泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥の 「夏風景・2018」

2018年07月30日 15時31分30秒 | 散歩

飛鳥地域において、7月28日の夜に台風がきて風雨が激しかったのですが、大きな災害もなかったようです。皆さんの地域は、如何でしたでしょうか・・・。翌日から、普段の暑さが続いています。

今回は、飛鳥の「夏風景・2018」を紹介したいと思います。

夏は、春に比べて飛鳥を訪れる人も少なく、のんびりと歩くことが出来ます。夏のお薦めは、「緑一面の棚田と夕焼け」の風景です。

棚田の風景は、奥飛鳥と呼ばれている稲渕地区の棚田・細川谷の棚田や真神が原の景色がとても気にいっています。

稲渕地区の棚田には、はやくも「ジャンボ案山子」が飾られていました。高さ6m・重さ300キロの「ジャンボ案山子」です。今年は、「西郷どん」でした。とても良くできていました。

もう一つのお薦めが「夕焼け」の風景です。毎日、違った「夕焼け」の景色を見せてくれます。

飛鳥の夏は、「緑一面の棚田と夕焼け」の風景がお薦めです!

                                       

 

 

 

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山城最大の古墳群 「久津川古墳群」歴史散策(2)

2018年07月27日 16時15分36秒 | 歴史

先日、歴史大好きなサークルの皆さん約150人と一緒に学芸員さんの案内のもと、京都府城陽市にある古墳群「久津川古墳群」を歴史散策してきました。

 前回に引き続き、山城最大の古墳群「久津川古墳群」歴史散策(2)を紹介したいと思います。

 (行程)

 近鉄京都線寺田駅(集合)ー城陽市歴史民俗資料館ー水度神社ー尼塚古墳ー久世廃寺跡ー正道官衙遺跡ー芝ヶ原古墳ー上大谷古墳群ー丸塚古墳ー久津川車塚古墳ー芭蕉塚古墳ー青塚古墳ー久津川駅(解散)

今回は、久津川車塚古墳ー芭蕉塚古墳ー青塚古墳ー久津川駅(解散)の歴史散策の様子を紹介したいと思います。

 「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は、京都府内最大の古墳群である「久津川古墳群」を代表する古墳4基です。

その中心である「久津川車塚古墳」は、 5世紀前半に築造された山城地域最大の前方後円墳です。三段に築かれた墳丘には葺石と埴輪列が施され、周囲には二重に周濠がめぐります。外濠を含めた全長は 272 mで、墳丘の長は180mあります。 埋葬施設は長持形石棺を直接埋めたもので 、石棺の内外からは鏡・玉類・ 武器・ 武器・ 武器・ 武具 など多くの副葬品が出土しています。銅鏡7面は、いずれも国の重要文化財です。また、長持形石棺も国の重要文化財に指定されており、実物は現在京都大学総合博物館に保存・展示されています。

長持形石棺のレプリカは、城陽市歴史民俗資料館で展示されています。とても見事に復元されており、見応えがありました。

墳丘の入り口には、被葬者と思われるキャラクターの人物の絵がここにもありました。墳丘に登り、埋葬施設が発見された場所に案内していただきました。

驚いたことに、古墳の一部は、線路によって切断されていました。

「芭蕉塚古墳」は、5世紀中頃に築造された前方後円墳で、 二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪 列が施され、周囲 には周濠がめぐります。周濠を含めた全長 は161m、墳丘の長は114mあります。 埋葬施設 は、後円部で粘土槨がみつかっています。「久津川車塚古墳」に続いて南山城地域 を支配 した有力者の墓と考えられます。

久津川駅から数分の所にあり、奈良線の線路沿いの道路脇に柵で囲まれた一角です。横は、スーパーの駐車場となっており説明板によってやっと古墳と分かりました。立入禁止のようで、自由に出入りする事は出来ませんでした。もし説明板が無ければ、雑木林としか見えないのが残念な状態でした。

「青塚古墳」は、34.6m×34m・高さ5.3mの二段築成の方墳です。西槨から鏡・短甲・冑・刀子・鉄刀・鉄鏃などが出土し、東槨から鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鉄鏃などが出土しています。槨外から鏡・玉類などが出土しています。墳丘はほとんど削られていますが、濠と古墳の一部が残っています。築造年代は、「芭蕉塚古墳」と同じ時期に築造されたと推定されています。

驚いたことに、なんとスーパーの建物の南西に隣接して竹林がある所が「青塚古墳」でした。金網に囲まれていて、中には入れませんでした。ここも、雑木林としか見えないのが残念な状態でした。

今回の山城最大の古墳群「久津川古墳群」歴史散策は学芸員さんの案内のもとに、約10キロのアップダウンの多い歴史散策でした。学芸員さんの現地での詳しい説明があり、とても興味深い歴史散策となりました! 

                      

 

 

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明日香村で行われた 「地蔵盆」

2018年07月24日 15時21分56秒 | 歴史

奈良県明日香村では、7月23日に各地区において「地蔵盆」が行われました。「地蔵盆」とは、地域を見守ってくれている「お地蔵様」を祀って、日ごろの感謝を伝える行事です。

今回は、明日香村で行われた「地蔵盆」の様子を紹介したいと思います。
「地蔵盆」は、「お地蔵様」の多い京都が発祥と言われ、近畿地方を中心に古くから伝わってきたようです。
「地蔵盆」は、子どもが中心となって8月23日・24日の地蔵菩薩の縁日の2日間で行われます。地域によっては1日のところや、旧暦をそのまま新暦に当てはめた7月23日、24日に行うところもあるようです。

明日香村では、7月23日の18時から各地区で行われました。地区によっては多少の違いはありますが、大字を中心にお寺や地域で祀(まつ)る「地蔵尊」の前でお祀りをします。会場の周りには、灯籠や提灯などが飾られます。

「地蔵盆」で行われる代表的なものに、「数珠まわし」というものがあります。子どもたちが2~3mの大きな数珠を囲って輪になって座り、読経に合わせて回す儀式です。

また「お接待」といい、「お地蔵様」にお供えされたおさがりを子どもたちに配られます。「お地蔵様」の前に集まった席で子ども達は、供養の菓子や料理などを振る舞われ楽しそうでした。

「地蔵盆」が、全国規模の行事じゃなく近畿地方を中心に古くから伝わってきたことを、明日香村に住んで初めて知りました。

決して派手でにぎやかなお祭りではないのですが、村内の一角で地域住民だけで行なわれる「地蔵盆」、風情があっていいものですね~!

                        

 

 

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山城最大の古墳群 「久津川古墳群」歴史散策(1)

2018年07月22日 15時40分08秒 | 歴史

先日、歴史大好きなサークルの皆さん約150人と一緒に学芸員さんの案内のもと、京都府城陽市にある古墳群「久津川古墳群」を歴史散策してきました。

今回は、山城最大の古墳群「久津川古墳群」歴史散策の様子を2回に分けて紹介したいと思います。

(行程)

近鉄京都線寺田駅(集合)ー城陽市歴史民俗資料館ー水度神社ー尼塚古墳ー久世廃寺跡ー正道官衙遺跡ー芝ヶ原古墳ー上大谷古墳群ー丸塚古墳ー久津川車塚古墳ー芭蕉塚古墳ー青塚古墳ー久津川駅(解散)

近鉄京都線寺田駅ちかくで午前10時に集合し、近くにある城陽市歴史民俗資料館において、今回歴史散策する古墳等の発掘された物等を見学し出発しました。

今回は、「丸塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」を中心に紹介したいと思います。

城陽市歴史民俗資料館ー水度神社ー尼塚古墳ー久世廃寺跡ー正道官衙遺跡ー芝ヶ原古墳ー上大谷古墳群ー丸塚古墳

「久津川古墳群(くつかわこふんぐん)」は、京都府城陽市にある古墳群です。一部が国の史跡に指定されています。京都府内では最大級の古墳群です。

「久津川古墳群」は、木津川、淀川水系において、大阪府高槻市・茨木市の三島野古墳群・乙訓地域の古墳群とともに三大古墳群の一つに数えられています。その数は、城陽市から宇治市にまたがる宇治丘陵上及び平野部に約150基と大きな規模を誇っています。「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は国の史跡に指定されており、特に「久津川車塚古墳」は、「久津川古墳群」中、最大のものです。 

「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は、京都府内最大の古墳群である「久津川古墳群」を代表する古墳4基です。
南山城地域を支配た有力者の墓と考えられ「丸塚古墳」は、5世紀前半に築造された前方部が短い帆立貝形の後円墳で、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪列が施され、周囲には周濠がめぐります。 周濠を含めた全長は104 mで、墳丘長は80 mあります。前方部から大型の家形埴輪が出土しています。「久津川車塚古墳」の被葬者地域支配をえた有力墓と考えられます。 家形埴輪は城陽市歴史民俗資料館で展示されています。

なんと、古墳の前には被葬者と思われるキャラクターの人物の絵があり驚きましたが、とてもユニークで面白いと思いました!

久世小学校にある古墳「久世小学校古墳」(芝ヶ原 9号墳)は、5世紀中頃に築造された直径 27.5 mの円墳で 、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪 列が施されます。埋葬施設は粘土槨を簡略化したもので、上面から朝鮮半島の土器である陶質土器 が出土しています。芭蕉塚古墳の被葬者地域支配をえた有力者の墓と考られます。

校舎 の合間にある不思議な古墳でした。ここで学ぶ子ども達は、この古墳のことをどのように思っているのでしょうかね~?

次回は、「久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳」等を紹介したいと思います。

                                             

 

 

 

 

 

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古代史の謎 「八角墳は大王の墓?・中臣(藤原)鎌足の出自は?」

2018年07月18日 09時33分16秒 | 歴史

先日、茨城県水戸市に行く機会がありました。水戸駅の近くに「吉田古墳」の看板がありました。気になりましたので行ってみると、なんと「八角墳」の可能性が高い古墳だということでした。

「八角墳」は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになります。飛鳥地域には、「八角墳」が幾つかあり「大王」だけを祭るために造られているものと思っていました。

はたして、「八角墳は大王の墓」なのでしょうか・・・

また、中臣氏にゆかりが深い「鹿島神宮」にも行ってきました。鹿島の地は、古来から中臣氏にゆかりが深い土地だったようです。中臣(藤原)鎌足は、614年に大和国高市郡の生まれとされ、その誕生の地とされている場所が明日香村にあります。

はたして、「中臣(藤原)鎌足の出自」は一体どこなのでしょうか・・・

今回は、古代史の謎「八角墳は大王の墓?・中臣鎌足の出自は?」について紹介したいと思います。

〇「八角墳」の意味については、道教をふくめた広い意味での古代中国の政治思想において、八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響が考えられています。平面が八角形をした古墳で、発見例は十基程度です。古墳時代の終わり頃(7世紀中頃~8世紀)、近畿地方で大王の墓として採用されたものもあります。茨城県水戸市にある「吉田古墳」は、6世紀末~7世紀前半の築造で、現状1辺8m・高さ1.6mの方墳ですが、その後の調査で八角形墳の可能性が高いことが判明しまた。埋葬施設は南に入口をもつ横穴式石室で長さ約3.3m・幅約1.4m・高さ約1.6m、石材には凝灰岩の切石が使用されており、奥壁には靫や鉾、刀子などが線刻されているようです。出土遺物は金環や勾玉・武器などがあり、国指定史跡です。住宅地の中にあり、見た目にはとても「八角墳」には見えない小さな古墳でした。「八角墳」は、大王だけを祭るために造られているものと思っていましたので関東にあるとは思っていなかったので驚きでした。

飛鳥地域での「八角墳」で知られているのは、牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)・中尾山古墳(文武天皇陵)・野口王墓(現天武・持統陵)・束明神古墳(草壁皇子)などが八角形の墳丘を持っているとされています。7世紀半ば、日本では初めて大王に固有の型式の陵墓が出現したといえるようです。

調べてみると、地方でも小規模の「八角墳」が数例確認されています。大王だけを祭るために造られている可能性に疑いを持つ学者も多いようです。

はたして「八角墳」は、「大王」だけの墓なのでしょうか・・・

                      

〇中臣(藤原)鎌足は天智天皇に仕え、645年に乙巳の変(大化の改新)を断行した事で知られています。中臣から藤原に姓を変えた藤原家が「鹿島神宮」を特に篤く信奉したことは知られますが、鹿島こそが、藤原氏繁栄の礎を築いた祖「中臣鎌足」の出生の地という説があるようです。「大鏡」には、鎌足は「鹿島神宮」の鎮座する地で出生したとの記載があります。また、鎌足は、「鹿島神宮」の神官であった中臣氏から大和朝廷につかわされたとも言われているようです。

しかし一方では、中臣(藤原)鎌足は614年に大和国高市郡の生まれとされ、その誕生の地とされている場所が、明日香村小原(オオハラ)にある大原神社とされています。
ここには、「大織冠(たいしょっかん)誕生之旧跡」という石碑が建っています。また、大原神社の奥を流れる「中の川」のほとりには「藤原鎌足産湯の井戸」も遺されています。

はたして、「中臣鎌足の出自」は一体どこなのでしょうか・・・

古代史は「謎」だらけですが、そこがとても面白いですねぇ~!

                             

 

 

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