泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

文武天皇陵であることが確定的となった「中尾山古墳・現地見学会」

2020年11月29日 20時42分27秒 | 歴史

奈良県明日香村平田にある「中尾山古墳」において、11月28・29日(10時から15時)に現地見学会が開かれました。

今回は、文武天皇陵であることが確定的となった「中尾山古墳・現地見学会」の様子を紹介したいと思います。

「文武天皇」は持統天皇の孫で、707年に飛鳥の岡で火葬され「安古(あこ)」という場所に葬られたと伝えられています。宮内庁は、近くにある古墳「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」を文武天皇陵としていますが、専門家の方は以前から、立地や構造などから中尾山古墳ではないかと考えられていました。今回の発掘調査で、中尾山古墳が真の「文武天皇陵」であることが確定的となりました。

古墳は、1974年に発掘された天皇陵に特徴的な八角墳です。新たな調査では、墳丘は3段の八角形で下段(一辺約8メートル)と中段(同約6メートル)は石を敷き詰めて築かれていて基壇状でした。上段(同約5メートル)は、土を突き固めた版築土(はんちくど)のみでつくられていました。今回の調査では、8世紀初めに築かれた古墳が3段築成の八角形墳であることや、周囲を3重の石敷きが巡っていたことがわかりました。石室は、計10の石材を組み合わせて横に口が開いている「横口式石槨(せっかく)」と呼ばれる構造です。内部は約90センチ四方の空間で、壁面は丁寧に磨き上げられ、全体的に水銀朱で赤く塗られていました。中央部には60センチ角のくぼみがあり、火葬した骨をおさめた器を安置する場所だったとみられています。古墳全体では、計約560トンの石材が使われていたようです。また、墳頂部に装飾として置かれていたとみられる鴟尾(しび)状の「沓形(くつがた)石造物」も出土しました。はじめて見る、不思議な石造物でした。

八角墳は、飛鳥時代の天皇墓の特徴と言われていますが、全国的には小規模ですが八角墳が数例確認されているようです。(八角墳については以前、古代史の謎「八角墳は大王の墓?」(2018年7月18日)で紹介させていただきました。)

中尾山古墳の近くにある野口王墓(天武天皇と持統天皇の合葬墓)も八角墳で、石室とみられる墓室の内部は朱塗りだったといわれています。

今回の現地見学会は、前日にテレビ・新聞等で報道されていたので多分多くの古代史ファンが訪れると思い、9時過ぎに行ったのですが、受付にはすでに約100人位おられました。(この日は、約1300人程の方が見学に来られたようです。)9時40分過ぎに,新型コロナウイルス対策のため入り口で連絡先の記入や検温が実施され、その後参加者は15人ずつのグループに分かれて国営飛鳥歴史公園で活動されているボランティアガイドさんの案内のもと、簡単な説明を聞きながら見学しました。見学時間は、ひとグループ約3分ほどでしたが、約1300年前の飛鳥時代の天皇陵をまじかに見ることができて大変感激しました。古代のロマンを感じた、3分間でした!

                             

 

 

 

 

  

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紅葉に染まる「飛鳥の秋の風景・2020」

2020年11月22日 17時19分41秒 | 散歩

奈良県明日香村は、いよいよ紅葉のシーズンとなりました。紅葉が特別に有名な所はありませんが、あちらこちらに里山の風景に合った紅葉を見ることができます。

今回は、紅葉に染まる「飛鳥の秋の風景・2020」を紹介したいと思います。

紹介したい場所の一つは、「甘樫丘」です。飛鳥の中心にある標高148mの緩やかな丘です。頂上からは、明日香村が一望でき、大和三山といわれる「耳成山・畝傍山・天香久山」も眺められます。付近一帯は「飛鳥歴史公園甘樫丘地区」として整備されています。ここには、遊歩道があり黄色や赤色に染まった秋の景色が見られます。私も大好きな場所で、よく散策で訪れています。

この時期のお薦めのスポットとしては、明日香村飛鳥にある「奈良県立万葉文化館」の庭園です。明日香村では、いち早く紅葉に染まっています。ここからは、万葉集で詠われた「大原の里」の風景も見ることが出来ます。

また、奥飛鳥と呼ばれている稲渕地区・栢森地区の秋の里山の風景は、懐かしさを感じさせられる場所です。のんびりと、秋の里山の景色を楽しみながら散策できる大好きな場所です。

日本の原風景が色濃く残る飛鳥。飛鳥の秋の里山の風景を見ながらの散策は、とても気持ちがいいですよ!

