奈良県高市郡高取町にある「与楽古墳群」は、 飛鳥地域の西方の地に6世紀後半~7世紀前半にかけて築造された3基の古墳群です。
「与楽古墳群」は、「与楽カンジョ古墳(6世紀末〜7世紀初め)・与楽鑵子塚(かんすづか)古墳(6世紀後半)・寺崎白壁塚古墳(7世紀前半)」の3基で構成されています。
いずれも渡来系氏族の首長墓とされています。この地域には、総数約100位の古墳があるようです。「与楽カンジョ古墳・与楽鑵子塚・古墳寺崎白壁塚古墳」の3つの古墳は、平成25年3月に国の史跡に指定されています。
今回は、明日香村のお隣の高取町にある「与楽古墳群」を紹介したいと思います。
「与楽カンジョ古墳」は、1辺約35m、高さ約10m、2段築成の方墳です。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南の方向に開口しています。
石室の高さは、石舞台古墳(高さ4.8メートル)を上回り、奈良県内一と見られています。また、石室の幅は3.7メートル、長さ6メートルと判明しました。また、調査により、石室の床面から、渡来人系の古墳で多く見られるミニチュア炊飯具の一部をはじめ、銀製指輪、玄室の中央部から棺台の一部と推定される高さ15センチメートルの盛り上がりや、木棺に使用される鉄釘が出土しました。
この古墳は、石室や出土品の特徴から6世紀末から7世紀前半頃の築造と推定され、渡来系の有力氏族東漢氏の首長墓とみられています。さらに7世紀末-8世紀初めの土器片が出土したことから、築造から100年が経過してなお追葬が行われた可能性が指摘されています。
現在は石室内に立ち入ることはできませんが、鉄扉越しに石室内を観察することができます。現在、古墳の周囲は整備中でした。
「与楽鑵子塚古墳(ようらくかんすづか)」は、貝吹山の南西丘陵に位置しており、棺を納める玄室は天井の高さが4・4メートルもあり、大きな石をドーム状に積んで造られていました。直径約28メートルの円墳で、金銅製の馬具の一部や銀製のイヤリングも出土しています。築造時期は6世紀後半の早い時期と考えられています。
この古墳は、きわめて高い玄室を有する特徴が指摘されており、南に200メートルほど行ったところにある「与楽カンジョ古墳」と同じきわめて強力な権力を持った氏族の墳墓であると考えられています。残念ながら、まだ整備されていませんでした。
「寺崎白壁塚古墳」は、1辺約30m・高さ約10mの方墳とみられていますが、多角形墳の可能性もあるようです。埋葬施設は南に開口する横口式石槨で、長さ2.2m・幅1.1m・高さ0.9mの玄室に長さ約8.2m・幅1.5~1.8mの前室と羨道が付きます。石材間には漆喰が充填されています。出土遺物は土師器や須恵器、鉄釘など。7世紀前半の築造と考えられています。「白壁塚古墳」は一辺30mの見かけの高さ9mの二段築成の方墳と考えられています。墳丘背面の地形は風水思想を反映しているようです。石槨は閃緑岩の切石で構築されています。石槨の規模は、長さ2.8m、幅1.1m、高さ0.9mを測る。前面に長さ8.2m、幅1.6~1.9mの前室と羨道が取り付いています。石材間には白い漆喰が充填されていて、これが「白壁塚古墳」の名前に由来になったようです。石槨は、鉄扉越しに見ることができます。
今回、発掘調査中の調査員の方にアクセス方法を尋ねると、「与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳」の左側の裾から背後の竹藪に続く細い山道をたどれば良いとのことでした。竹林に入り、北西方向に約200mほどに進めば、「白壁塚古墳」の裾が見えてきました。丁度、周りの木々が伐採されていました。
「白壁塚古墳」の前面に南北方向に細長い窪地があります。丁度発掘調査中で、この場所には東西12m、南北16mほどの7世紀前半に築かれた方形墳の跡が見つかりました。
この墓は、白壁塚古墳が築造される段階で墳丘上部が柵平されてしまったようです。石室の石は高取城の石垣のため抜き取られたようです。
「寺崎白壁塚古墳」は、以前から見たかった古墳ですがなかなか見つけることが出来ませんでした。
今回、ようやく見ることが出来ました。石槨がとても素晴らしかったです!