泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

福岡よかとこ「筑前の小京都秋月」

2018年08月29日 15時16分16秒 | 旅行

旅好きなのですが、飛鳥に住みだして以前ほど旅に出なくなりました。それでも、年に数回程度国内外を旅しています。

今回から「小さな旅」で出会った風景ということで、時折紹介したいと思います。

第1回目は、福岡よかとこ「筑前の小京都秋月」です。

久しぶりに、秋月に行ってきました。朝倉市秋月は、福岡市から車で約1時間の所です。標高約860mの古処山の麓の町で三方を山で囲まれ、南に開けた城下町です。

(秋月散策)

城下町入り口(野鳥川)ー野鳥川沿い(寅さんロード)ー眼鏡橋(日本で唯一花崗岩でできた石橋で、1810年に完成)ー杉の馬場ー秋月城跡(現在は、木造建築の秋月中学校となっています。江戸時代の石垣や長屋門・黒門を見ることができます)ー武家屋敷(江戸時代初期の上級武士の久野邸・藤沢周平さんの時代劇で出てきそうな田代邸)ー月見坂ー秋月博物館(平成29年完成で絵画・鎧等が展示されています)-古心寺(秋月黒田家歴代藩主の墓)ー太閤腰掛石ー日限地蔵院(武者返しの石垣が見事)-廣久葛本舗(江戸時代から続く葛のお店です)ー清流庵(秋月唯一の温泉旅館)ー街景色

好きな「フーテンの寅さん」シリーズの第28作「寅次郎紙風船」でロケされた所でもあります。秋月での好きなシーンは、町の中央を流れる野鳥川に沿って眼鏡橋を歩く「寅さん」。この場所は、今でも「寅さん」がふっと出てきそうな、時が止まったような静かな所ですよ。

城下町としての「秋月」の歴史は、鎌倉時代に秋月氏が古処山(こしょざん)に山城を築いたことから始まります。秋月氏16代によって支配された後、江戸時代には福岡藩主となった黒田氏12代によって、秋月の治世が行われました。鎌倉~江戸を経て明治時代までの長きにわたって城下町として栄えた秋月には、現在も多くの史跡が保存されていることから、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。その美しい城下町の景観から、「筑前の小京都」とも評されています。

春は桜、秋は紅葉の名所としても名高く、多く人々が観光に訪れています。まるで当時にタイムスリップしたかのような雰囲気を漂わせる城下町です。周囲の田園風景と調和した様子は、何度でも行きたくなる、福岡よかとこ「筑前の小京都秋月」ですよ~!

                                                    

 

 

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太宰府天満宮の開運パワースポット 「天開(てんかい)稲荷社」

2018年08月22日 15時44分04秒 | 散歩

久しぶりに、太宰府天満宮にお参りに行ってきました。暑いさなか、多くの参拝者がおられました。

せっかくなので、太宰府天満宮の開運パワースポットにも行ってきました。

太宰府天満宮の中の奥の宮に位置する「天開(てんかい)稲荷社」です。「天開稲荷社」は、運を開く神社として知る人ぞ知る隠れたパワースポットです.

今回は、太宰府天満宮の開運パワースポット「天開(てんかい)稲荷社」を紹介したいと思います。

太宰府の「天開稲荷大明神」は、開運の神様として有名です。

「天開稲荷社」は、鎌倉末期に京都の伏見稲荷大社から御分霊を御遷してお祭りしたお社だそうです。天に開かれたお社とされ、五穀豊穣、商売繁盛、そして人々に開運と幸福をもたらす神様なのです。御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。人々の命の根源である食物、特に稲の成長を守護する神様です。

「天開稲荷社」は、運を開く神社として知る人ぞ知る隠れたパワースポットです.

太宰府天満宮にご参拝のおりには、是非とも「天開稲荷社」まで足をお運び下さい。奥の院には、古墳を思わせるような所で小さな社もありますよ!

ところで、次回より「小さな旅で出会った風景」等も紹介したいと思っています。どうぞ宜しくお願い致します。

                            

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ドラマチックな「飛鳥の夕焼け」

2018年08月13日 14時44分35秒 | 散歩

奈良県明日香村は、1400年前の飛鳥の時代に都が置かれた古都として数多くの史跡が点在しています。

歴史的景観と共に、農を礎とする景観と相まって歴史的風土が奏でる情景で人びとを魅了しています。ここは「日本の国のはじまりの地」であり、深い歴史と豊かな自然が息づく飛鳥は、「日本の原風景」であり「日本人の心のふるさと」とも呼ばれています。

今回は、ドラマチックな「飛鳥の夕焼け」を紹介したいと思います。

飛鳥の魅力の一つに、「夕焼け」の景色があります。

「夕焼け」がとても綺麗な時期は、春の田植えが始まる5月から7月にかけてです。特に、夏の「夕焼け」の景色は見事です。

細川谷の棚田や古宮土壇の夕焼けの風景は飛鳥のスポットですが、飛鳥寺がある真神原や飛鳥宮跡からみた甘樫丘の夕焼けが、特に素敵です。

「飛鳥の夕焼け」は、眺めているだけで、その場に立っているだけで、自然と涙が溢れてしまうような景色ですよ!

                         

 

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日本最古の尼寺である 「豊浦寺跡(向原寺)」

2018年08月04日 15時24分56秒 | 歴史

「向原寺(こうげんじ)」は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある浄土真宗本願寺派の寺院です。境内地は、百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀った「向原(むくはら)の家」の故地とされ、7世紀には推古天皇の「豊浦宮」や日本最古の尼寺である「豊浦寺」が営まれました。飛鳥時代には、五大寺の一つにも数えられたお寺でした。集落 のなかにひっそりと建つこの寺には、驚くような歴史が詰まっています。

今回は、日本最古の尼寺である「豊浦寺」について紹介したいと思います。

「日本書紀」では、552年に百済の聖明王から金銅の釈迦仏などが献上された際に、物部氏や中臣氏らの反対を抑え、蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り、それを寺として安置したことが始まりとされています。しかし、その後に疫病が流行しました。これを国神の祟りとして排仏派たちは、仏像を難波の堀江に流し寺を焼き払いました。

現在の「向原寺」周辺には「豊浦寺」の遺構が残っています。1957年以降発掘調査が実施されて、塔・金堂・講堂の跡が検出されています。1985年の発掘調査では、現「向原寺」境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層には石敷と掘立柱建物の跡が確認されました。「豊浦宮」の跡に「豊浦寺」が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられました。出土瓦の編年から、豊浦寺講堂は7世紀第2四半期の建立と推定され、その下層の掘立柱建物はそれ以前の建立となります。「向原寺」のすぐ南の集会所のあたりにも建物跡があり、これが金堂跡と推定されています。金堂跡のさらに南の小字「コンドウ」では、1957年の調査で塔跡とみられる14メートル四方の基壇と礎石が検出されています。ただし、塔跡の基壇は金堂跡・講堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体がどのような構成であったかは未解明のようです。

ところで、日本最古の尼寺である「豊浦寺跡(向原寺)」には、興味深い話があります。

その1は、「豊浦寺跡(向原寺)」と「座光寺」・「信州善光寺」の話です。

「善光寺縁起」によると、信濃の住人である本多善光が都へ上都の際に「難波の堀江」の前を通りかかると、物部氏に投げ込まれて池に沈んでいた仏像が金色の姿を現し、「善光こそが聖明王の生まれ変わりである」と告げられます。善光はこの仏像を背負って信濃に帰り、自宅の西の間の臼の上に置いて手厚く祀ったといい、それが「善光寺」の始まりとされています。「信州善光寺」を開山した本田善光が最初にご本尊を安置したのが、長野県飯田市にある「座光寺(元善光寺)」です。 

「元善光寺縁起」によれば、信州麻績の里(現在の長野県飯田市座光寺)の住人、本田善光が難波の堀から一光三尊の如来像を発見し「すすぎの滝」で清め信濃に持ち帰りました。自宅西側の部屋の床の間に臼を置き、その上に安置したのが起源とされています。朝夕、如来様を礼拝供養し、そのご利益は広く世間にも知られるようになりました。そこで、小さなお堂を建ててお移ししたが、朝になると決まって元の臼に戻ってしまわれます。 如来様は「たとえ立派なお堂に安置されていても私の名を唱える者がいないところには住めない。私はいつも西にいる。」。本田善光はそれを聞いて41年もの間、臼の上に安置して供養したと伝えられています。
その後、如来様のお告げによって長野に遷座し建てられたお寺が、善光の名をとって「善光寺」なのです。一方で、飯田市にある「座光寺」には勅命によって木彫りの三尊像が残され、「元善光寺」と呼ばれるようになったそうです。

この「向原寺」のすぐ南には、「すすぎの滝」や「難波池」という小さな池があります。ここに物部氏たちが仏像を捨てたとされている「難波の堀江」なのでしょうか・・・ 

「豊浦寺跡(向原寺)」は、「日本最古の尼寺」であり、「百済仏教伝来の寺」であり、「信州善光寺」・「座光寺」の真の「元善光寺」かもしれませんね。

その2は、「向原寺」のお堂の中にある高さ約40cmの「観音菩薩像」です。

昭和の時代まで人々に守られ祀られていた金銅仏ですが、昭和49年に盗難事件が起きました。 何十年も戻ってくることはなかったのですが、2010年にオークションに出品されているのを金銅仏を研究していた大阪の大学院生が偶然見つけ寺に連絡し、「向原寺」の寺宝は36年ぶりにお帰りになられました。
「観音菩薩像」の頭部は、飛鳥時代後期に日本国内で造られたもので、首から下や光背、台座は江戸時代の後補だそうです。この金銅仏が発見されたのは、江戸時代の1772年のことだそうです。「向原寺」のすぐ南にある難波池からこの仏像の頭部だけが発見され、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造して接合して厨子に入れられました。これが、頭部は飛鳥時代首から下が江戸時代という一風変わった金銅仏です。そのお顔は、杏仁形といわれる杏の種のような目、角形ながらもふっくらとした頬、下鼻の膨らみがない鼻の形、口の両端が少し上がったアルカイックスマイルと飛鳥時代の特徴がよく出ています。

どこか飛鳥大仏と共通するようなお顔でした。以前から拝顔したかった「観音菩薩像」でしたので、とても感激しました。

また境内には、模様が描かれている「謎の石」や「講堂の礎石」などを見ることが出来ます。

近くには、蘇我氏邸宅の苑池跡等ではないかとする「古宮土壇」や、謎の「立石」の前に釜を据え煮え湯の中に手を突っ込んで真偽を判断するという「盟神探湯神事(くがたちしんじ)」で有名な、「甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)」を見ることが出来ます。

「豊浦寺跡(向原寺)」は、飛鳥周遊の中心地ではありませんが、驚くような歴史が詰まっていますので、是非とも立ち寄られることをお奨めします!

                                      

 

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