                   

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奈良県「平群谷の歴史散策」(後)

2020年11月20日 20時03分35秒 | 歴史

奈良県平群町の観光ボランティアガイドさんの案内のもと、平群町の古墳を中心とした歴史散策をしてきました。前回は、竜田川駅ー鳥土塚古墳ー旧石床神社ー西宮古墳ー中央公園(昼食)までを紹介しました。

後半は、ツボリ山古墳ー吉備内親王・長屋王墓ー三里古墳ー元山上口駅までです。

(行程)

竜田川駅ー鳥土塚古墳ー旧石床神社ー西宮古墳ー中央公園(昼食)-ツボリ山古墳ー三里古墳ー吉備内親王・長屋王墓ー元山上口駅

今回は、奈良県「平群谷の歴史散策」(後)の様子を紹介したいと思います。

〇「ツボリ山古墳」は、主体部は南に開口する両袖式の横穴式石室で,奥壁上段の石を内傾させています。玄室長4.25m,玄室幅2.2~2.55m,玄室高さ2.45m,羨道長4.65m,羨道幅1.7~1.82m,羨道高さ1.7mを測ります。 玄室と羡道奥よりに二上山(牡丹洞東方)白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が納められています。住宅地のなかにある古墳で、よくも残してくれたとおもいます。二つの石棺が残り、大変興味をそそられました。どなたが、眠っておられるのでしょうね・・・

        

〇「三里古墳」は、墳丘は大きく削られ墳形がはっきりしませんが,直径22mの円墳か全長35m程の前方後円墳とみられています。主体部は横穴式石室ですが,天井石と側壁石の上部がありません。玄室長4.9m,玄室幅2.4m,羨道長7m,羨道幅1.3~1.4mを測ります。玄室内部に組合式家形石棺,羡道に組合式箱型石棺,玄室東側と羡道前部に木棺,石棚上下にも木棺が安置されていたということです。

特色のある石室内には、数体葬られていたようです。ここに眠っておられる方々は、どういう関係の人達だったのでしょうね・・・

      

〇「長屋王墓と 吉備内親王墓」は、「長屋王墓」が径15m,「吉備内親王墓」が径20mの円墳です。長屋王墓の直下には全長約45m,後円部径約30mの前方後円墳(梨本南2号墳)の存在が確認されています。
729年に、天武天皇の孫である左大臣長屋王は,密かに「左道」を学び国家を傾けようと謀っていると密告され結果,自害に追い込まれます。「長屋王の変(長屋王事件)」です。吉備内親王とその子どもたちも,王に従って自害します。夫婦は生駒山に葬られますが,その後疑いが晴れ,現在の地に移されたということになっています。以前から見たかった「長屋王墓」は、思ったより小規模な古墳でした。

今回、平群町の観光ボランティアガイドさんの詳しい案内のもと、平群町の古墳を中心とした歴史散策をしてきました。約10キロの歴史散策でしたが、色々な古墳や石棺が見れて大変勉強になりました。

飛鳥とは違う平群町の歴史散策を、またいつかしたいと思っています!

