泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

牛頸(うしくび)須恵器窯跡の「長者原窯跡群・石坂窯跡群」現地説明会

2019年12月28日 17時25分01秒 | 歴史
以前、奴国を歩く4「奴国内にある須恵器窯跡」で、「牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)」を紹介させていただきました。(2019年8月23日)
今回、牛頸(うしくび)須恵器窯跡の「長者原窯跡群・石坂窯跡群」現地説明会がありましたので、紹介したいと思います。
九州最大の須恵器の窯跡群である「牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)」は、6世紀中頃から9世紀中頃にかけて操業された西日本最大規模の「須恵器窯跡群」です。
福岡県大野城市上大利・牛頸を中心とし、春日市・太宰府市に分布します。分布調査の結果、窯跡は東西4㎞、南北約4.8㎞の範囲に分布し、本来600基前後の窯跡があったと推定されます。
窯構造は地下式窖窯であり、6世紀中頃から末にかけて大型化が進み、6世紀末〜7世紀前半には全長が10mを越す大型のものが多くなり、それ以後は小型化していきます。
12月21日に、現地説明会が福岡県大野城市牛頸の牛頸ダムの南にある「長者原窯跡群」で行われました。今回調査が行われたのは、「牛頸窯跡群」を構成する窯跡群の一つにあたる「長者原窯跡群・石坂窯跡群」です。
 「長者原窯跡群」では、調査の結果4基の窯跡が横一列に並んで見つかりました。いずれも長さ3~4m程の小型の窯と考えられています。時期は、8世紀中頃から後半と考えられています。出土品としては、蓋杯・皿・高坏といった食器が中心で壺やかめもわずかに生産していたようです。
 当日、現地では発掘された土器を見せてくれました。発掘現場では、発掘責任者による説明が行われ約30名位の方が熱心に見学されていました。展示されている窯跡は見たことはありますが、発掘されたばかりの窯跡を見たのは初めてのことで感激しました。 丁度、煙をだす「煙道部」と製品を並べ焼き上げる場所の天井部分の「焼成部」を見ることが出来ました。約1000度の高温で焼くため、土の色が赤色になっていました。
この下を掘るとひょとして土器を焼く焼成部の空洞があるかもしれないということでしたが、今回の調査は上部だけのことでした。
 
また、「長者原窯跡群」から約2キロ西にある「石坂窯跡群」では、同様な窯跡が3基見つかっています。同じ職工集団だったと思われています。こちらでは、とても珍しい土器が発見されました。それは「風字硯(ふうじけん)」というものの一部です。上級役人が使用したものと考えられる硯のことです。これは、近くに「大宰府」という九州を統治する役所があり、そこの役人に供給されたのかもしれませんね。残念ながら、こちらの窯跡群は埋め戻されています。
この「牛頸窯跡群」で生産された須恵器は、当時の九州最大の都市でであり役所であった「大宰府」や筑前国一体に供給されたと考えられています。
今回の発掘現場は、いつも散策している場所で、須恵器のかけらをよく見かけていました。まさか、その道沿いの約50㎝下に窯跡が埋まっているとは思いもしませんでした。
ところで、2019年度の「泉飛鳥儒」のブログは、これが最後となります。拙いブログを見ていただき、ありがとうございました! 泉飛鳥塾(ブログ)をはじめて7年目となりますが、今年度はじめて「いいね!」をいただきました。
ありがとうございました。とても、嬉しかったです!2020年の2月頃には、久しぶりに博多の地を離れて「飛鳥」に戻る予定です。今まで以上に、「飛鳥」等の魅力を発信していきたいと思っています。どうぞ、宜しくお願い致します。
         「2020年、皆様にとって良い年でありますように!」
 

                             

 

 

 
 
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古代の「百済の地を訪ねて(熊津城)」(5)

2019年12月24日 08時43分12秒 | 歴史

古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」に、「白村江の戦い」の舞台に歴史散策に行ってきました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)の様子を、紹介しました。

