泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

佐保路「東院庭園と周辺の史跡」

2019年03月31日 13時40分14秒 | 歴史

春の陽気に誘われて、久しぶりに「佐保路」を散策してきました。「佐保路」は、奈良東大寺の西の門・転害門から西へのびる道が、平城京の南一条大路~法華寺までを「佐保路」と呼び、その先は「左紀路」となって西へのびていて史跡の多い路です。

以前、一度歴史散策したことがあります。その時の様子を、ブログ「万葉人が愛した・佐保路」(2015年2月5日)で紹介させていただきました。

今回は、その時に行けなかった所を中心に、佐保路「東院庭園と周辺の史跡」散策の様子を紹介したいと思います。

前回の散策では、時間の都合で行けなかった「東院庭園」や「法華寺」・「海龍王寺」・「佐紀盾列古墳群」を歴史散策してきました。

〇「東院庭園」は、現在の平城宮跡の東側エリア、宇奈多理坐高御魂神社や法華寺エリアの近隣に位置にあります。「奈良時代の庭園風景」を緻密な調査により復元した貴重な庭園です。平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれていたようですが、孝謙(称徳)天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。

1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見されました。この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、発見された庭園は「東院庭園」となづけられました。東院庭園は東西80m×南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認されました。

称徳天皇は、この地に「東院玉殿」を建て宴会や儀式を催しました。最近の研究では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心として営まれていたとする説があります。いずれも、発掘された「東院庭園」と深く関わる施設だと考えられているようです。

庭園は中心部に行けを配置し、その周囲が建築で囲まれる形式をとっています。水面に張り出す露台を備えた檜皮葺(ひわだぶき)建築をはじめ池辺の施設群は、法隆寺にあった堂宇などをもとに復元されたようです。また、日本最古の「築山」といえる「仮山」と呼ばれる石組みが設けられていたり、池の周囲が複雑な曲線形を描くなど飛鳥時代の庭園とは異なった繊細な風景を生み出して、日本庭園の原型ともいえる庭園です。

飛鳥にある「飛鳥京跡苑池」とは違った「東院庭園」は、是非とも見たかった所でした。ボランティアガイドさんの案内のもと、復元された奈良時代の庭園をのんびりと散策することができました!

                  

〇法華寺は、創建当初から千二百五十年以上続くお寺です。光明皇后は、藤原不比等(ふじわらのふひと)没後、屋敷を皇后宮とし、その後、総国分尼寺 法華滅罪之寺とされました。その後、略称として「法華寺」と呼ばれるようになりました。東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となされ、『続日本記』には、光明皇后の勧めによると記されています。

本尊は、国宝の十一面観音様です。光明皇后が蓮池を歩かれた姿を写したと言い伝えられています。蓮の花と葉を交互にされた光背や、右足の少し浮いた遊び足は、他の仏様には、あまり見られない、特徴にあげられています。今回は、残念ながら御開帳されたいませんでしたので、別の機会に拝顔させていただきたいと思います。
また法華寺には、浴室と呼ばれるお風呂が現存しており、1250年以上前に、病気の方や困っている方の為に施浴はおこなわれておりました。浴室(からふろ)は現在でも施浴体験が行われているようです。残念ながら現在修理中で、中は見学できませんでした。
境内にはあちらこちらに春の花が咲いて、春の大和路の寺の景色でした!
              
 
〇海龍王寺は、731年、遣唐使として中国に渡っていた初代住持の「玄昉」が、一切経と新しい仏法とを無事に我が国にもたらすことを願い、光明皇后によって創建されたとも伝わっており、お寺の場所が平城宮の東北の隅に当たることから「隅寺あるいは角寺」とも呼ばれています。「玄昉」が唐より帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際に、海龍王経を唱えたところ、かろうじて種子島に漂着し、奈良の都へ無事に帰ることが出来たことがきっかけで遣唐使の無事を祈願する寺院となり、現在も旅行・留学に赴く方々の信仰を集めています。境内には、創建当初からの建物である西金堂(重要文化財)と、堂内に安置されている高さ4mの五重小塔(国宝)が残り、特に五重小塔は天平時代に作られた塔の中で、唯一現存している五重塔として価値が高く、西金堂とともに天平時代の建築様式を現代に伝える貴重な建物となっています。天平時代に作られた五重塔は、一見の価値がある素晴らしい塔でした!
        

〇奈良県北部の佐紀丘陵の南西斜面先端部に立地するコナベ古墳は、大小60あまりの古墳よりなる佐紀盾列古墳群の東群に属し、その東にはウワナベ古墳、北西には磐之媛命(仁徳天皇皇后)の陵墓に治定されるヒシアゲ古墳があります。コナベ・ウワナベ・ヒシアゲの3基の古墳は、平城宮大極殿跡の北東約750メートルの地点に立地します。どうして、このような場所に大きな古墳群ができたのでしょうか?現在、古墳の周辺は整備されており、地元の方がのんびりと散歩されていました!

春の陽気に誘われての「佐保路」は、とても気持ちがよく「春の大和路」の散策のコースとしてお勧めですよ。次は、「左紀路」を散策したいと思います。

      


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策(2)

2019年03月23日 17時15分14秒 | 歴史

奈良盆地のほぼ中央に位置する奈良県田原本町は、古くは「俵本」とも書かれた歴史のある町で、かつては古代下ッ道(中街道)に沿った交通の要衝であると共に、豊臣秀吉の時代から江戸期を通して5000石の交代寄合の旗本で、明治に入って政府に嘆願し大名に列した平野氏の陣屋町であった所です。さらに教行寺(田原本御坊)の寺内町という性格を合わせ持った都市でした。この歴史ある「田原本町」を2回に分けて、歴史散策してきました。

前回は、近鉄田原本駅(出発)-津島神社(祇園祭は中和最大の夏祭り)ー楽田寺(中世田原本の中心地)-浄照寺(太鼓楼に江戸時代の面影)-本誓寺(領主平野家の菩提寺)-平野氏陣屋跡(現在は、田原本町役場)・旧町並み(平野氏5千石の陣屋町と寺内町)ー近世中街道(古代下ツ道)までを紹介しました。

今回は引き続き、古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策(2)の様子を紹介したいと思います。

今回は、近世中街道(古代下ツ道)ー新町武村邸ー鏡作神社(古代鏡作の中心地)-安養寺(快慶の仏像とご対面)-笹鉾山古墳(完形の馬形埴輪が出土)-鍵の蛇巻き・八坂神社ー千万院(創建は聖徳太子)・池神社(秋祭りは山車は圧巻)-唐古・鍵遺跡史跡公園(散策終了)を紹介したいと思います。

〇「新町武村邸」は、古くは河内に居住し戦国時代の末ごろに八尾新町に移り、それ以来この地の名主として明治維新にいたるまで庄屋をつとめた家柄であると伝えられています。特に離座敷は、昭和23年、文化財保護法旧法の重要美術品の指定を受けましが、新法には移行されていないようです。道沿いの家屋は、かなり傷んでおり文化財保護の難しさを痛感させられ景観でした。

            

〇「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)」は、4~5世紀にかけて、鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡並びに遠祖を氏神として開いた神社であるとされています。毎年2月下旬に、御田植祭が行われています。お田植舞、豊年舞、牛使いが行われ、近隣の氏子でにぎわうようです。牛使いが乱暴にすると、慈雨に恵まれるといわれています。

また、拝殿に行く途中にある 「鏡石」は、江戸時代に鏡池から出土したものだそうです。鏡作成の仕上げに使われたものだと伝えられています。とても、歴史を感じられる神社でした。

                   

〇「安養寺」は、観光寺院ではありませんが、鎌倉時代の名仏師・快慶作の「阿弥陀如来立像(重文)」がいらっしゃいます。残念ながら、事前に予約してなかったのので拝顔できませんでした。

       

〇「笹鉾山古墳」(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳です。全長88メートルの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳です。墳頂には稲荷神社が祀られ、前方部に向かって参道が伸びています。墳丘には、埴輪が樹立されていたようです。真横に畑や民家があり墳頂には稲荷神社があって、古墳とはわからないような状態でした。

        

 〇6月の第1日曜日、今里の杵築神社と鍵の八坂神社で「蛇巻き」の行事が行われます。「蛇巻き」は、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午の節句にちなんだ行事です。また、やがてくる田植え時に雨が降るようにという祈りを含んでいるようです。「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に吊るされます。この蛇は、下り龍・降り龍だそうです。八坂神社の近くの鍵で、昨年度の「蛇巻き」を見ることができました。

         

〇「千万院」は、「聖徳太子」が615年に法起寺を田原本町に開創し、「秦河勝」に与え秦氏の氏寺としたと伝えられています。法起寺は後に法貴寺となり、大寺として栄えたといわれています。その法貴寺の数ある塔頭の一つが千万院であり、江戸時代には千万院と本坊のみが残りますが衰退を経ています。明治時代に入り、千万院のみが残り、法貴寺の法灯を細々と継いでいます。とても小さな、お堂でしたが、「聖徳太子」が開創したと思うと感慨深いものがありました。

また、同じ場所にある「池神社」は、初瀬川西岸にある式内の古社で、祭神は天万栲幡千幡比売命と菅原道真。 秋の例祭には各垣内から繰り出す5台の山車がみごとだそうです。

                

〇「唐古・鍵遺跡史跡公園」は、今から約2,000年前の弥生時代に栄えた、幾重もの環濠に囲まれた集落の遺跡です。その規模は約42万平方メートル(甲子園10個分)という広さで、日本最大級のムラが営まれていました。大きな建物があったことを示す遺構や、日本各地から運び込まれた遺物なども見つかっており、この集落は当時の最先端の技術を持ち、近畿地方のリーダーのような役割をしていたのではないかと考えられています。

ここでは、以前から「復元楼閣」などが建てられていましたが、さらに整備が進められ弥生時代の風景が再現されました。また、敷地内にある「唐古・鍵遺跡史跡公園遺構展示情報館」では、住居跡等を見ることができます。

約2,000年前に、この場所で我々の祖先が生活していたのですね~・・・

二日間にわたって、地図を見ながらの田原本町の歴史散策は、とても興味深く歩くことができました!

                                                           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策(1)

2019年03月17日 22時38分52秒 | 歴史

奈良盆地のほぼ中央に位置する奈良県田原本町は、古くは「俵本」とも書かれた歴史のある町で、かつては古代下ッ道(中街道)に沿った交通の要衝であると共に、豊臣秀吉の時代から江戸期を通して5000石の交代寄合の旗本で、明治に入って政府に嘆願し大名に列した平野氏の陣屋町であった所です。さらに教行寺(田原本御坊)の寺内町という性格を合わせ持った都市でした。この歴史ある「田原本町」を2回に分けて、歴史散策してきました。

今回は、古代下ツ道から近世中街道へ「田原本町」歴史散策の様子を2回に分けて紹介したいと思います。

(行程)

近鉄田原本駅(出発)-津島神社(祇園祭は中和最大の夏祭り)ー楽田寺(中世田原本の中心地)-浄照寺(太鼓楼に江戸時代の面影)-本誓寺(領主平野家の菩提寺)-田原本聖救主教会ー平野氏陣屋跡(現在は、田原本町役場)・旧町並み(平野氏5千石の陣屋町と寺内町)ー近世中街道(古代下ツ道)ー新町武村邸ー鏡作神社(古代鏡作の中心地)-安養寺(快慶の仏像とご対面)-笹鉾山古墳(完形の馬形埴輪が出土)-鍵の蛇巻き・八坂神社ー千万院(創建は聖徳太子)・池神社(秋祭りは山車は圧巻)-唐古・鍵遺跡史跡公園(散策終了)

以前、「田原本町」は地元のボランティアガイドの案内で、近鉄田原本駅の西側地域を中心に歴史散策しきました。(2016年12月6日のブログ、多くの太子伝説が残る「太子道(筋違道)」で紹介させていただきました。)今回は、東側の寺内町や近世中街道(古代下ツ道)沿いを中心に、観光協会でいただいたガイド地図を見ながらの散策でした。

今回は、近鉄田原本駅(出発)-津島神社(祇園祭は中和最大の夏祭り)ー楽田寺(中世田原本の中心地)-浄照寺(太鼓楼に江戸時代の面影)-本誓寺(領主平野家の菩提寺)-平野氏陣屋跡(現在は、田原本町役場)・旧町並み(平野氏5千石の陣屋町と寺内町)ー近世中街道(古代下ツ道)までを紹介したいと思います。

〇「田原本町」の町並みは、かつての町割りをそのまま残す碁盤の目に狭い街筋は、自動車に一方通行を強いたうえで、伝統的な商家建築がいたる所に残されています。江戸時代から明治4年の廃藩置県まで行政中枢施設として存在していました。現在では開発によって消滅してしまいましたが、石碑が建てられているのでそれが目印です。水路や路地は残っていることから、当時の面影をしのぶことができます。

また、田原本町には多くの神社が点在しますが、その中でも「津島神社」は地元の人に親しまれています。田原本町住民から「祇園さん」の愛称で呼ばれています。神社の近辺は、伝統的な商家建築がいたる所に残されていて、見ごたえがありました。

              

〇「浄照寺」は、平野長勝の創建と伝えられ木造阿弥陀如来立像(江戸時代前期)を本尊としています。また、寺宝として親鸞上人画像一幅があり、大谷本廟に安置されていたものを本願寺から下付されたといわれています。 主な建造物には、本堂・庫裏・鐘楼・太鼓楼・表門があり、このうち表門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝えられています。寺内町の中心で、とても立派なお寺でした。

         

〇「田原本聖救主教会」は、日本聖公会の田原本布教の歴史は、1883年の説教会に始まり、1895年には最初の会堂を建築し、伝道を本格化しました。

 現会堂は、1933年に建てられ、木造平屋、切妻造りです。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架がついています。玄関妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭和初期当時の面影を留めています。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」のロケ地としても使用されました。

まさか、よく見ていた「マッサン」のロケ地とは知りませんでした。見逃してしまいそうな、小さな教会でした。

     

〇 「平野氏陣屋跡」は、江戸時代、田原本町を治めていた「平野長泰」から名前を取ったのが由来です。

「平野氏陣屋跡」は、現在の田原本町役場になっています。陣屋は、賤ヶ岳の七本槍の一人である「平野長泰」が拝領した田原本村の地に、その二代目長勝が1635年に着工しました。長勝は、当時の田原本で寺内町形成を進めていた浄土真宗の教行寺を1647年に著尾へ引払わせ、陣屋を1648年に竣工させました。陣屋は、明治4年の廃藩置県まで平野氏支配下の行政中枢施設として役割を果たしました。平野氏陣屋跡は、周辺の市街化が進み、水路と路地がその地割りを伝えるのみです。しかし田原本は寺内町の機能が維持された上に、中街道及び大和川の水運による大阪との交通により、高市郡の寺内町「今井町」に匹敵する商業資本を蓄積すると共に、その発展は明治20年まで続くこととなりました。

「平野氏陣屋跡」の説明板がなければ、通り過ぎるところでした。

次回は、近世中街道(古代下ツ道)ー新町武村邸ー鏡作神社(古代鏡作の中心地)-安養寺(快慶の仏像とご対面)-笹鉾山古墳(完形の馬形埴輪が出土)-鍵の蛇巻き・八坂神社ー千万院(創建は聖徳太子)・池神社(秋祭りは山車は圧巻)-唐古・鍵遺跡史跡公園(散策終了)を紹介したいと思います。

      

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「早春の飛鳥花風景・2019」

2019年03月11日 08時09分29秒 | 散歩

奈良県明日香村においても、待ちに待った「春」がやってきました。

今回は、菜の花があちらこちらに咲き梅花の香りがする「早春の飛鳥花風景・2019」を紹介したいと思います。

ヒバリの声を聴きながら飛鳥を散策していると、あちらこちらで梅花の香りや菜の花など「春」の景色を目にします。

特に、奥飛鳥の稲渕地区の棚田周辺を散策していると、「春」が肌で感じられます。

また、夕焼けの景色が冬から春に変わってきています。この時期の飛鳥は、四季の変化を肌で感じさせられる所だと改めて思う瞬間です。

飛鳥に訪れる方も、少しずつ増えてきています。

梅花の香りがただよう「早春の飛鳥」の散策、とても気持ちがよくおすすめですよ!

                    

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(3)

2019年03月07日 22時16分39秒 | 歴史

「磐余(いわれ)」とは、奈良盆地の東南端に位置し、奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名です。この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地でした。

 前回、2回に分けて大和政権の政治の中心地「磐余の道(いわれみち)」沿いの歴史散策の様子を紹介しました。

ひき続き、大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(3)の様子を、紹介したいと思います。

今回は、ひとりで「稚桜(わかざくら)神社」・「磐余池推定地」の近くにある、「青木廃寺跡」と「池之内古墳群」を、歴史散策してきました。

〇「青木廃寺跡」

桜井市橋本(桜井市の西南にあり橿原市に接している)の青木山の山懐にあるのが、「青木廃寺跡」です。
この寺は、奈良時代の悲劇の宰相だった「長屋王」が、父「高市皇子」の菩提(ぼだい)を弔うために創建されたと考えられる寺院跡が、「青木廃寺」だといわれています。ここは今でも古瓦が散見され、古代瓦研究家の先生によると、長屋王邸跡(現イトーヨーカドー奈良店)から出土したものと同じ型の瓦が多数出土していることや、高市の子孫である高階(たかしな)氏の銘の入った瓦が見つかっていることから、「長屋王」が父・高市の冥福を祈って建てた寺と考証しているようです。
ちなみに「高市皇子(たけちのみこ)」は、天武天皇の第一皇子で母は筑前の豪族・宗像徳善(むなかたとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)です。壬申の乱のおり活躍しました。

現在、「青木廃寺跡」に置かれているのが「泥掛地蔵尊」です。このお地蔵さんに、自分の痛むところ、治したいところに合わせて、このお地蔵さんに泥を塗りつけると、治るという信心があるようです。地域で大切にされているようです。この日も、新しい花が添えてありました。

ところで、「青木廃寺跡」の場所がなかなわかりづらく、何回も道を間違えました。大師堂の横の道をしばらく歩くと、ようやく標識がありました。途中には、小さな石仏があり溜池の横を通り過ぎると「泥掛地蔵」さんが見えてきました。周辺には平らなところがあり、ここに寺が立っていたのでしょうか・・・

苦労して見つけた「青木廃寺跡」もですが、行く途中の路傍の石仏と「泥掛地蔵」さんのお顔が印象的でした!

                   

〇「池之内古墳群」

桜井市の西南部に位置する古墳群で、1970年県立農業大学校の建設に先立ち橿原考古学研究所で調査されました。小規模な古墳群(8基)ですが、鏡、勾玉、管玉、石釧、琴形石製品、鏃形石製品、鉄製武器類など豊富な出土品がありました。これらの出土品から、4世紀末~5世紀にかけて築造された前期古墳的な性格を持つ古墳群として中央政権に君臨した豪族層の墳墓群の可能性が考えられているようです。また、副葬品はほとんど橿原考古学研究所で保管されており、見ることが出来るようです。

「池之内古墳群」は、「稚桜(わかざくら)神社」から、数分の所にあります。「奈良県農業研究開発センター」の敷地内にあり、整備されていますが説明版が一枚あるだけでした。

このあたりは、古代の宮跡が集中している「磐余(いわれ)」の地域と考えられており、この古墳群には、はたしてどのような人が眠っているのでしょうか・・・

今回も、古代を想いながらの散策でした。春の陽気にさそわれて、のんびりと歩く「磐余の道(いわれみち)」沿いの歴史散策、とても面白かったですよ!

              

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする