泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

奈良県高取町にある 「与楽古墳群」

2017年03月28日 20時49分43秒 | 歴史

奈良県高市郡高取町にある「与楽古墳群」は、 飛鳥地域の西方の地に6世紀後半~7世紀前半にかけて築造された3基の古墳群です。

「与楽古墳群」は、「与楽カンジョ古墳(6世紀末〜7世紀初め)・与楽鑵子塚(かんすづか)古墳(6世紀後半)・寺崎白壁塚古墳(7世紀前半)」の3基で構成されています。

いずれも渡来系氏族の首長墓とされています。この地域には、総数約100位の古墳があるようです。「与楽カンジョ古墳与楽鑵子塚・古墳寺崎白壁塚古墳」の3つの古墳は、平成25年3月に国の史跡に指定されています。

今回は、明日香村のお隣の高取町にある「与楽古墳群」を紹介したいと思います。

「与楽カンジョ古墳」は、1辺約35m、高さ約10m、2段築成の方墳です。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南の方向に開口しています。

石室の高さは、石舞台古墳(高さ4.8メートル)を上回り、奈良県内一と見られています。また、石室の幅は3.7メートル、長さ6メートルと判明しました。また、調査により、石室の床面から、渡来人系の古墳で多く見られるミニチュア炊飯具の一部をはじめ、銀製指輪、玄室の中央部から棺台の一部と推定される高さ15センチメートルの盛り上がりや、木棺に使用される鉄釘が出土しました。

この古墳は、石室や出土品の特徴から6世紀末から7世紀前半頃の築造と推定され、渡来系の有力氏族東漢氏の首長墓とみられています。さらに7世紀末-8世紀初めの土器片が出土したことから、築造から100年が経過してなお追葬が行われた可能性が指摘されています。

現在は石室内に立ち入ることはできませんが、鉄扉越しに石室内を観察することができます。現在、古墳の周囲は整備中でした。

       

「与楽鑵子塚古墳(ようらくかんすづか)」は、貝吹山の南西丘陵に位置しており、棺を納める玄室は天井の高さが4・4メートルもあり、大きな石をドーム状に積んで造られていました。直径約28メートルの円墳で、金銅製の馬具の一部や銀製のイヤリングも出土しています。築造時期は6世紀後半の早い時期と考えられています。

この古墳は、きわめて高い玄室を有する特徴が指摘されており、南に200メートルほど行ったところにある「与楽カンジョ古墳」と同じきわめて強力な権力を持った氏族の墳墓であると考えられています。残念ながら、まだ整備されていませんでした。

    

「寺崎白壁塚古墳」は、1辺約30m・高さ約10mの方墳とみられていますが、多角形墳の可能性もあるようです。埋葬施設は南に開口する横口式石槨で、長さ2.2m・幅1.1m・高さ0.9mの玄室に長さ約8.2m・幅1.5~1.8mの前室と羨道が付きます。石材間には漆喰が充填されています。出土遺物は土師器や須恵器、鉄釘など。7世紀前半の築造と考えられています。「白壁塚古墳」は一辺30mの見かけの高さ9mの二段築成の方墳と考えられています。墳丘背面の地形は風水思想を反映しているようです。槨は閃緑岩の切石で構築されています。石槨の規模は、長さ2.8m、幅1.1m、高さ0.9mを測る。前面に長さ8.2m、幅1.6~1.9mの前室と羨道が取り付いています。石材間には白い漆喰が充填されていて、これが「白壁塚古墳」の名前に由来になったようです。石槨は、鉄扉越しに見ることができます。

今回、発掘調査中の調査員の方にアクセス方法を尋ねると、「与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳」の左側の裾から背後の竹藪に続く細い山道をたどれば良いとのことでした。竹林に入り、北西方向に約200mほどに進めば、「白壁塚古墳」の裾が見えてきました。丁度、周りの木々が伐採されていました。

「白壁塚古墳」の前面に南北方向に細長い窪地があります。丁度発掘調査中で、この場所には東西12m、南北16mほどの7世紀前半に築かれた方形墳の跡が見つかりました。

この墓は、白壁塚古墳が築造される段階で墳丘上部が柵平されてしまったようです。石室の石は高取城の石垣のため抜き取られたようです。

「寺崎白壁塚古墳」は、以前から見たかった古墳ですがなかなか見つけることが出来ませんでした。

今回、ようやく見ることが出来ました。石槨がとても素晴らしかったです!

