泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥の「彼岸花のある風景・2019」

2019年09月28日 21時15分00秒 | 散歩

奈良県明日香村稲渕地区を中心に行われた「彼岸花祭り」(9月21日・9月22日)も、天候が心配されましたが無事終了しました。稲渕地区は、県下有数の彼岸花の名所でも知られ、当日も多くの方が来られていました。

今回は、飛鳥の「彼岸花のある風景・2019」を紹介したいと思います。

彼岸花は、文字通り秋のお彼岸前後に見頃時期を迎える素敵な花です。日本では秋の花として親しまれる彼岸花は、別名「リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られています。

明日香村においても、9月の中旬ころから村内のあちらこちらで彼岸花を見ることが出来ましたが、今年は例年より彼岸花の開花が遅く、「彼岸花祭り」の時は、5〜6分咲きで丁度今頃が満開となっています。(9月28日現在)

今回は、飛鳥で好きな彼岸花のスポットを紹介したいと思います。

棚田百選にも選ばれている「稲渕地区」・都塚古墳のある「坂田地区」・「細川谷」周辺・「檜前(ひのくま」周辺・「飛鳥寺」地区・「橘寺」地区等で彼岸花を見ることが出来ますが、今年は、特に「坂田地区」の彼岸花が綺麗でした。

のどかな里山を散策しながら、彼岸花と稲穂がゆれる棚田を楽しむのもいいものですね。昔懐かしい日本の秋の風景が、この明日香村にまだ数多く残っていますよ!

                          

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「彼岸花祭り&歴史の道・2019」

2019年09月26日 15時34分02秒 | 散歩

奈良県明日香村では、真っ赤に咲き誇る彼岸花を愛でる「彼岸花祭り」と、「歴史の道2019」同時開催されました。

今回は、「彼岸花祭り&歴史の道・2019」について紹介したいと思います。

「彼岸花祭り」は、9月21日(土)・22日(日)の10:00~16:00の時間帯で、明日香村稲渕地区及び国営飛鳥歴史公園石舞台地区で行われました。

「彼岸花祭り」の中心になる稲渕の棚田には、近鉄飛鳥駅から稲渕・石舞台駐車場から稲渕を結ぶシャトルバスが運航されます。21日は天気は良かったのですが、あいにく22日は、雨のためやや見物客が少なかったようでした。毎年この時期は、多くの方が来られ大渋滞になりますので石舞台駐車場から歩くか、シャトルバスをお薦めします。

「彼岸花祭り」は、2019年で第24回目を迎えます。今年の「かかしコンテスト」のテーマは「思わず笑顔になる案山子」です。今年も「案山子ロード」の案山子は、力作揃いでしたが、残念ながら今年の彼岸花はまだ5〜6分咲き位でした。今年は何と、トイレが無かった稲渕地区に立派なトイレ休憩場ができていて、とても便利になりました。

稲渕地区の案山子ロードの案山子は、しばらくの間展示されていますので、のんびりと歩きながら秋の飛鳥を楽しんでみて下さい。

 また、国営飛鳥歴史公園石舞台地区において9月21日(土)に、「飛鳥で出会う・食と文化の国際交流」をテーマにしたイベント「歴史の道2019」が催されました。日韓の文化・食を楽しめるイベントです。日本・韓国の歌や演奏等が行われました。屋台広場もあり、飛鳥の地において国際色豊かなイベントが行われ多くの方が楽しまれていました。

秋の一日のんびりと、日本の原風景が残る「飛鳥の地」で行われる「彼岸花祭り&飛鳥光の回廊&歴史の道」の散策、おすすめですよ!

 

                                    

 

 

 

 

 

 

 

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たった一日限りの「飛鳥光の回廊・2019」

2019年09月22日 22時19分36秒 | 散歩

久しぶりに、飛鳥に戻ってきました。丁度、明日香村では9月21(土)・22日(日)に「飛鳥光の回廊・彼岸花祭り」が催されていました。

明日香村内が光に包まれる「飛鳥光の回廊」は、9月21(土)・22日(日)18時より開催の予定でしたが、22日は雨天のため中止となりました。

今回は、たった一日限りの「飛鳥光の回廊・2019」の様子を紹介したいと思います。

天候が心配されましたが、9月21日(土)は実施され「古の都・飛鳥」がろうそくの優しい灯りに包まれました。 飛鳥寺・岡寺・石舞台地区公園・川原寺・橘寺などがライトアップされ、ろうそくの光の回廊で繋がれました。幻想的なイルミネーションに彩られた飛鳥の秋夜を、多くの方が各場所において楽しまれていました。

昨年は、飛鳥寺・岡寺の光の回廊を見にいきましたので、今年は、石舞台地区公園・川原寺・橘寺・岡地区の旧家前等の光の回廊を見に行きました。

石舞台地区公園では、舞台で色々な催し物がおこなわれており大変多くの方が来られていました。岡地区の旧家前では、和傘・ロウソクの光の景色はとても幻想的でした。

他の所では、幻想的なイルミネーションに彩られた中、雅楽や琴と尺八の演奏などが行われていました。2日目も楽しみにしていたのですが午後から雨になり、残念ながら中止となりました。たった一日限りの「飛鳥光の回廊」でしたが、今年も飛鳥の秋夜を、充分楽しむことが出来ました!

次回は、明日香村稲渕地区で行われた「彼岸花祭り」の様子を紹介したいと思います。

                         

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奴国を歩く7「弥生時代の共同墓地(金隈遺跡)」

2019年09月14日 13時11分49秒 | 歴史

「奴国を歩く」シリーズも、いよいよ最終回となりました。最終回は、福岡市博多区にある弥生時代の共同墓地「金隈(かねのくま)遺跡」を歴史散策してきました。

今回は、奴国を歩く7「弥生時代の共同墓地(金隈遺跡)」を紹介したいと思います。

「金隈(かねのくま)遺跡」は、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央にあります。
弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期の中頃(紀元前2世紀)から後期の前半(2世紀)までの約400年間にわたって営まれました。
この遺跡からは、348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘されています。最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたものと考えられます。
甕棺墓からは、136体の人骨が出土しました。平均身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmで、縄文人と比較すると、顔も面長になり、身長も急に高くなっています。このことから、朝鮮半島との交流による混血が行なわれていたのではないかと考えられています。墓中の副葬品には、種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や、石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流を物語っています。
福岡市教育委員会が行なったこれらの発掘調査の結果から、遺跡は、弥生時代墓制の典型的な遺跡として、昭和47年に国指定の史跡として保存されることとなりました。
昭和60年3月には、遺跡を保存・展示するため、発掘調査現場に屋根をかけるような形で「金隈遺跡甕棺展示館」が建てられました。

「金隈遺跡甕棺展示館」では、弥生時代の墓が密集した場所に、甕棺墓91基、土こう墓34基、人骨4体の実物を発見当時に近い状態で展示されていて、無料で見学することができます。

今から約2,000年前の弥生時代の共同墓地については、奴国を歩く第1回で「須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史公園)」で紹介しました。この場所から車で10分足らずの所に、弥生時代の密集した共同墓地を見ることが出来ました。以前から、是非歴史散策をしてみたい遺跡でした。これだけ密集した共同墓地(金隈遺跡)、一見の価値があると思いますよ!

約2か月にわたって「奴国」を歴史散策し7回にわたって「奴国を歩く」を紹介させていただきました。以前、歴史散策した場所もありましたが、初めて行くところもあり、とても興味深く充実した歴史散策となりました!

                   

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奴国を歩く6「弥生時代の水田跡と環濠集落(板付遺跡)」

2019年09月06日 15時53分16秒 | 歴史

今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は「奴国(なこく)」とよばれる国でした。「奴国」の王は、西暦57年、中国の皇帝(漢の光武帝)に使いを送りました。これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」の金印を与え、正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』東夷伝(とういでん)は記しています。奴国は日本列島の国の中で初めて世界の歴史に名を刻んだ国なのです。 

弥生時代の終わりごろ、日本列島で最も勢力を誇っていたのは、女王「卑弥呼(ひみこ)」が治める「邪馬台国(やまたいこく)」でした。しかしなお、倭国(わこく)はまだ大小30余りの国に分かれて相争っており、その中にあって、この頃の「奴国」は、2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。

前回の奴国を歩く5「奴国内にある土塁」でした。今回は、奴国を歩く6「弥生時代の水田跡と環濠集落(板付遺跡)」を紹介したいと思います。

今回紹介する「板付遺跡(いたづけいせき)」は、福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡で、国の史跡となっています。 遺跡は竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、展示施設(板付遺跡弥生館)もあります。

〇「板付遺跡」は、福岡市博多区板付にあり福岡平野の中央よりやや東寄りに位置します。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡です。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝があります。環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれています。現在、竪穴式住居跡等が復元してあります。弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展しています。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土しています。これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示しています。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、貯蔵穴群や墓地が発見されています。

今はひっそりとした歴史公園になっていますが、さぞ、2、000年前は大いに賑わったのでしょうね・・・

               

〇水田跡は、台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしています。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに日本で最も早く稲作農耕が開始されました。

「板付遺跡」は、日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡です。遺跡内にある「板付遺跡弥生館」では、ここで出土した遺物である土器、石器等を見ることが出来ます。

「板付遺跡」は、当時の自然環境を知ることのできる自然遺物が検出されている重要な遺跡です。

久しぶりに「板付遺跡」に行ってきました。最初にここに来たには、数十年前に水田跡が発見され、当時の人の足跡が発見されたニュースを聴いてすぐに見に行きました。その足跡が、板付遺跡弥生館に展示してあり久しぶりの再会に感激でした!

「奴国」は、2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。「板付遺跡」は、その場所の一つだったかもしれませんね!?

「 奴国を歩く」シリーズも、次回はいよいよ最終回となります。

              

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