この日は、光州市にある「熊津城(ウンジンソン)」に行きました。この城は、「泗沘城」と共に「白村江の戦い」の舞台の一つで、今回楽しみにしていた場所の一つです。

今回は、古代の「百済の地を訪ねて(熊津城)」(5)の様子を、紹介したいと思います。

百済時代には「熊津城」と呼ばれていた「公山城(コンサンソン)」は、韓国中部の忠清南道・公州(コンジュ)にあり、朝鮮三国時代の百済(ペッチェ)の時代に造られた城郭です。百済の「文周(ムンジュ)王」が、475年に現在のソウルから首都を移してから64年の間、都を守る役割を果たしました。城壁は東西に約800m、南北に約400m、全長2,660mで、もとは土城でしたが、朝鮮時代に石城に改築されました。城内に各時代別に多くの遺跡や遺物が残っており、すぐそばに錦江(クムガン)が流れています。2015年に、百済歴史遺跡地区としてユネスコ世界文化遺産に指定されました。110mの公山の頂上から西側の峰にかけた稜線と渓谷に沿って、長方形に取り囲むような包谷式の「公山城」は、高さ2.5m、幅3mの城壁はほとんどが改修されており、東西に約800m、南北に約400m、全長2,660mになります。各時代別に多くの遺物が残っている「公山城」は、百済時代には「熊津城」と呼ばれましたが、高麗時代から「公山城」として呼ばれており、史跡第12号に指定されています。

「白村江の戦い」の舞台であったとは思えないほど「熊津城」は、公山の頂上から西側の峰にかけた稜線と城壁の景色と錦江からの歴史的景観がとても素晴らしかったです!如何にも、朝鮮式のお城という感じでした。

丁度紅葉が見頃で、市民のウオーキングで一杯でした。

                                  

「白村江の戦い」の舞台の一つである熊津城」の歴史散策、とてもよかったです。昼食は、熊津城」が見える所でとりました。今回、歴史散策と共に楽しみにしていたのは、韓国料理でした。今回のツアーは、3食付きで、この日のお昼は、ユッケビビンバでした。名物の栗が入ったビビンバは、とても美味しかったですよ!どの料理も美味しかったので、ちょっとだけ紹介したいと思います。(扶余の町・光州の栗が入ったビビンバ・扶余のもち米の入った蓮の葉定食・扶余の松茸入りのイカと豚肉のプルコギと栗のマッコリが、特に、美味しかったです。)

古代の「百済の地を訪ねて」シリーズも、いよいよ後2回となりました。次回は、古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)の様子を、紹介したいと思います。

     



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古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)

2019年12月18日 13時49分41秒 | 歴史

古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」に、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)の様子を、紹介しました。

この日は、「扶余」を離れて光州(コンジュ)市に行きました。

今回は、古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)の様子を、紹介したいと思います。

〇朝鮮三国の一カ国だった百済が475年、ソウルの漢城から熊津(ウンジン)(現在忠清南道・公州市)に南下し、さらに538年泗沘(サビ)(現在忠清南道の扶余郡)へ遷都するまでの王都として知られている公州には、64年間百済首都だった熊津時代に造成されたと伝わった百済王陵「宋山里(ソンサンニ)古墳群」があります。

海抜130メートルの宋山(ソンサン)の緩やかな稜線のに位置している「宋山里古墳群」は、もともと17つの古墳がありましたが、百済の第25代の「武寧王(ムリョンワン)」の古墳である武寧王陵(ワンヌン)をはじめ、王や王族の7つの古墳だけが復元されています。

「宋山里古墳群」は、発見される前までは森だったそうです。宋山の標高130mの南側の傾斜面に位置している古墳群です。7つの墓がある宋山里古墳ですが、「武寧王」の墓である武寧王陵以外は、盗掘されたためいまだに誰の墓なのか判明されていません。また、石墓の1~5号墳に対し、武寧王陵と6号墳は中国の影響を受けたと思われるトンネル型のレンガで造られた墓になっています。古墳群のある一帯は自由に上れるようになっており、錦江(クムガン)や鶏龍山(ケリョンサン)なども見え公州市内を一望できます。また、武寧王陵や5号墳、6号墳を再現し復元した「宋山里古墳模型館」があり、古墳の中から見つかった副葬品や当時の衣装なども展示されています。古墳の形は日本と同じなのですが、「宋山里古墳模型館」での復元した玄室の中に入ってみると、あきらかに日本の玄室とは違っていて大変興味を持ちました!
                              