                       

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅花の香りがただよう 「早春の飛鳥」

2017年03月21日 18時05分53秒 | 散歩

奈良県明日香村においても、待ちに待った「春」がやってきました。

今回は、梅花の香りがただよう「早春の飛鳥」を紹介したいと思います。

ヒバリの声を聴きながら飛鳥を散策していると、あちらこちらで梅花の香りがします。また、菜の花やつくし・ふきのとうなど、あちらこちらに「春」の風景を目にします。

飛鳥は、四季の変化を肌で感じさせられる所だと改めて思う瞬間です。

梅花の香りがただよう「早春の飛鳥」の散策、おすすめですよ!

ところで、後2週間ほどで「桜」を見ることができます。次回は、石舞台古墳や飛鳥川沿いに咲く「桜」の風景を皆さんに紹介できたらと思っています・・・

                          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲海のような幻想的な風景が広がる 「賀名生(あのう)梅林」

2017年03月16日 20時38分48秒 | 散歩

奈良県五條市西吉野町には約30haの梅林があります。奈良県梅林ランキング ベスト3は、 1位 賀名生梅林 (約20,000本)・ 2位 月ヶ瀬梅林 (約10,000本)・ 3位 広橋梅林 (約5,000本) です。「賀名生(あのう)梅林」は丁度見頃で、多くの方が来られていました。

今回は、雲海のような幻想的な風景が広がる「賀名生(あのう)梅林」について紹介したいと思います。

「賀名生(あのう)梅林」は、20,000本の梅が丘陵を早春の陽光を浴びて、純白や淡い紅色の2万本もの梅花が咲き、雲海のような幻想的な風景が広がっています。口の千本、西の千本、奥の千本などの景勝ポイントがあります。雲海のように梅花がほころび、ほのかな香りの中約2時間ほど散策しました。とても、気持ちがよかったです。

「賀名生(あのう)」という地名は南朝時代に付いた由緒あるもので、周辺には賀名生皇居跡や歴史民俗資料館があります。

昔この地は「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、1351年10月足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参考候して北朝が否定されたので、 翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなふ」と呼ばれていましたが、明治の始めになって呼び方を「あのう」に統一されました。

「賀名生梅林」の麓にある賀名生の里、歴史民俗資料館のすぐ隣りに賀名生皇居跡があります。藁葺き屋根の素朴な建物、そして堂々とした冠木門に掲げられた扁額は、天誅組の参謀「吉村寅太郎」の筆による「賀名生皇居」の扁額が、秘められた南朝の歴史を物語っているようです。

1336年足利尊氏によって都を追われた後醍醐天皇は、吉野への途次この地「賀名生」に拠られ美しく払い清められた郷士「堀孫太郎信増」の邸宅に迎えられました。

また、1348年後村上天皇が吉野より難を逃れ、ここにお入りになられました。さらにこの邸宅は、後亀山天皇の皇居と伝えられているようです。今なお当時の面影をとどめる屋敷は、全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています。

雲海のように梅花がほころび、ほのかな香りが山々を伝うように漂ってくる「賀名生(あのう)梅林」は、まるで「桃源郷」のようでした!