 

             

 

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奈良県「平群谷の歴史散策」(前)

2020年11月16日 09時10分29秒 | 歴史

奈良県の北西部に位置すうる「平群町」は、東に矢田丘陵、西に生駒山系があり、中央を竜田川が流れています。倭建命が「たたみこも平群の山のくまがしが葉を…」と歌に詠んだように、周囲を緑深い美しい山々に囲まれています。はやくから文化が開け、名所・旧跡が数多くある、豊かな「自然」と「歴史」に恵まれた町です。

今回、国営飛鳥歴史公園で歴史に関わる活動をされているボランティアの皆さんと一緒に、平群町の観光ボランティアガイドさんの案内のもと、平群町の古墳を中心とした歴史散策をしてきました。2回に分けて、紹介したいと思います。前半は、竜田川駅ー鳥土塚古墳ー旧石床神社ー西宮古墳ー中央公園(昼食)までです。

(行程)

竜田川駅ー鳥土塚古墳ー旧石床神社ー西宮古墳ー中央公園(昼食)-ツボリ山古墳ー吉備内親王・長屋王墓ー三里古墳ー元山上口駅

今回は、奈良県「平群谷の歴史散策」(前)の様子を紹介したいと思います。

竜田川駅からすぐ近くにある「烏土塚古墳」は、竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された北面する前方後円墳。墳丘は全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部幅31mあり、平群谷最大規模の古墳です。玄室の天井石は2枚ですが,奥壁側の石は玄室の8割を覆うほどの巨石です。現存する棺身の奥壁に向かって右長辺側石と,玄室入り口左側壁下段の石に斜格子文の線刻がみとめられます。明日香村にある蘇我馬子の墓ではないかとも言われて石舞台古墳の石室と比べてみても、やや小さめですがその大きさには大変驚きました。石棺も一部ですが残っており、見応えある古墳でした。

           

〇越木塚集落の南側にある「旧石床神社」は、平安時代の「延喜式」に大社として記載され、古社の多い平群谷の中でも異彩を放ちます。その最大の特徴は、巨大な岩が御身体となっていることで、崖に高さ8m、幅役30mの巨岩が露出し、中央に亀裂が入っています。古来、この岩が御身体の磐座で、その形態から「陰石」信仰として祀り伝えられてきたものと考えられているようです。ここの、巨岩を実際に見ていると古代の人が信仰する気持ちがわかるような気がしました。

       

〇「西宮古墳 (にしのみや)」は、一辺約36mの3段築成の方墳で,尾根をコの字状にカットした,いわゆる「山寄せ」の技術を用いて造られています。玄室は天井、奥壁,側壁すべて一枚石を使ったみごとなもので,玄室長3.6m,玄室幅1.8m,玄室高さ1.8m,羨道長9.1m,羨道幅1.5mを測ります。
石室入り口の天井石の傾斜角は,上段から中段にかけての墳丘斜面の傾斜角と同じになるように,また,羨道側壁の先端は斜めに加工してあります。まるで、明日香村にある「岩尾山古墳」とそっくりな見事な石室で、大変驚きました。同じ工人の集団が、関わっていたのでしょうか・・・

西宮古墳の隣が公園になっていて、そこで昼食をとりました。

次回は、ツボリ山古墳ー吉備内親王・長屋王墓ー三里古墳ー元山上口駅を紹介したいと思います。

           

 

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記紀・万葉ゆかりの地「奈良県今木の里(大淀町)」歴史散策

2020年11月08日 19時58分58秒 | 歴史

奈良時代に編集された「日本書紀」や「万葉集」には、奈良県大淀町(おおよどちょう)付近の地名や風景が登場します。大淀町の西の端にある「今木」も、吉野を代表する記紀・万葉ゆかりの地のひとつです。

秋の一日、のんびりと「今木」の里を歴史散策してきました。

今回は、記紀・万葉ゆかりの地「奈良県今木の里(大淀町)」歴史散策の様子を紹介したいと思います。

(行程)

近鉄吉野口ー保久良古墳ー坂合黒彦皇子墓ー甲(かぶと)神社ー泉徳寺ー近鉄吉野口

   

〇大淀町今木にある「保久良古墳」は、大淀町の西の端にある古代のお墓です。近鉄・JR吉野口駅から国道309号線沿いに今木方面へ徒歩20分の道路沿いの丘陵にあります。

「保久良古墳」は、地元では「建皇子」の殯(もがり)塚として知られています。
「建皇子(タケルオウ・タケルノミコ)」は、天智天皇と越智娘の皇子で、皇極(斉明)天皇の皇孫で、生まれつき声が出せず、8歳で亡くなったと伝えます。「建皇子」を愛した女帝斉明は、その晩年に「建皇子」を失った悲しみを歌にし、自らの墓に彼を合葬するようにと言い残しました。(日本書紀)

   「いまきなる おむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ」

この歌に登場する「イマキ」が、当町今木地区の地名の由来になっています。
その後、斉明天皇の陵墓は「小市(越智)」に造られました。「建皇子」がそこへ合葬されたのかどうかは記録になく不明ですが、そのなきがらを置いた「殯(もがりの場)」が「今城谷上」に起こされたと伝えます。
この古墳は、南向きに開いた横穴式石室をもつ直径約15m、高さ約4mの円墳で、石室には花崗閃緑岩が用いられています。墳丘西側から南側裾部にかけて、外護列石(墳丘の土留めの役割を果たす積石)がみつかっています。7世紀前半の横穴式石室墳です。また、江戸時代中期以降、地元今木地域の人々が飛鳥時代の王族の殯塚伝承を伝えてきた古墳としても貴重です。2012年に、町指定の文化財となりました。

ところで、明日香村の今城谷には「鬼の雪隠・俎板古墳」があるのですがこの古墳の被葬者は、斉明天皇と孫の建皇子ではないかとも言われています。大淀町今木にある「保久良古墳」は、明日香村からやや離れていますが、はたして「建皇子」のなきがらを置いた「殯(もがりの場)」だったのでしょうか・・・

                

〇「保久良古墳」から徒歩約10分位の所にある「坂合黒彦皇子墓」は、「日本書紀」によると「坂合黒彦皇子」は、允恭天皇(黒彦皇子の父)を殺害した幼い眉輪王(まゆわおう)(允恭天皇に殺された大草香皇子の子)をかばって、大泊瀬皇子(黒彦皇子の弟・後の雄略天皇)の怒りを買い、彼に味方した葛城の円大臣(つぶらのおおきみ)や眉輪王とともに殺され、「新漢槻本南丘」に合葬されたとあります。現在宮内庁の管理する「坂合黒彦皇子墓」は、江戸時代に今木字ジヲの地に比定されたものです。御陵の伝承は、古代史の謎とあいまって深い霧につつまれたまま、当地に残されています。ロマンいっぱいの、「坂合黒彦皇子墓」ですね・・・

      

〇「甲(かぶと)神社」は、 古来「入鹿大明神」とも称し御神体も三神像のほか蘇我入鹿の甲と鎧を祀ると伝えられているようです。地元の伝えでは飛鳥時代に、中大兄皇子(後の天智天皇)によって滅ぼされた蘇我入鹿の甲(かぶと)が祀られていると伝わります。明日香村から離れた今木の里に、蘇我入鹿の甲(かぶと)が祀られているとは知りませんでした。

   

〇「泉徳寺」は、飛鳥時代の「役行者」の建立とされています。近世までは、全国から集まった修験者たちはここで厳しい修業を積みながら大峯山を目指したようです。「泉徳寺」境内の仁王門前には、大淀町唯一の金剛力士像があります。門をくぐり石段を上ったところの「蔵王権現堂」には、室町時代後期に備中の女性が奉納した石仏群が祭られ、県内唯一の石造の蔵王権現像が安置されています。また、堂外にも石仏が12体あり、いずれも町の有形民俗文化財とされています。この場所は、如何にも「今木の里」らしいところでした。

お昼は、近鉄吉野口駅前にある弁当屋さん名物の時雨煮が入った「きぬ巻き」を買ってたべました。とても美味しかったです。

初めて訪れた「今木の里」、秋の一日のんびりと歩きながらの歴史散策は、とても気持ちがよかったですよ!

              

 

 
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