泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥の 「細川谷古墳群」

2015年02月26日 16時06分50秒 | 歴史

飛鳥には、数多くの古墳を見ることができます。今回は、奈良県明日香村細川谷冬野川沿いの、「細川谷古墳群」を散策してきました。

この古墳群は、6世後半から7世紀前半にかけて築造された約200基の古墳群で、その多くは直径8〜15m程度の円墳で、横穴式石室を持っているようです。詳細な調査は行われていませんがその特徴から、渡来系の氏族の墳墓ではないかと言われています。

「細川谷古墳群」の中心的な古墳と考えられている「打上(うちあげ)古墳」は、直径20mの円墳です。開口しているので、中に入ることができます。また、気都和既橋の近くに移築された直径15mの円墳「上2号墓」も見学することができます。細川谷の田畑には、古墳の石室の一部らしき物も見ることができます。

「細川谷古墳群」の近くにある、蘇我馬子の桃原墓と言われている「石舞台古墳」・ピラミッド型の古墳ではないかと話題になった「都塚古墳」・稲渕の棚田にあり、一辺39メートルの方墳でしたが原型をほとんど失っている「塚本古墳」。こちらは、蘇我氏の古墳群なのでしょうか・・・

古墳を巡るといつも疑問に思うことがあります。その一つが、これらの古墳の石材は、一体どこから運ばれてきたのでしょうか?

「石舞台古墳」の石材を切り出したとの伝承がある場所を教えていただいたので、撮ってきました。

確かな証拠があるわけではありませんが、現地にいってみると巨石が横たわっていました。ひょうとしたら「細川谷古墳群」の石材も、ここから切り出されたのではないかと想像しました。

伝承されている石切り場は、多武峰の頂上近くにあり、「巨石」のほか「不動の滝」や「薬師堂」を見ることができます。

それにしても、「飛鳥」はあちらこちらに、不思議で魅力的な場所がいっぱいある所ですね!

                

            

      

                  

 

 

 

 

 

 

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古代豪族 「葛城氏」

2015年02月22日 20時55分51秒 | 歴史

大阪と奈良との県境に位置する「二上山」を望み、その北に広がる北葛城の一帯は、奈良盆地の玄関口として、古代からの歴史を刻んでいる場所です。

奈良県の香芝市・広陵町・河合町・上牧町に位置する「馬見丘陵」は、南北約7キロ・東西3キロに及ぶ低い丘陵地で、「馬見古墳群」として数多くの古墳を目にすることができます。

特に、古代豪族「葛城氏」と関係の深いとされる古墳を、数多く見ることができます。

今回は、「歴史サークル」の方々と一緒に、古代豪族「葛城氏」の場所を散策してきました。

古墳群の中では、5世紀後半の前方後円墳である「ナガレ山古墳」や、帆立貝式古墳の「三吉石塚古墳」が見事に復元されていて、見ごたえがありました。

この付近一帯に点在する多数の古墳の中で、「巣山古墳」はもっとも大きな前方後円墳で、4世紀末に出現した「葛城地域」の王墓と考えられているようです。他にも、古墳時代に築造された古墳を、数多く見ることができました。

今回、とても楽しみにいた古墳が「牧野(ばくや)古墳」(国史跡)です。馬見丘陵中央部のやや西よりに位置し、墳丘は直径約60m、3段築成の大型円墳で巨大な横穴式石室が南に開口しています。今回、中に入ることができ、玄室や奥に横向きに位置する、くりぬき式家型石棺を見ることができました。残念ながら盗掘にあっていたようですが、石室内には2組の馬具類や多数の鉄鏃・金環やガラス製等が残されていたようです。

この古墳の築造時期は、6世紀末と考えられ、飛鳥に「飛鳥岡本宮」を築いた「舒明天皇」の父にあたる、「押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)」の墓ではないかと言われています。

また、この近くには「讃岐神社」があり、「今は昔、竹取の翁というものありけり」で有名な、「竹取物語」の舞台となったと言われる場所も散策することができました。

「飛鳥」とは、また違った魅力的な場所を散策することができ、充実した一日となりました!

   

     

         

                  

 

 

 

 

 

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日本書紀(壬申の乱)にでてくる社 「身狭(むさ)の社と村屋の社」

2015年02月18日 16時21分39秒 | 歴史

「日本書紀」には、壬申の乱(672年)に際し、大海人皇子軍に対して、神がかり的なことが起きたことが記されています。

「日本書紀」に、高市郡の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)が、にわかに口をつぐんで、ものが言えなくなった。三日の後、まさに神が着いて「吾は、高市の社に居る、名はコトシロヌシ神。また身狭(むさ)の社に居る、名はイクタマ神である」といった。そして(神意を)顕して、カムヤマトイワレヒコ(神武)天皇の陵に、馬と色々の兵器を奉れ」といった。「西の道から軍勢が来ようとしている。つつしむがよい」といった。言いおわって(神がかりから)さめた。

また村屋の神が、神官について「今にわが社のある中の道から、軍勢がやってくる。だから、社の中の道をふさげ」といった。

(壬申の乱の)軍政がまったくおわって、将軍たちは、この三神の教えた言を奏した。天皇は勅して、三神の位階を上げ進(たてまつ)って祀(まつ)った。と記されています。

今回は、「日本書紀」に記されている神がかり的なことが起きたとされる社の、「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)と「村屋の社」(磯城郡田原本町)を散策してきました。

残念ながら、「高市の社」は、未定で探すことが出来ませんでしたが、「日本書紀」に記されている「社」に行ってみて、とても不思議な感覚に陥る散策となりました!

          

               

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飛鳥の祭り 「岡えびす祭」

2015年02月15日 15時30分56秒 | 散歩

奈良県明日香村岡の集落に鎮座する「岡えびす神社」において、2月15日の午後に「岡えびす祭」が行われました。

地元の方が参加され、飛鳥坐神社の宮司さんにより、商売繁盛や家内安全のご祈祷がなされました。

すぐ近くでは、地元の方が作ったぜんざい等のふるまいがあり、おいしく食べさせていただきました。

明日香村での「小さなお祭り」でしたが、もちを焼くにおいや、祭りに出されている景品を楽しみにしている子ども達がいる風景をみて、何だか心が温まるひと時でした!

                            

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「飛鳥寺西方遺跡」 現地説明会

2015年02月08日 20時51分26秒 | 歴史

奈良県明日香村において2月8日、小雨のなか飛鳥寺の西門跡横で、「飛鳥寺西方遺跡現地説明会」が行われました。

この場所は、645年の乙巳の変(大化の改新)や672年の壬申の乱など、飛鳥時代の重要な場所となった「槻の木の広場」とされる所です。

7世紀のある一時期、広場に2棟(東西17m・南北4、8m)の建物跡が見つかりました。同遺跡で初めて、確認された飛鳥時代の建物跡とされています。

ただ、柱の穴の形や大きさの間隔もそろっておらず、建物が役割を終えた後、、まもなく柱の穴は埋められ、周囲は砂利敷きに再整備されたようです。

穴(19個)の深さは、約0、3m〜1、2mで、穴を埋めた土には焼けた土(赤褐色になっていました)も混じっていましたが、建物自体が燃えた痕跡は見つからなかったようです。

日本書紀によると、「槻の木の広場」では、乙巳の変(大化の改新)直後に孝徳天皇が群臣らを集めて忠誠を誓わせたほか、蝦夷や隼人らをもてなす宴会が開かれたり、壬申の乱において近江朝廷の軍営が置かれ、大和にいた大伴連吹負が大海人皇子に味方して、飛鳥寺の西に陣取って飛鳥古京の守りにあたっていた、高坂王の近江軍を襲って勝利したと記されています。

激動の7世紀、首都中心部につくられた「槻の木の広場」が、どのように利用されたのでしょうか。

小雨で寒かったですが、ここで何が行われたか想像するだけでも、ワクワクするひと時を過ごすことができました!

                               

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