                                       

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜宮へ続いているとも言われている 「奥飛鳥の女渕(めぶち)」

2017年03月13日 17時11分54秒 | 散歩

奥飛鳥(おくあすか)は、奈良県高市郡明日香村の大字「稲淵」「栢森(かやのもり)」「入谷(にゅうだに)」の三集落周辺を指します。

この地域の農地・森林などの景観が、文化財保護法に基づく「重要文化的景観」に選定されています。

その中で「栢森(かやのもり)」集落には、642年に皇極天皇が雨乞いをしたとして伝えられている場所の一つがあります。

その場所を、「女渕(めぶち)」と呼んでいます。この「女渕」は、女の竜神が住むと言われる滝で、その渕は竜宮へ続いているとも言われています。

今回は、竜宮へ続いているとも言われている「奥飛鳥の女渕(めぶち)」について紹介したいと思います 。

「栢森(かやのもり)」の集落から、坂の上の「入谷(にゅうだに)」という集落へ向かう道を登っていくと、「女渕」への案内板が見えてきます。ボランティアの方が整備してくださった木の階段を下りて行き、少し上流に行くと「女渕」を見ることができます。

「女渕」は、高さ5〜6mの滝で、その深さは6m以上あるのではといわれています。滝の近くに行くとマイナスイオンがあふれており、滝つぼの水の色が綺麗な緑色をしていました。

また、この「女渕」から約1.5km上流に「男渕」があり、高さ9m幅2m余りの滝がかかっています。「女渕・男渕」ともに竜宮に通じ竜神が住むといわれています。

2つの渕は、ともに「雨乞い」に霊験がいちじるしいといわれています。

奥飛鳥(おくあすか)は、日本の原風景が色濃く残っている所で大好きな場所です。竜宮に通じ竜神が住むといわれている「奥飛鳥の女渕(めぶち)」は、とても神秘的な場所ですね!

                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空海が如意輪観世音菩薩を刻んで本尊とした 「観心寺」

2017年03月10日 14時25分27秒 | 歴史

大阪府河内長野市にある「観心寺」は、梅の花がきれいに咲く関西花の寺二十五霊場の1つとして知られています。

今回は、空海が如意輪観世音菩薩を刻んで本尊とした「観心寺」を紹介したいと思います。

大阪・奈良・和歌山の三県の境に位置する「観心寺」は、701年、役行者によって開創されたとされる古刹です。815年、弘法大師空海が真言宗の道場として再建しました。開創当初は「雲心寺」と呼ばれましたが、再建の際、空海が「如意輪観世音菩薩」(七星如意輪観世音菩薩)を刻んで本尊とし、寺号を「観心寺」と改めました。

「観心寺」は歴史的に重要な場所で、京都から高野山へ向かう途中にある中宿として、また楠木正成の菩提寺として、真言宗の道場として、色々な側面のあるお寺です。

木立が繁る境内には、弘法大師の弟子である実恵の墓や、第97代後村上天皇御陵、楠木正成の墓などがあります。

梅、桜、紅葉の名所でもあり、関西花の寺25番霊場に数えられる他、新西国客番霊場、仏塔古寺13番霊場でもあります。

「観心寺」の金堂は南北朝時代の建立で、折衷様建築の代表作といわれています。ご本尊である「如意輪観音像」(国宝)は、日本の密教で最も魅力的な傑作といわれています。

平安初期の弘法大師作のものでである「如意輪観音像」(国宝)は、残念ながら普段は秘仏なので、いつでも拝観できるわけではありません。年に一度の4月17・18日のみに御開帳されます。

境内にある「建掛塔(たてかけとう)」(重文)は、一見、普通の仏堂のように見えますが、三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築だそうです。

伝承によれば楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願しましたが、造営なかばで湊川の戦で討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているということだそうです。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られています。

また「観心寺」は、日本で唯一の北斗七星を巡礼する霊場でもあります。境内には7つの星塚があります。

説明によると、厄除け開運を願う霊場で空海がこのお寺に訪れた時、人の力ではどうにもならない災難から衆生を救うため、境内に北斗七星を勧請しました。北斗七星を祭る寺は日本では「観心寺」が唯一だそうです。そして、その中心となるが「如意輪観音像」です。

境内が国の史跡に指定されている寺には、多くの文化財があります。仏像などは寺内の霊宝館に多数展示されています。ほとんどが重要文化財で、その見事さに大変驚きました。

見どころ満載の「観心寺」の歴史散策は、梅の花に迎えられて、とても楽しい時間をすごすことが出来ました!

                                       

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする