泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?「飛鳥ブラタモリ・2020」(2)

2020年04月29日 15時21分40秒 | 歴史

2020年4月18日に、「なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?」ということで、奈良県の「明日香村」が取り上げられました。見られた方も多いのではないでしょうか。

せっかく私が住んでいる大好きな「飛鳥」を紹介していただいたので、「ブラタモリ」で訪れた場所を、今の様子と共にまとめてみました。

今回は、なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?「飛鳥ブラタモリ・2020」(2)を、紹介したいと思います。

〇明日香村は、「日本最古」の痕跡だらけ!?

「古地図に記された2つの国づくりとは?」

・「水落遺跡」は、飛鳥時代に「斉明天皇」の息子である「中大兄皇子」が造った日本初の水時計「漏刻(ろうこく)」(水時計を備えた時計台)の跡です。『日本書紀』によれば、660年「皇太子が初め漏れ剋を造り、人々に時刻を知らせた」とあります。精密な水時計の設置のため、礎石は基壇の地中1m下に据えられ、そこに空けられた径40cmの円形刳り込みに柱をはめ、更に各礎石間に石製の地中梁を巡らし、基壇土で周りを固めています。基壇は、貼り石で覆われています。このように頑丈な貼り石があるのは「石舞台古墳」くらいです。以前、学芸員の方のお尋ねしたところ、貼り石は一部欠けた所があったけど当時のままとのことでした。

       

・石神遺跡

「石神遺跡」は、飛鳥時代の迎賓館の跡で、噴水機能をもつ「須弥山石や石人像」といった石造物がこの遺跡の一角から掘り出されています。「 斉明天皇」の時代には、東北に住む蝦夷や南九州に住む隼人、また外国使節を迎え、饗応するためにつくられたと考えられています。

「石人像」は、飛鳥時代の庭園に使われたもので、水は底から通じた孔を上り、 男の口に当てた盃と、女の口とからあふれ出るようになっています。

「須弥山石」の 須弥山とは、仏教世界において世界の中心にそびえる山のことです。庭園にともなう噴水施設で、周辺から溝や石敷きもみつかっています。庭園に置かれ、人々の目を楽しませたものであろうと言われています。高度な技術力を示した石造物です。共に、「石神遺跡」(当時の石敷きを、一部見ることができます)で発掘されました。発掘された場所は、今はレンゲの花で覆われています。石造物は、飛鳥資料館で見ることができますが、資料館はコロナの影響で休館中です。

    「須弥山石」の画像検索結果 「須弥山石」の画像検索結果 

〇斉明天皇は「石好き」だった!?

「斉明天皇の国づくりの痕跡とは?」

「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」は、「斉明天皇」が造らせた壮大な運河の跡です。 宮殿の東山に石垣を築くために大量の石材を運ぶ必要があり、そのために運河の建設を行いました。「斉明天皇」は、石を使った広大な庭園や、後に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)といわれる運河をのべ3万人を動員して造らせています。この運河を利用して、200艘の船で石上山(天理市石上神宮付近)の石を、飛鳥の宮の東の山に運んで石垣を造らせました。(「日本書紀」の656年には、「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とあります。)この石垣の造営には、のべ7万人が動員されました。

・「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」は、「飛鳥坐神社」近くの場所で7世紀中頃の幅約10m、深さ約1.3mの大溝が発掘されました。(飛鳥東垣内遺跡)この溝は飛鳥地域の中でも最大級のもので、物資を輸送する運河と考えられています。「日本書紀」には、「渠(みぞ)を掘って舟運で運び、宮の東の山に石垣を造り、石の山丘と呼ばれたこと」が記されています。「宮の東の山の石垣」とは、「酒船石遺跡」のことです。

ブラタモリでは、「運河の痕跡が、飛鳥奥山の集落の北の田の地形に見られる!?」とのことで、見に行きましたが確かに他の田よりやや段低い地形になっていました。「飛鳥東垣内遺跡」で見つかった運河の真北に位置しています。いつも、散策している場所なのですが気づきませんでした。天理市から明日香村まで約15キロ程あります。天理市から天理砂岩の石を色々な水系使って運び、明日香村近くに流れている「中の川」、そして「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」の運河から「酒船石」がある「石の山丘」へ運ばれて行ったのでしょうか!?

最終回は、「斉明天皇の国づくりの痕跡とは?」(酒船遺跡)・「飛鳥は、日本最初の国づくりの始まりの場所である!」を紹介したいと思います。

           

 

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なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?「飛鳥ブラタモリ・2020」(1)

2020年04月25日 18時01分08秒 | 歴史

古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組、ご存知ですか?

なんと、「日本の原風景」が色濃く残る奈良県明日香村において、2020年4月18日に「ブラタモリ」の番組で取り上げられました。

「ブラタモリ」では、「なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?」ということで、奈良県の「明日香村」が舞台でした。見られた方も多いのではないでしょうか。

1400年前に日本初の「都」が飛鳥に置かれた秘密を、タモリさんがブラブラ歩いて解き明かす「ブラタモリ」で訪れたのは奈良県の明日香村です。ここで「国づくりの基礎」が始まった理由を探るということで、日本書紀と古地図で「飛鳥時代に行われた国づくりの施策の数々をたどる!」という内容で、明日香村内を歩かれました。偶然にも、飛鳥時代の宮殿跡で大化の改新のきっかけである、蘇我入鹿暗殺の現場を再現の場面のロケに出くわしました。なんと、朝6時半頃でした。

せっかく私が住んでいる大好きな「飛鳥」を紹介していただいたので、「ブラタモリ」で訪れた場所をまとめてみました。数回にわたって紹介したいと思います。

今回は、なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?「飛鳥ブラタモリ・2020」(1)を、紹介したいと思います。

〇飛鳥時代の宮殿跡で、大化の改新のきっかけ・蘇我入鹿暗殺の現場を再現!?

「蘇我氏は、どれくらいすごい勢力だったのか?」

日本の国の礎となるのに、蘇我氏が非常に重要な役割を果たした。日本で最初の本格的な国づくりが行われた。

・飛鳥宮跡、乙巳の変(大化の改新)

645年に、 「中大兄皇子」らが「蘇我入鹿」を倒し、乙巳の変(大化の改新)の舞台となった場所です。継続的な調査で、「飛鳥板蓋宮」だけでなく複数の宮が置かれていたことがわかりました。歴史の教科書に載っているほど有名な場所ですが、意外と訪れる人も少ないようです。現在、「飛鳥宮跡」の周り田畑は、レンゲの花が咲きほこっています。

    

〇石舞台古墳は、蘇我氏の巨大権力の証し?

「蘇我氏を知る手掛かりとは?」

巨大な古墳(石室)は、強大な権力の証である。「石」というものが、飛鳥の国づくりでキーワードのひとつである。

・「石舞台古墳」は、日本最大級の横穴式石室を持つ飛鳥を代表する古墳のひとつです。築造は7世紀の初め頃と推定され、元々は1辺約55メートルの方墳だったとされています。「蘇我馬子」の墓ではないかと言われています。早い時期に古墳上部の盛土が失われ、現在は巨大な石室が露出した姿となっています。昔々狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話、旅芸人がこの巨石を舞台に演じた話などもあります。「石舞台古墳」の周りは、桜の木が植えてあり桜のシーズンになると多くの方が、来られれていました。一時、無料で開放されていたのですが、現在は、コロナの影響で中に入ることができません。

 

〇日本初の本格的な寺・仏像!?

「蘇我氏がつくった重要な物の痕跡とは?」

・「飛鳥寺」は、596年に蘇我馬子の発願で建てられた日本初の本格的仏教寺院です。 本尊である銅造「釈迦如来坐像」(重文)は「飛鳥大仏」の通称で親しまれており、609年「推古天皇」が「鞍作鳥」に造らせたとされる日本最古の仏像です。今回のブラタモリでは、「飛鳥寺」の北にある「来迎寺」内にある飛鳥寺講堂跡の礎石が紹介されました。我が国で初めて礎石が使われた建物の礎石ということで紹介されました。1400年程前の礎石、とても綺麗に加工されていました。当時の人達の気持ちが伝わってくるような礎石です。塀沿いに、礎石がきちんと保存されている所を見ることができます。

 

        

・「飛鳥大仏(釈迦如来坐像)」(重文)は「飛鳥大仏」の通称で親しまれており、609年に「推古天皇」が、「鞍作鳥(くらつくりのとり)」に造らせたとされる日本最古の仏像です。調査の結果、「飛鳥大仏」はここに据えられから一歩も動いていないことがわかりました。普通、仏様の写真を撮ることはできないのですが、こちらは撮影可です。個人的には、正面向かって左側から見たお顔が柔和で大好きです。現在のところ、拝観できます。

また、寺の西側には、「蘇我入鹿」の首塚と呼ばれる五輪塔を見ることができます。寺の近くに咲いている芝桜が丁度満開で、とても綺麗です。

次回は、なぜ、飛鳥は日本の国の礎となったのか?「飛鳥ブラタモリ・2020」(後編)を紹介したいと思います。

        

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奈良県斑鳩の里「法起寺・法輪寺・古墳」歴史散策

2020年04月20日 21時18分15秒 | 歴史

以前、奈良県斑鳩の里「法隆寺・中宮寺跡・法起寺・法輪寺・古墳」を歴史散策しましたので、2回にわたって紹介したいと思います。前回は、奈良県斑鳩の里「法隆寺・中宮寺跡」の歴史散策の様子を紹介しました。

『斑鳩町』は奈良県の北西部に位置し、聖徳太子ゆかりの地として、広く知られています。
町のほぼ中央部にある法隆寺は最古の木造建築として名高く、「法起寺」と共に『法隆寺地域の仏教建造物』として、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。隣接する「法輪寺」や「中宮寺」など由緒あるお寺や古墳等があります。

今回は、奈良県斑鳩の里「法起寺・法輪寺・古墳」歴史散策の様子を紹介したいと思います。

〇法起寺

「法起寺」は、太子の「岡本宮」を太子の遺言により、その子「山背大兄皇子」が寺に変えたもので、池のそばにあったので「池尻寺」ともいわれれています。
三重塔は、706年に完成したとされ、高さ24mの塔は最古のもので、法隆寺伽藍と共に世界文化遺産に登録されています。創建当時のものは、三重塔だけで、三重塔としては、最古最大であり飛鳥時代の建築様式を伝えています。

「法起寺」の三重塔は、近くから見るよりは遠くから見たほうが、古都奈良ではという感じで大好きです。

「法隆寺」の五重塔と共に、「法起寺」の三重塔は飛鳥時代の空気感が漂う神秘的な塔ですね!

       

〇法輪寺

「法起寺」とともに斑鳩三塔と呼ばれているのが、この「法輪寺」の三重塔です。
創建については、2つの説があり、一説には622年に「聖徳太子」が自らの病気平癒を祈願し建立を発願、その子「山背大兄皇子」等が建立したという説等があるようです。
創建当初の三重塔は、1944年に落雷により焼失し、現在の塔は、作家「幸田文」氏らの尽力により、1975年に再建されたものです。創建当初の「法輪寺」は、法隆寺西院伽藍と同じ伽藍配置で、約3分の2の規模であることが、発掘の結果明らかになりました。三重塔は、新しい塔ですが寺内で保管している仏像等がとても素晴らしかったです。

のんびと歩きながら斑鳩三塔巡りの歴史散策は、古都奈良ではのひと時ですね!

    

〇古墳(藤ノ木古墳・駒塚古墳・調子丸古墳)

・「藤ノ木古墳」は、円墳で直径50m以上、高さ9mの円墳で、出土品から、六世紀後半に築造された古墳であると考えられています。未盗掘の古墳で、石棺は二上山白色凝灰岩を使った刳抜式で、箱形の身と屋根型の蓋を別々に造りあわせたものでした。石棺の全面には朱が塗布されていました。
石室内には石棺北側から馬具などが発見され、又、埋葬後、攪乱を受けていない東枕にした2体の被葬者が確認され、そのそばには、鏡や刀など豪華な副葬品が確認されました。東アジアでもまれにみる優れた意匠や彫金技術を施したもので、金具などにパルメット文など共通の文様を用い、鞍金具には竜・鳳凰・象・などの禽獣文や鬼神像などを透かし彫りし、東アジアの様々な文様が集合したもので、仏教的要素・四神思想などの呪術的な世界の影響をみることができます。

素晴らしい出土品は重要文化財等に指定され、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。

  

・「駒塚古墳」は、前方部を南に向けた前方後円墳です。全長は約49mですが、前方部が削られていることから本来の全長は明らかではありません。古墳名は「聖徳太子」の愛馬である「黒駒」を葬ったとの伝承に由来します。発掘調査の結果、古墳時代前期(4世紀後半)に築造されたことが明らかとなりました。「駒塚古墳」の南側に所在する「調子丸古墳」と共に、平成4年10月8日に町史跡の指定を行いました。

 

・「調子麿古墳」は、「駒塚古墳」の南側約100mに位置します。直径14m程度の円墳です。「聖徳太子」の舎人で「黒駒」の世話をしていた「調子麿」の墓と伝えられています。古墳の北側で行った発掘調査では、馬具などの表現を施した精巧な造りの土馬の頭部が出土しました。時期は不明ですがあまり類例のないものです。

残念ながら両古墳とも、説明版等もなく荒れ放題のような状態でした。

「調子麿古墳」・「駒塚古墳」共に築造時期は、「聖徳太子」の時期とは違うのですが、「聖徳太子」に関わる古墳(伝承)で、ロマンあふれる古墳巡りとなりました!

ところで、古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組、ご存知ですか?

なんと、2020年4月18日に奈良県明日香村が「ブラタモリ」の番組で取り上げられました。次回は、「ブラタモリ」の番組で取り上げられた所等を紹介したいと思います。

 

 

 

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奈良県斑鳩の里「法隆寺・中宮寺跡」歴史散策

2020年04月16日 09時00分07秒 | 歴史

古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組、ご存知ですか?好きな番組で、よく視聴しています。

以前「ブラタモリ」を参考にしながら、ふと「飛鳥京」へ入る道は一体どこなのだろうか?内容は、飛鳥時代の人々は「飛鳥宮」に入る時にどの道を通り、どのような景色を見ながら入って行ったのだろうと想像してみてつくったブログでした。ブライズミ「飛鳥京への道」探訪(2015年8月20日)で、紹介しました。これは、私にとって飛鳥に住んで初めての試みでした。とても、ワクワクしながらの歴史散策でした。

2020年4月11日の「ブラタモリ」では、「奈良・飛鳥の歴史を街歩きで解き明かす」ということで、奈良県の斑鳩町にある「法隆寺」でした。見られた方も多いのではないでしょうか。

以前、奈良県斑鳩の里「法隆寺・中宮寺跡・法起寺・法輪寺・古墳)」を歴史散策しましたので、2回にわたって紹介したいと思います。

今回は、奈良県斑鳩の里「法隆寺・中宮寺跡」歴史散策の様子を紹介したいと思います。

『斑鳩(いかるが)町』は、奈良県の北西部に位置し「聖徳太子」ゆかりの地として、広く知られています。
町のほぼ中央部にある「法隆寺」は最古の木造建築として名高く、「法起寺」と共に『法隆寺地域の仏教建造物』として、日本で初めて世界文化遺産に登録されました。隣接する「法輪寺」や「中宮寺」など由緒あるお寺や古墳等があります。

〇法隆寺

法隆寺は、現存する世界最古の木造建築として今なお飛鳥の時代を伝えています。1400年もの伝統を誇り、仏教文化の研究の宝庫として人々の注目を集めています。また、1993年に日本で最初に世界文化遺産に登録され、世界的に見てもその地位は高まっています。法隆寺東院伽藍の中心をなす八角円堂の建物は、739年ころに創建され、1230年に大修理が加えられました。
「聖徳太子」の住まいであった「斑鳩の宮」の跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)が、太子の遺徳を偲び建てたのが上宮王院、その中心が「夢殿」です。内部には、本尊の国宝救世観音像(聖徳太子等身の像と伝えられている)とともに、行信僧都と、平安時代初めに東院を修理した道詮律師(どうせんりっし)の座像があり、いずれも国宝に指定されています。境内は国の指定史跡、南大門・五重塔・金堂をはじめとする19棟の建造物が国宝に指定されています。見どころいっぱいの「法隆寺」は、飛鳥時代の空気が漂う神秘的なスポットで大好きな場所の一つです!

                    

〇中宮寺跡

現在の「中宮寺」は法隆寺東院の東側にありますが、元は400m東方に所在していました。現在の「中宮寺」と区別するため創建中宮寺を「中宮寺跡」と呼んでいます。現在でも塔、金堂の基壇が土壇状の高まりとなり残っています。これまで数度に渡り発掘調査が実施されていて、調査の結果から、塔、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置をしていたことが明らかとなっています。ただし、講堂や回廊は見つかっていないことから未完の寺であったようです。「聖徳太子」が母の穴穂部間人皇后のために建立したと伝えられています。太子の斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮の中間にあたるところから「中宮寺」と呼ばれたといわれています。室町時代に、現在の夢殿の東側に移りました。「中宮寺跡」は我が国における貴重な遺跡であることから国史跡の指定を受けました。整備されて初めて見学しました。とても整備されており、伽藍配置がよくわかりました。時々、弁当持参で「斑鳩の里」を歴史散策します。遠くに、五重塔や三重塔が見える景色は、古都ならではの風景ですね~!

次回は、奈良県斑鳩の里「法起寺・法輪寺・古墳)」歴史散策の様子を紹介したいと思います。

お知らせです。次回の「ブラタモリ」(4月18日)は、「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?~」と題し、明日香村での様子が放送されます。実は、なんとこのロケの場面に出くわしました。とても、楽しみにしています!

       

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春の花々が美しい「飛鳥の春・2020」

2020年04月12日 10時34分24秒 | 散歩

例年だと「春の飛鳥」は、遠足や修学旅行生等が多く訪れてとても賑わっていました。

今年は、残念ながらコロナウイルスの影響で訪れる人も極端に少ないようです。

明日香村においても、三密を守ってくれとの要請があり、村内の施設等は当分の間休館となっています。

散策していても、人と会うことはほとんどなく地元の人と遠くから挨拶する程度ですが、油断は大敵です。

今世の中、大変な状況で息苦しい時間が過ぎていますが、一刻も早く終息することを願っています!

今回、「飛鳥の春の景色」を見ていただいて、ほんの少しでも癒され和んでいただけたら幸いです。

今回は、春の花々が美しい「飛鳥の春・2020」を紹介したいと思います。

飛鳥で桜が綺麗な場所を中心に、「飛鳥の春」を紹介したいと思います。

平田峠という所から見た、明日香村の春の景色はまるで桜の園のような感じでした。

桜は、ここ数日で散り始めましたが写真を撮りに行ったのは、1週間程前でした。今回紹介する場所は、甘樫丘・飛鳥川沿い・石舞台古墳・奥飛鳥等です。甘樫丘展望台からは、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むことができます。この場所は、日本書紀によるとかつて蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が、丘の麓に居宅を築いたといわれています。「甘樫丘」は奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵です。 標高148mで、丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっています。丘の北側には甘樫丘展望台があり、ここからの眺めは、お気に入りの場所の一つです。展望台に桜の木が数本あり、桜は遠方からでもわかるくらいとても綺麗です。

「春の飛鳥」を散策すると、色々な花々が咲いています。また、飛鳥川沿いを歩くと、「渓流の宝石」とも呼ばれているカワセミを見ることもできます。飛鳥の散策、体も心も癒されます!

                              

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