泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

まほろばの里 「大宰府(観世音寺)」

2014年12月26日 21時22分13秒 | 歴史

福岡県太宰府市にある「観世音寺」は、661年、百済を援けるため、飛鳥の宮廷をあげて九州に来た「斉明天皇」は、「朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉)」で亡くなりました。子の中大兄皇子(天智天皇)は、母親の菩提を弔うために大宰府に「観世音寺」を建てることを発願しました。(飛鳥では、川原寺を建てました。)それから、およそ80年の歳月を費やして746年に完成しました。「観世音寺」は、九州中の寺の中心となり「府の大寺」と言われました。「大宰府政庁」の隣に位置し、そこには講堂、金堂、五重塔、門など七堂伽藍の整った大寺院でした。

現在寺域では、「戒壇院」・「日本最古の鐘」・「玄の墓」等を見ることができます。

「戒壇院」は、奈良時代には日本に三か所しかありませんでした。僧尼は「戒壇院」で戒を受けなければ、正式の僧尼と認められませんでした。「観世音寺」は、「戒壇院」をもつことによって、西海道(九州)中の僧尼、寺院を管轄下におき、名実ともに「府の大寺」となりました。

寺域には、「菅原道真公」も聞いたといわれる、日本最古の鐘(698年)を見ることができます。

また、「玄の墓」と呼ばれる所があります。玄は、「観世音寺」が完成した時の別当でした。奈良の宮廷で権力をふるいましたが、左遷されて「大宰府」に来ました。そして、「観世音寺」落慶法要の日、藤原広嗣の残党により暗殺されました。

「斉明天皇」は、どのようなおもいで九州の地に来たのでしょうか!                                           

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代史の謎 「吉野ケ里遺跡」

2014年12月17日 16時33分06秒 | 歴史

「魏志」倭人伝に初めて記された「邪馬台国」の名前。その所在を巡って古くから論争が続いています。決定的な証拠がないため、「九州説」と「畿内説」の対立は解決をみません。「九州説」派は、「魏志」倭人伝をはじめとする文献の記述を、大きな論拠としています。一方の「畿内説」派は、巨大な遺跡(纏向遺跡等)や古墳を調査した考古学的な視点から、その可能性を強く主張しています。

また、「魏志」倭人伝の中では、倭国の女王として記されている「卑弥呼」。「邪馬台国」に居住し、30ほどの国を治めていたと言われています。

今回は、「九州説」を裏付ける根拠のひとつとされる、佐賀県東部に位置する「吉野ケ里遺跡」を撮ってきました。「魏志」倭人伝に書かれた施設がそろう「吉野ケ里遺跡」。

現在、「主祭殿」・・・クニ全体の重要な事柄を決める会議を行うほか、祖先の霊への祈りなどを行った中心的な施設。

「城柵」・・・杭や木をたて、敵の侵入を防ぐ役割を持つ。

「楼観」・・・兵士が、侵入者を厳重に見張っていたと考えられる。

「竪穴式住居」・・・地面に柱を立て、その上にわらなどで屋根をふいて作られた。「邪馬台国」には、住居が7万戸あったと言われています。

等を見ることができます。

 

日本初の「古代国家」はいったいどこにあったのでしょうか、そして、謎多き女王「卑弥呼」の正体とは・・・

古代に思いをはせながら、「吉野ケ里遺跡」を巡ってきました!

                         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代史の謎 「物部氏終焉の地」

2014年12月09日 16時27分03秒 | 歴史

「仏教」は百済の聖明王から、欽明天皇に対して伝えられました。仏教伝来の時期については、552年説(日本書紀)と538年説(上宮聖徳法王説)(元興寺縁起)があります。

この仏教をめぐって、新興豪族の「蘇我氏」と在来豪族の「物部氏」が対立しました。この仏教を巡る対立は、「蘇我稲目」と「物部尾輿」から、息子の「蘇我馬子」と「物部守屋」の代になっても続きました。

そしていよいよ、仏教の礼拝を巡って「蘇我馬子」と対立した「物部守屋」が、587年に河内国の渋川(大阪府八尾市)において、「丁未(ていび)の乱」を起こして、滅ぼされました。

「日本書紀」には、この戦闘で当時16歳だった「うまやどの皇子(聖徳太子)」も参戦したと記されています。馬子軍側が苦戦を強いられた時、「うまやどの皇子(聖徳太子)」が四天王像を刻み、守屋を倒すことができたら「寺と塔」を建てようと請願しました。馬子も同様に請願をしました。戦勝祈願のかいあって守屋は、「とみのおびといちい」という人の矢に倒れました。請願通り、「うまやどの皇子(聖徳太子)」は難波(大阪)に「四天王寺」を、馬子は飛鳥(奈良)に「法興寺(飛鳥寺)」を建てました。

こうして、半世紀に及んだ「蘇我氏」対「物部氏」の対立は、終止符が打たれました。

今回は、古代史における「丁未(ていび)の乱」(物部氏終焉)の地、河内国の渋川(大阪府八尾市)を撮ってきました。

河内国の渋川(大阪府八尾市)には、「うまやどの皇子(聖徳太子)」が自ら戦勝を祈願し、不利な戦況をくつがえして、物部軍から勝利をおさめた戦場跡とされる「大聖勝軍寺」、守屋を討ち取った「とみのおびといちい」が、首を洗って皇子に奉じたと伝承される「守屋池」(2か所)、「とみのおびといちい」の放った矢等を埋めたとされる所、守屋の「お墓」とされる所、「物部氏」にかかわる神社等、数々の史跡が残っています。古代に思いをはせながら、色々な所を巡りました。とても充実した一日でした!

                      

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥の神奈備 「甘樫丘(あまかしのおか」

2014年12月01日 20時11分17秒 | 散歩

飛鳥には、「神奈備(かんなび)」(神々が降臨され、鎮まる山)と呼ばれる所が数か所ありますが、今回はその一つとされる「甘樫丘」を撮ってきました。

この場所は、日本書紀によると「蘇我大臣蝦夷とその子入鹿臣は、家を甘樫岡(うまかしのおか)に並べて建てた。大臣の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷(はざま)の宮門と呼んだ。また、その男女を王子(みこ)と呼んだ。」と記されています。645年の乙巳の変(大化の改新)の前年のこととして記されています。

現在展望台からは、飛鳥や大和三山(畝傍山・耳成山・天の香久山)を一望することができます。飛鳥の中でも最も景色がよく、多くの方が散策に来られています。

まだ紅葉が残る「甘樫丘」を、歴史に思いをはせながら散策してきました!

                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする