泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

日本書紀(壬申の乱)に出てくる社 「高市の社」?

2018年01月29日 19時55分18秒 | 歴史

以前、壬申の乱(672年)の時に、大海人皇子軍に対して神がかり的なことが起きたことが記されている「社」の事を紹介しました。

「日本書紀」に記されている神がかり的なことが起きたとされる「社」とは、「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)と「村屋の社」(磯城郡田原本町)・「高市の社」です。

「日本書紀」には、壬申の乱(672年)の時に、高市郡の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)が、にわかに口をつぐんで、ものが言えなくなった。三日の後、まさに神が着いて「吾は、高市の社に居る、名はコトシロヌシ神。また「身狭(むさ)の社」に居る、名はイクタマ神である」といった。そして(神意を)顕して、カムヤマトイワレヒコ(神武)天皇の陵に、馬と色々の兵器を奉れ」といった。「西の道から軍勢が来ようとしている。つつしむがよい」といった。言いおわって(神がかりから)さめた。

また「村屋」の神が、神官について「今にわが社のある中の道から、軍勢がやってくる。だから、社の中の道をふさげ」といったと、記されています。

今回は、日本書紀(壬申の乱)に出てくる社「高市の社」?について紹介したいと思います。

前回は、「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)と「村屋の社」(磯城郡田原本町)は探すことができましたが、どうしても「高市の社」は、未定で探すことが出来ませんでした。

その後、色々と探すうちにひょとして「高市の社」ではないかという「社」を見つけましたので、歴史散策してきました。

「社」の名前は、奈良県橿原市雲梯(うなて)ある「河俣神社」です。場所は、近鉄坊城駅で下車し、大和川最大の支流である曽我川河川敷を約20分程下った「戒智橋」の東端に鎮座しています。高市御県坐鴨事代主神社に比定される式内大社で、祭神は「事代主神」です。古墳時代以降、「事代主」は雲梯(うなて)の地で大和朝廷を守護してきた出雲の神様だそうです。

『日本書紀』には、壬申の乱において、高市郡大領高市県主許梅が神がかりして「吾は高市社に居る、名は事代主神なり」と神が予言されました。

それが的中して、戦勝したとあります。戦勝後、天武天皇は「高市社」に許梅を遣わして幣を奉らしめ、品位を奉授したといわれています。

この「高市社」が、当社のこととされているようです。

はたして、この「河俣神社」が日本書紀(壬申の乱)に出てくる社「高市の社」なのでしょうか?とても、落ち着いた雰囲気のある神社でした。

「雲梯の社(河俣神社)」は、万葉集でも詠われています。境内には、万葉歌碑がありました。 

「思はぬを思ふといはば真鳥(鷺)住む卯名手の社の神し知らさむ」

(訳)あなたのことを思っていないといっても、鷺の住む雲梯の社だけは真実を知っていますよ。 

 「日本書紀」に記されているとされる3つ「社」に行ってみて、改めて「大和」の凄さを感じさせられる歴史散策となりました!

〇「身狭(むさ)の社」(橿原市見瀬町)

  

〇「村屋の社」(磯城郡田原本町)

  

〇「河俣神社」(橿原市雲梯町)

               

 

 

 

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「忍海(おしみ)」歴史散策

2018年01月24日 19時54分33秒 | 歴史

奈良県葛城市忍海(おしみ)は、葛城山の麓に位置し明日香村から車で約30分位の所にあります。都が藤原京(694~710年)にあったころ、葛上郡と葛下郡にはさまれて忍海郡が設置されていたようです。「忍海」の名が使用されたのは、鉄生産技術を持って朝鮮から渡来した人たちの集団である忍海氏の本拠地であったことによるものと推測されます。忍海氏のオシヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係していたものと思われます。

今回は、「忍海」を歴史散策しましたので紹介したいと思います。

〇「角刺(つのさし)神社」は、「古事記」に北花内に御陵のある「飯豊天皇」(女帝)が葛城の忍海の高木の「角刺宮」で即位したと記されています。近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分の所にあります。祭神は、「飯豊青命(いいとよのあおのみこと)」です。彼女は、葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされています。忍海の「角刺神社」の辺りは、「日本書紀」顕宗即位前記で「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されていますが、今はその面影はありません。「角刺神社」境内の東側には、小さな「鏡池」があります。「飯豊青皇女」が「忍海角刺宮」で政務を取っていた時、毎朝この池で顔を洗って、池に自分の姿を映していたという故事から、この池は「鏡池」と呼ばれています。とても静かな、小さな神社でした。

     

〇「飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにくちのおかのみささぎ)」は、「飯豊天皇」の陵です。清寧天皇崩御の後、弘計王(顕宗)と億計王(仁賢)とが皇位を譲り合って空位となっ たため、一時女王として葛城の忍海「角刺宮」で 政治を行ったと伝えられています。御陵は 、6世紀前半の築造といわれています。 御陵は全長90mの前方後円墳で、後円部径50m、前方部幅70mの規模をもち、幅10~15mの周濠をめぐらしています。 周濠内から 円筒・形象埴輪、有孔木製品が出土しています。「記紀」では、天皇として認められていないようですが、明治時代から昭和20年までは「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていたようです。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称しているようです。はたして、日本最初の女帝がここに眠っているのでしょうか?

        

〇「笛吹神社」は、当地を拠点とした笛吹連によって作られた神社とみられています。祭神の天香山命は、笛吹連の祖神です。正式には「葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)」といいます。旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社です。音楽の神様(天香具山彦尊)としても知られ、正月には フルートや尺八など奉納演奏が行われます。周りは県天然記念物に指定されている イチイガシが群生しています。本殿の背後には、奈良県指定史跡の「笛吹神社古墳」があり、笛吹連の祖・櫂子の父である建多析命の墓であると伝えられています。 残念ながら、遠くからしか見ることが出来ませんでした。また拝殿下の境内には、日露戦争の記念のロシア製「加農攻守城砲」が置かれています。とても静かな、落ち着いた雰囲気のある神社でした。

                 

〇「脇田神社」は、祭神は菅原道真・天児屋根命・天照皇大神・市杵島姫命です。忍海連の氏寺とみられています。境内前に「天満宮」の社号標が立ち、地元では「脇田天満宮」と呼れているようです。この神社の鳥居の傍に、径2メートル程もある大きい礎石が1個置かれています。「地光寺」(飛鳥時代末頃)の東塔の心礎といわれています。 西塔の心礎もあったそうですが現在は不明です。道路沿いにある小さな神社ですが、凄く立派な礎石をみて大変驚きました。1300年前、一体どの様な塔が立っていたのでしょうか?

前から行きたかった「忍海」の歴史散策、とても興味深く歩くことが出来ました!

           

 

 

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最古の古道 「山の辺の道」

2018年01月20日 19時30分45秒 | 散歩

古代、奈良盆地の東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道がありました。「日本書紀」にその名が残っているのが、「山の辺の道」です。「山の辺の道」沿いには、今も「記紀・万葉集」 ゆかりの地名や伝説が残っています。

今回は、最古の古道「山の辺の道」を紹介したいと思います。

この数日、飛鳥の地では春を思わせるよう天気が続きましたので、大好きな「山の辺の道」を歩いてきました。

「山の辺の道」は、歴史に登場する道路のうちで最古の古道と呼ばれています。現在、その道をはっきりと跡づけることはできませんが、海柘榴市(つば いち)から三輪、景行・崇神陵を経て、石上から北上する道と考えられています。 延長約26kmですが、なかでも古代の面影を残す桜井駅から天理駅までの約16kmがハイキングコースとして親しまれています。 沿道には、陵墓や古墳・遺跡・古い社寺等が多くあります。

今回は、天理市柳本にある「崇神天皇陵」から桜井市の「大神神社」までを散策してきました。約6キロ位の道程でした。

「崇神天皇陵」(242メートル)からスタートし、「景行天皇陵」(310メートル)の横を通り、「桧原神社(ひばらじんじゃ)」で昼食をしました。「桧原神社(ひばらじんじゃ)」は、「大神神社」の摂社のひとつで、三輪山中にある磐座を神体としているので本殿はありません。天照大御神を祀り、元伊勢とも呼ばれています。その後、「狭井神社」・「大神神社(おおみわじんじゃ)」までのんびりと歩きました。「大神神社(おおみわじんじゃ)」は、三輪明神ともいい、背後の三輪山を御神体とする我が国最古の神社です。御諸山または神体山ともいわれ、古くから聖なる山、神の山として崇められており、三輪山神話として記紀にも多く登場しています。

 道沿いには記紀・万葉に登場する名所旧跡が、数多くあり、神話や古代ロマンの世界へと連れていってくれます。ゆっくり歩きながら眼下にひろがる奈良盆地の中に浮かぶ大和三山や二上山の眺望を楽しみながら、ゆっくりと歩けるおすすめの古道です。

景色は勿論素敵ですが、ルート途中に地元野菜・果物の無人販売所多数あり楽しみの一つです。今回は、干し柿を買って昼食時に食べました。

「古代ロマンの世界」へと誘う「山の辺の道」、何度歩いても気持ちのいい「古道」です!

                                               

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飛鳥の 「雪景色2018」

2018年01月17日 10時25分33秒 | 散歩

奈良県明日香村の冬は、山々に囲まれているせいか底冷えするような寒さです。雪は、年に数回しか降らず夕方頃にはほとんど溶けています。

今回は、1月11日に降った飛鳥の「雪景色2018」について紹介したいと思います。

めったに降らない雪が1月10日の夜より降り続け、11日は一面銀世界となりました。この日は、奥飛鳥栢森で「女綱」の綱掛神事が行われる日でした。

心配しましたが、16時頃行われた「女綱」の綱掛神事の時は、雪は残っていましたが無事に綱掛神事は行われました。

飛鳥では、なかなか目にすることのない銀世界でしたので、朝からカメラを持って撮影に行ってきました。私と同じような方が、行く所行く所におられ驚きました。

飛鳥は、四季の変化を肌で感じさせられるところです。今回の「雪景色」は、いつも目にしてる風景とはひと味も違う素敵な景色でした!

                            

 

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奥飛鳥栢森地区の 「女綱の綱掛神事2018」

2018年01月11日 20時17分54秒 | 散歩

奈良県明日香村栢森地区において、1月11日(木)に「女綱」の 綱かけ神事が行われました。 明日香村では、毎年「成人の日」に稲渕地区で「男綱」が、1月11日の日には柏森地区で「女綱(めずな )」が、豊作を祈って新しく 作り掛け替えられます。「綱掛け神事」は、稲淵と栢森両大字に伝わる神事です。子孫繁栄と五穀豊穣を祈る とともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押しとめ、住民を守護するための 神事と言われています。

今回は、奥飛鳥栢森地区の「女綱の綱掛神事2018」の様子を紹介したいと思います。

明日香村では、年に数回しか降らない雪が朝から降り、一面銀世界となりました。

不思議にも「女綱の綱掛神事」の時は止んでいました。残念ながら、雪のためか参加者が少なかったです。16時位から行われ、17時頃には終了しました。

稲渕 の「男綱」と対をなす、柏森(かやのもり)の「女綱(めずな)」です。 稲渕からさらに南へいった柏森の入り口付近にあります。

栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行うことです。福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱を」掛け渡します。

こちらでも、最後に参加者にミカンが配られました。明日香村という歴史の地で、郷土行事を通しその一端に触れさせていただきました。飛鳥ならではの、ありがたい経験でした!

                                 

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