今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は「奴国(なこく)」とよばれる国でした。「奴国」の王は、西暦57年、中国の皇帝(漢の光武帝)に使いを送りました。これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」の金印を与え、正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』東夷伝(とういでん)は記しています。奴国は日本列島の国の中で初めて世界の歴史に名を刻んだ国なのです。
弥生時代の終わりごろ、日本列島で最も勢力を誇っていたのは、女王「卑弥呼(ひみこ)」が治める「邪馬台国(やまたいこく)」でした。しかしなお、倭国(わこく)はまだ大小30余りの国に分かれて相争っており、その中にあって、この頃の「奴国」は、2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。
前回の奴国を歩く5「奴国内にある土塁」でした。今回は、奴国を歩く6「弥生時代の水田跡と環濠集落(板付遺跡)」を紹介したいと思います。
今回紹介する「板付遺跡(いたづけいせき)」は、福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡で、国の史跡となっています。 遺跡は竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、展示施設(板付遺跡弥生館)もあります。
〇「板付遺跡」は、福岡市博多区板付にあり福岡平野の中央よりやや東寄りに位置します。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡です。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝があります。環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれています。現在、竪穴式住居跡等が復元してあります。弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展しています。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土しています。これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示しています。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、貯蔵穴群や墓地が発見されています。
今はひっそりとした歴史公園になっていますが、さぞ、2、000年前は大いに賑わったのでしょうね・・・
〇水田跡は、台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしています。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに日本で最も早く稲作農耕が開始されました。
「板付遺跡」は、日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡です。遺跡内にある「板付遺跡弥生館」では、ここで出土した遺物である土器、石器等を見ることが出来ます。
「板付遺跡」は、当時の自然環境を知ることのできる自然遺物が検出されている重要な遺跡です。
久しぶりに「板付遺跡」に行ってきました。最初にここに来たには、数十年前に水田跡が発見され、当時の人の足跡が発見されたニュースを聴いてすぐに見に行きました。その足跡が、板付遺跡弥生館に展示してあり久しぶりの再会に感激でした!
「奴国」は、2万戸を超える人々が住む有数の国だったことが『魏志』倭人伝には記されています。「板付遺跡」は、その場所の一つだったかもしれませんね!?
「 奴国を歩く」シリーズも、次回はいよいよ最終回となります。
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