以前、壬申の乱(672年)の時に、大海人皇子軍に対して神がかり的なことが起きたことが記されている「社」の事を紹介しました。
「日本書紀」に記されている神がかり的なことが起きたとされる「社」とは、「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)と「村屋の社」(磯城郡田原本町)・「高市の社」です。
「日本書紀」には、壬申の乱(672年)の時に、高市郡の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)が、にわかに口をつぐんで、ものが言えなくなった。三日の後、まさに神が着いて「吾は、高市の社に居る、名はコトシロヌシ神。また「身狭(むさ)の社」に居る、名はイクタマ神である」といった。そして(神意を)顕して、カムヤマトイワレヒコ(神武)天皇の陵に、馬と色々の兵器を奉れ」といった。「西の道から軍勢が来ようとしている。つつしむがよい」といった。言いおわって(神がかりから)さめた。
また「村屋」の神が、神官について「今にわが社のある中の道から、軍勢がやってくる。だから、社の中の道をふさげ」といったと、記されています。
今回は、日本書紀(壬申の乱)に出てくる社「高市の社」?について紹介したいと思います。
前回は、「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)と「村屋の社」(磯城郡田原本町)は探すことができましたが、どうしても「高市の社」は、未定で探すことが出来ませんでした。
その後、色々と探すうちにひょとして「高市の社」ではないかという「社」を見つけましたので、歴史散策してきました。
「社」の名前は、奈良県橿原市雲梯(うなて)ある「河俣神社」です。場所は、近鉄坊城駅で下車し、大和川最大の支流である曽我川河川敷を約20分程下った「戒智橋」の東端に鎮座しています。高市御県坐鴨事代主神社に比定される式内大社で、祭神は「事代主神」です。古墳時代以降、「事代主」は雲梯(うなて)の地で大和朝廷を守護してきた出雲の神様だそうです。
『日本書紀』には、壬申の乱において、高市郡大領高市県主許梅が神がかりして「吾は高市社に居る、名は事代主神なり」と神が予言されました。
それが的中して、戦勝したとあります。戦勝後、天武天皇は「高市社」に許梅を遣わして幣を奉らしめ、品位を奉授したといわれています。
この「高市社」が、当社のこととされているようです。
はたして、この「河俣神社」が日本書紀(壬申の乱)に出てくる社「高市の社」なのでしょうか?とても、落ち着いた雰囲気のある神社でした。
「雲梯の社(河俣神社)」は、万葉集でも詠われています。境内には、万葉歌碑がありました。
「思はぬを思ふといはば真鳥(鷺)住む卯名手の社の神し知らさむ」
(訳)あなたのことを思っていないといっても、鷺の住む雲梯の社だけは真実を知っていますよ。
「日本書紀」に記されているとされる3つ「社」に行ってみて、改めて「大和」の凄さを感じさせられる歴史散策となりました!
〇「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)
〇「村屋の社」(磯城郡田原本町)
〇「河俣神社」(橿原市雲梯町)