には馴染まないもの、といってよい。
写真が日本の封建制度の末期に登場してきたのは、
偶然であろうとなかろうと、体制にとってはラツキーであった。
また体制の強い折に登場しなかったことは写真にとっては幸せだった。
なぜなら写真は、絵画と物書きと違うのは実写であり、
体制に媚をふるツールとしては、そぐわないからである。
高額で、そうした体制側にしか手に入れられないから、
そうした指摘は当たらない、という指摘があろうが、
それは写真のもつ本質的機能とは異なる論議である。
かって絵描きが、裕福層をスポンサーとしなければ、食えない
今はどうであろう。
大衆すべてが写真家、写真記者みたいなものである。
そのため写真による暴露、特ダネを専門としていた週刊誌フライデーは
消えたといってもいい。
こうしたことは、表現を変えていえば、
人の生活に於ける脚色行為やプライバシー部分が減少する
ということに外ならない。
要するに、隠してもすぐばれる、
しかも民のプライバシーより、政治家とか芸能人、
スポーツ選手とか、いわゆる著名人のプライバシーの方が、
虚飾も多かろうし、剥ぐいでの付加価値がつくし、面白ろかろう。
必然的に彼らは、いつも民による捌きの目を意識せざるをえない。
下手をすると偶像化し引き落とされ兼ねないからである。
これも大衆が分化することの特質であり、
その意味での社会的浄化作用効果は大きいといえよう。
宗教や文化が体制に媚びしないとき、
文化のリーダー達は体制の弾圧の対象となる。
例として茶の千利休。
体制のリーダーたる秀吉は、彼が存在する限り
文化の世界においてはリーダー足りえなかった。
このことをして、秀吉は千利休に嫉妬し、彼を殺すこととなった。
先に述べたように、元々絵描きや物書きは
不本意であってにしろ、体制の太鼓持ちとしてスタート。
これが明治半ばになってようやく体制の枠外、
あるいは批判の小説家等、すなわち結果としての貧乏小説家が出てきた。
彼らはそれまでも元来書きたいもの書くという本質は持っていたのだが、
いかんせん体制に受け入れられるものだけしか、
スポンサーたる紙屋が書かしてくれず鬱積が溜まっていたのである。
いきおい百花繚乱の如しである。
いわゆる文豪と呼ばれる人達を含め、
この時期に数多くの小説家等が輩出しているのは決して偶然ではない。
その意味では、彼らは文化の時代すなわち大衆の時代の到来が、
近いことを独特の嗅覚でもっとも早く嗅ぎつけた先覚者といえる。
事実その頃から、大衆に支えられた文化が萌芽してきている。
その背景には大衆相手でも商売になる、
と読んだ先賢の目を持つ優れた紙屋がいたということである。
こうした文化の歩みと政治の歩みを、ウサギとカメの如く、
「どちらが先に駆け着くか?」としたら、
実際にかけっこしなくても、勝負は明らかだ。
「体制」とは、体制を守るという本能を持っており、
文化は、旧来を打破することに、その存在価値を持っている。
ここに来て、やっとこさ、ほんとうにようやく
国民のための看板に、その実、体制維持、党維持、派閥維持
を主要業務として勤しんできた政権が倒れ、
ともかくも民を主と謳う政権が誕生した。
「民主党だってわかんないぞ、同じかも」、と言った声もあろうが、
そうしたこれからの問題以前に、
旧体制を無血でもって政権交代をなしたことを言っているのである。
日本国民の英知、賢明さ、そのことを言っているのである。
そのことは世界中に大きく誇っていいのでは、と思っているのである。
私がその関係者なら、今年のノーベル平和賞はオバマさんではなく、
日本国民だ。日本人の一人として、誇りに思っている。