〇「国立公州博物館」は、忠清南道の北部地域から発掘された文化財を保管・管理している博物館で、1971年発見された百済時代の「武寧王」(501~523)と王妃の墓である武寧王陵から出土した文化財を特別管理しています。この博物館では、武寧王陵から出土した遺物のほとんどを観覧することができ、現在の博物館の建物はその文化財を展示するために新しく建てられたものです。武寧王陵以外にも多くの遺跡や遺物を発掘してきたこの博物館は、2つの展示室があり、現在は国宝19点と宝物4点などを含む、約1000点の遺物が展示されています。第1展示室では、武寧王陵から出土した遺物が展示されており、金でできたベルトや腕輪、青銅の鏡や、実物大の武寧王陵の墓の模型が展示されており、王陵内部も見ることができます。公州は忠清南道のほぼ中央に位置します。かつて百済の王都だった時代があり(475年~538年の五代、63年間)、その頃は熊津(ウンジン)と呼ばれていました。そしてこの公州には宋山里古墳群があり、武寧王陵をはじめ、王や王族の7つの墓が群集しています。因みに後に、武寧王の子である第26代聖王が538年に、熊津(現・公州)から泗沘(現・扶余)に都を移しました。また、この聖王によって仏教が日本に伝えられたのです。「武寧王」の陵墓の墓誌石には王は、523年5月7日に亡くなり2年あまりの殯(もがり)の後、525年8月12日に王陵に埋葬され、王妃は526年12月に亡くなり、殯の後529年2月12日に王陵に埋葬されたということが分かります。
この墓誌から、埋葬されていたのが「武寧王」だと特定できました。よくも盗掘にあわずに完璧な形で出現した王陵は、韓半島の考古学史上最大の発見の一つといわれます。

武寧王陵は、王妃を合葬した磚室墳(焼成煉瓦を積み重ねた墳墓)で、玄室には王と王妃の棺が並んでいました。そして、この木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)と判明したことにより、当時の日本と百済の関係に大きな注目が集まったということです。

今回の歴史ツアーで楽しみにしていた一つに、武寧王陵から出土した遺物の見学でした。想像して以上に素晴らしいものでした。特に、木棺に興味を注がれました! これだけの副葬品は、日本でなかなか見ることができませんね。しいて言うなら、奈良県駒郡斑鳩(いかるが)町の「藤ノ木古墳」の副葬品(冠や馬具、銅鏡など)ですかね~  

ところで、韓国でいくつかの博物館を見学して思ったことは、どの博物館もとてもわかりやすく整備されていることです。しかも、国立博物館の入館は無料なのです。また。写真撮影が許可されていることにも驚きました。そのおかげで、今回も多くの文化財を紹介することができました。

次回は、古代の「百済の地を訪ねて(光山城)」(5)の様子を、紹介したいと思います。

 

                                 

 

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古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)

2019年12月14日 09時35分26秒 | 歴史

古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」に、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。「白村江の戦い」を中心にした歴史散策となりました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)の様子を、紹介しました。

今回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)の様子を、紹介したいと思います。

〇「扶余陵山里(ヌンサンニ)古墳群」(ユネスコ世界文化遺産)は、扶蘇山城(プソサンソン)のある忠清南道・扶余中心部から、約2kmの場所にある百済の王室墓地です。

6世紀から7世紀にかけて造られた百済時代の古墳が、現在7基残っています。 この場所は、いわゆる風水思想で選ばれた典型的な墓地の地形を示しています。裏山を朱山とし、東方の青龍、西方の白虎、前には塩倉里の山を南側の朱雀とし、墓地の前方に川が通っています。

  陵山里1号墳は、四方の壁と天井が片麻岩で築造してあり、石壁に四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が東西南北の四方を守るように描かれています。本物は扉で閉ざされていますが、近くに造られたレプリカの古墳で、石室内の様子を観察することができます。ちなみに日本で四神を描いた古墳としては、7世紀末から8世紀初頭に築かれた明日香村にある高松塚古墳とキトラ古墳があります。ひょっとして、明日香村にある二つの古墳の四神の源流の一つかもしれませんね・・・

古墳群は、 泗沘(サビ)時代に城壁・扶余羅城の外側に作られ百済が王族の陵墓の空間を一定の場所に指定したという泗沘時代の古墳文化を、うかがうことができる遺跡となっています。この古墳群の場所は、さすがに風水思想で選ばれた百済の王室墓地ということで、気が流れているのが体感できました。何か、気持ち良いと感じました。初めての体験でした!

また、国宝が出土した百済王室寺院跡「扶余陵山里寺址」も敷地内にあります。

                             

〇「扶余陵山里寺址(ヌンサンニサジ)」は、百済の歴代王たちの冥福を祈るため陵山里古墳群に隣接して567年に建立された王室寺院跡と推定されています。

1995年の発掘調査で、蓮と仙人が住むとされる三神山の彫刻が施された「百済金剛大香炉(国宝287号)」と、舎利を保管する「百済昌王銘石造舎利龕(がん)(国宝288号)」が出土しました。
特に「百済昌王銘石造舎利龕」の銘文から、陵山里寺に昌王(チャンワン、威徳王のこと)の姉である妹兄(メヒョン)姫が舎利を供養したことが判明し、陵山里古墳群が陵墓(王族の墓)であることが証明されたといいます。
現在この2つの国宝は、「国立扶余博物館」で見ることができます。1993年12月12日に、泗沘都城扶余を囲む羅城と陵山里古墳群の間にある百済時代の寺址から発掘されました。高さ64センチ、胴体の直径19センチで、台坐部と胴部、蓋部に分かれ、台座部の龍が天空を仰ぎ香炉をくわえています。香炉胴部には、24枚の蓮の花が3段に配置されて、葉の一枚一枚に不死鳥や魚、鹿、鶴などが浮き彫りに彫刻され、万物が蓮の花から誕生する仏教の世界観の蓮花化生觀を表現しています。 6世紀ごろの百済人の精神世界を、芸術的に凝集させた華麗なる作品だと評価されています。博物館で実物を見ることができ、大変感激しました!
「扶余陵山里寺址」は、陵墓の近くに王室寺院をおいたという泗沘時代の祭祀の風習をうかがうことができるため、「扶余陵山里古墳群」とともに貴重な百済遺跡にあげられています。遺跡のすぐ近くには、「扶余羅城」跡が残っており、素晴らしい歴史的景観でした。

                           

 〇「国立扶余博物館」は、百済時代の発掘物の宝庫で国宝の「百済金銅大香炉」が展示してあります。朝鮮三国時代の百済(ペッチェ)。その首都だった都である「扶余」に、「国立扶余博物館」はあります。土器にうわぐすりを塗った陶器や仏教彫刻などの遺物25,000点を所蔵し展示しています。百済時代の代表遺物と言われる百済金銅大香炉(ペッチェクムドンテヒャンロ)や昌王銘石造舎利龕(チャンワンミョンソッチョサリガム)、「百済の微笑」として知られる金銅弥勒薩立像(クムドンミルッポサルイッサン)、職人の高い芸術性が伺える蓮華文軒瓦(ヨンコッムニスマッセ)など見ごたえがある博物館でした!

ところで「百済金銅大香炉」は、井戸跡(復元)から発見されたそうです。唐・新羅の連合軍に攻められ、百済国の宝(心)を奪われるのを防ぐために、ひょうとして誰かが井戸に投げ入れたかもしれませんね・・・

次回は、古代の「百済の地を訪ねて(宋山里古墳群・国立光州博物館)」(4)の様子を紹介したいと思います。

                      

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古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)

2019年12月10日 09時30分11秒 | 歴史

「古代飛鳥」の歴史を語るには、百済の国の地(歴史)を知らないといけないと思い、11月中旬に古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」の4日間、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。「白村江の戦い」を中心にした歴史散策となりました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(扶蘇山城・皐蘭寺・宮南池)」(1)の様子を、紹介しました。

今回は、古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)の様子を、紹介したいと思います。

〇古代王国百済の仏教文化がもっとも花開いた泗沘(現在の扶余)時代(538年~660年)の中心に建設された「定林寺(チョンニムサ)」は、百済王室のもっとも重要な大寺院だったとされています。現在寺院そのものは残っていませんが、建物を南北一直線状に配置した典型的な百済様式の寺院で、金堂址、中門址、回廊址、講堂址などが確認・保存されています。 一番のみどころは中央にそびえる五層石塔。百済時代から1400年の歳月、雨風に打たれながらその姿を現代までとどめており、2015年にはユネスコ世界文化遺産にも指定された国宝です。百済を攻めた唐の将軍蘇定方は、この石塔初層の塔身に戦勝を記念して「大唐平百済国碑銘」と刻み、この銘文によって、百済滅亡の「そのとき」の歴史を今の私たちに語ることとなったのです。風化が進んでいましたが、僅かながら石塔の下段の端に僅かながら見ることが出来ました。百済滅亡の銘文と思うと、何か心が痛む思いでした!

「定林寺」は、王宮・泗沘城と別宮の美しい庭園・宮南池の間、すなわち都の中心に建設され、百済王室のもっとも重要な大寺院だったとされています。明日香村にも、立部という所に聖徳太子が建立したとされる「定林寺」跡があるのですが、何か関係があるのでしょうか・・・

 百済滅亡後、高麗時代に再び繁栄した「定林寺」の本尊仏だったと考えられている石仏坐像(5.62m)。右手部分や左ひざなどの破損・摩滅がひどく詳しい技法や様式はわかっていませんが、狭い肩幅や胸の位置にある左手などから毘盧遮那(びるしゃな)仏であることはほぼ確実視されています。現在石仏坐像は、新しく建てられた講堂に安置されています。

敷地内には、「定林寺址博物館」もあります。泗沘時代の百済の仏教思想・文化について、「定林寺」に焦点を当てて展示されています。五層石塔の詳しい解説や、泗沘時代の定林寺を再現した模型など、興味深い内容に触れられます。明日香村飛鳥にある「飛鳥寺研修会館」敷地内において、五層石塔をみることができますよ!

                                          

〇「王興寺跡」は、明日香村にある日本最古の寺院とされる「飛鳥寺」のモデルが、百済の「王興寺」である可能性が高いと言われています。百済滅亡後、廃墟と化した王興寺は、百済第27代・威徳(ウィドク)王(在位554〜598)が、先立った王子の冥福を祈るために建てた寺院。国立扶余(プヨ=百済の古都)文化財研究所が、出土した金・銀・青銅の舎利容器(博物館で見学できます)を分析した結果、577年2月に創建されたことが判明しました。日本書記には、「飛鳥寺建立のため、577年11月、百済王(威徳王)が技術者を日本に送り、588年に仏舎利を送った」という記録が残っています。ひょうとして、この寺を造営した職人さん達の集団が倭国に招かれて「飛鳥寺」の造営に関わった可能性があると思うと、何か不思議なものを感じました! そう言えば、「飛鳥寺」は「法興寺」とも言います。「王興寺」との名と何か関係があるのでしょうか・・・残念ながら、現在は説明板があるだけで野原の状態でした。

       

〇韓国の中部、忠清南道(チュンチョンナムド)の「扶余」と言えば、韓国・三国時代の百済の最後の都が置かれたことでも有名です。そんな百済の歴史を感じられるテーマパークが、「百済文化団地」です。「正陽門」と書かれた大きな門が正面入口になります。園内は広大で百済時代の宮殿を再現した「泗沘宮(サビグン)」、五重の塔もある「陵寺(ヌンサ)」、「古墳公園」、展望台「済香楼(チェヒャンヌ)」、「生活文化村」、「慰礼城(ウィレソン)」の計6エリアに分かれており、テーマごとに百済時代が感じられるようになっています。韓国ドラマでも、使われたそうです。今までこのような、歴史を感じられるようなテーマパークは見たこともありませんでした。一つ一つがしっかりと造られており、百済の歴史を感じさせられる凄い施設で大変驚きました!次回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)を、紹介したいと思います。

                     

 

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