泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

明日香村にある中世の城郭5「野口吹山城・野口植山城・平田城」

2019年07月28日 11時57分36秒 | 歴史

明日香村にある「中世の城郭シリーズ」もいよいよ最後となりました。前回は、明日香村にある中世の城郭4「城岡城・祝戸城・八釣城」を紹介しました。今回も、実際に明日香村にある中世の城跡に行かれた方の資料等を参考にさせていただきながらの歴史散策となりました。

今回は、明日香村にある中世の城郭5「野口吹山城・野口植山城・平田城」を紹介したいと思います。

〇「野口吹山城」は、「天武・持統陵」と道路を隔てた東側対面の丘に築かれています。北端部が墓と「小泊瀬稚雀神社」となっていて、神社の南側に土塁と空堀によって守られた主郭が配置された縄張りとなっているようです。一番北の郭に、「小泊瀬稚雀神社」が祭られていて道が付けられていますので、主郭部近くまで行けます。ただ、主郭部・空堀は、草木に覆われ遺構確認も出来ない状態です。南側には、腰曲輪状の部分があるようです。こちらの城は、南西方面からの敵を意識してつくられたのではないでしょうか。

以前、名前にひかれて「小泊瀬稚雀神社」にお参りに行ったことがありました。まさか、この場所が中世の城跡とは思いもしませんでした。

       

〇「野口植山城」は、明日香小学校のすぐ西側に隣接し「野口吹山城」の道を挟んだ150mほどにある丘陵に築かれています。小学校との境界の道よりも西側の道に入っていくと、城塁が見えてきます。また、二重堀切がありそれらは竪堀となって南側に落ちていっているようです。主郭には、民家の横の小さな道から行くことができます。どういうわけか、主郭部には歌碑がたっていました。「野口吹山城」に比べると、主郭までは草木が切られており、縄張りの様子がうかがえました。こちらの城は、北西方面からの敵を意識してつくられたのではないでしょうか。

「野口植山城・野口吹山城」共に、規模の小さな砦といったレベルの城のようです。いずれも在地領主の居城というよりは、一種の陣城ではなかったかと考えられているようです。互いに連携しながらの城だったと思われますが、どうしてこんなにも近くに同じような城が築かれたのでしょうか?

          

〇「平田城」は、飛鳥歴史公園内にあって、高松塚古墳に行く途中にあり中尾山古墳の西側に連なる展望台がある丘に築かれています。展望台がある丘は、北から高低差はあまりないが三段に曲輪が配され、南端の曲輪が一段高く、コの字型に土塁が残っています。この土塁がある曲輪の東側(現在は通路)は、堀切となっています。現地にみられる城郭的な遺構から城址と推定されているものです。この城跡は、飛鳥歴史公園内にあることもあってとても整備されていて、遊歩道や展望台等があり、他の中世の城の雰囲気とはまるで違っていました。よく、展望台から高松塚古墳に行っていたのですが、まさかここが中世の城跡とは思いもしませんでした。

2017年から、明日香村にある11の中世の城郭を秋から冬にかけて歴史散策してきました。飛鳥地域は、古代の遺跡が多く残っており古代史のイメージが強いのですが、中世の遺構(中世の城跡)が、こんなにも多く残っているとは思いもしませんでした。ただ残念なことに、どこの城跡も整備されてなくて荒れていたことでした。せめて、ここに中世の城跡を示す簡単な説明板でもあればと思いました。

「明日香村にある中世の城郭シリーズ」の1・2回目は、講師の先生のおかげで大変興味を持つことができました。そのおかげで、3回目からは、実際に明日香村にある中世の城跡に行かれた方の資料等を参考にさせていただきながら歴史散策を行いました。実際に資料等を参考に現地に行ってみると、単なる丘陵と思われていた所が、実は500年程前に築かれた中世の城跡と分かった時は、とても感激しました。とても充実した、楽しい時間となりました! 飛鳥に住んでいながら、知らないことばかりですね~・・・

       



 

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博多の街は祭りのムードいっぱい「博多祇園山笠(追い山ならし)」

2019年07月14日 11時16分25秒 | 旅行

福岡県福岡市で行われる「博多祇園山笠」は、最高潮を迎える7月15日の「追い山」を前に、12日に本番さながらに山をかく「追い山ならし」が行われ、博多の街は祭りのムードが高まっています。「博多祇園山笠」は、毎年7月1日から7月15日まで行われます。7月1日からフィナーレとなる7月15日の「追い山」に向けて、ほぼ毎日数多くの神事が執り行われます。

今回は、博多の街は祭りのムードいっぱい「博多祇園山笠(追い山ならし)」の様子を紹介したいと思います。

「博多祇園山笠」は、760余年の伝統を誇る神事です。福岡市博多区のおもに博多部(那珂川と御笠川間の区域)で7月に行われる「祭」で、博多の総鎮守・櫛田神社にまつられる素戔嗚尊(祗園宮)に対して奉納される神事であり、国の重要無形民俗文化財でもあります。「博多祇園山笠」は7月1日から開幕し、まずは博多部を中心に合計14の飾り山が公開されます。1日から9日までの間はいわゆる「静の期間」で、山笠が走ることはありません。この期間は、絢爛豪華な飾り山を見物しながら博多の街を散策することをお勧めします。人通りの多い繁華街や商店街の飾り山周辺には、賑やかな出店なども立ち並び、お祭りムードを盛り上げてくれます。今回は、福岡市の中心である博多駅前と天神の「飾り山」を見学してきました。今年は、博多の街のあちらこちらにソフトバンクホークスの「鷹の祭典」のポスター等を見ることができました。
ところで「追い山ならし」は、祭りの最終日となる7月15日の早朝に行われる「追い山」を前に、本番よりも1キロ短い4キロのコースを、時間を競って「山をかく」神事です。12日は、15日の「追い山」に向けた予行演習の日です。でも予行演習とはいえ。時間とコース距離が若干短い以外は何もかも本番同様。山の男達は他の流よりも1秒でも早く駆け抜けようと本気で山笠を舁きます。太鼓の大きな音を合図に、ことしの一番山笠・千代流の男たちがその音に負けまいと「ヤァー」と大きな声をあげながら、櫛田神社になだれ込みました。そして、男たちは清道と呼ばれる旗の周りを回って、1番山笠だけが行う「祝いめでた」を歌い上げ、勢いよく神社を飛び出していきました。
沿道からは、「勢い水」と呼ばれる暑気払いの水がやむことなく浴びせられていました。「追い山ならし」、凄い迫力でした!

今回の「追い山ならし」の写真は、7つの舁山と走る飾り山「上川端通」が一同に並ぶ冷泉公園から櫛田神社にかけての「土居通り」は櫛田入り前の緊張感が伝わるもっともオススメスポットの写真です。櫛田入りを控えた舁き手たちの表情は真剣そのもので、見ている方にまで緊張が伝わってきます。このように見所の多い「大本命」のスポットですが、それゆえに尋常でない混雑でした。「博多祇園山笠」が最高潮を迎える「追い山」は、15日の午前4時59分にスタートします。

久しぶりに見た「博多祇園山笠(追い山ならし)」、やっぱり、「博多の夏は山笠たい!」

                              

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明日香村にある中世の城郭3「小山城・雷ギヲン城・奥山城」

2019年07月10日 10時33分56秒 | 歴史

以前、奈良県高市郡明日香村にある中世の城跡を紹介させていただきました。(2017年12月10日:冬野城・畑城・12月14日:雷城・飛鳥城)

前回は、地元の方々と講師の先生と一緒に、明日香村にある中世の城郭の最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を歴史散策してきました。その時の講師の先生の詳しい現地解説のおかげで、明日香村にある中世の城に大変興味を持ち、その後明日香村にある中世の城跡を歴史散策してきました。

明日香村には、11の中世の城跡があるようです。これから数回に分けて、明日香村にある中世の城郭跡を紹介したいと思います。

今回は、明日香村にある中世の城郭3「小山城・雷ギヲン城・奥山城」を紹介したいと思います。

橿原市の香久山方面には、小山城・雷ギヲン城・雷城。桜井市方面には、飛鳥城・奥山城・八釣城。明日香村の石舞台方面には、岡城・祝戸城。天武・持統天皇陵方面には、野口植山城・野口吹山城。高松塚古墳付近に平田城。畑方面には、畑城・冬野城があります。

 〇小山城

中世の飛鳥地域の様子です。1467年に始まる応仁・文明の乱では、筒井氏は東軍、 越智氏は西軍に与して戦うこととなりました。やがて、1477年に筒井氏は没落し、越智家栄と古市澄胤が大和国・興福寺の実権を握っていったようです。このようにして台頭し、南大和の最有力勢力となった越智氏は、本拠を越智谷(高取町越智~明日香村真弓の東西の細長い谷)に置いて越智城を構え、越智谷北側には防衛と出撃の拠点として貝吹山城、 越智谷と後背地吉野を結ぶ地には南大和屈指の巨塁高取城などを築きました。また越智氏一族の勢力は、高市郡全域と葛上・忍海両郡の東部に及び、この領域は「越智郷」と呼ばれていました。明日香村域にも、小山城、雷城、飛鳥城、岡城などの多くの砦が築かれており、特に小山城は、越智 氏に従属した国民小山氏によるものと考えられており、内郭(居館)と外郭(集落)の二重構造をとる平城です。しかし、それ以外の城跡はみな小さく、国民より弱小な村落レベルの土豪の城と考えられています。従って、村域には小山氏以外に国民が見当たらず、明日香村域は、西の越智氏等の国民勢力と 東の多武峯との狭間にある独自の在地権力をほとんど育まなかった地域であったといえます。 越智氏が繁栄を極めたのは1493年の細川政元政権成立の頃であったようです。しかし、その後、赤沢氏や柳本氏、木沢氏などの大和国外の武士勢力の侵入によって中世的支配体制が崩壊し、十市氏、筒井氏により大和統一が進められ、松永久秀による大和国の掌握、そして織田信長による領国支配へと展 開し、江戸時代を迎えることとなりました。

小山城は、明日香村にある中世の城跡中では唯一、説明板があります。説明板から、丘の上が主郭と思いがちですが、麓の居館跡を内郭とし丘上を含んだ環濠集落型の城郭のようです。周囲を散策しました。南側には小さな神社があり、本殿がなく小さな古墳(円墳)のようなものがありました。神社の南には、ギヲの丘があり東側には大官大寺跡があります。その向こうには、奥山城を見ることができます。残念ながら立ち入り禁止になっているので、現地での詳しいことが分かりませんでした。
     

〇雷ギヲン城は、ギヲの丘(こちらが雷ギヲン城と思っていました)の南側にあり雷城の北側約300mに位置しています。高さ10mほどの丘に築かれています。

見た目には、まるで「ひょこりひょうたん島」のような形をしており、小規模なかわいい城郭です。上っていくと遺構は残されていました。小さいのに斜面が急で、意外と登るのが大変でした。二つの曲輪からなる縄張りで、主郭と副郭の間には堀切が施され、更に主郭西側には横堀と土塁が設けられています。主郭南東角に虎口が設けられていて、城への進入路は南側からと推定でき、南の雷城との連携を考えての城の構造かもしれません。北側の尾根続きを分断するように、深さ4mほどの堀切が掘られ、また西側に回り込むようにして横堀が設置されています。簡単に訪れることができ、小さな城跡ですが中世の城としての遺構を見ることができました。

        

〇奥山城

奥山城は、飛鳥資料館の裏山の西先端部を利用して築かれた城です。丘陵先端部北側に小公園があり、ここから南側の尾根へ向かって竹藪をかき分けて登ることができます。城主等不明ですが、奥山荘は興福寺の一乗院領であったことが知られ、のち多武峰の影響下にあったと思われ、高市郡に勢力を誇った越智氏の影響力は小さかったと思われます。多武峰防衛の最前線だったのでしょうか。城の縄張りは、丘陵先端部に主郭を置き、東に向かって帯曲輪を伴う二の曲輪、堀切を隔てて三の曲輪となっています。主郭の周囲は空堀が巡らされ、南西部斜面に向かって竪堀が掘られています。二の曲輪東端から大堀切とも思われるような竪堀があり、更に東に堀切を設け、東尾根筋の防禦を固めた城です。規模は小さな城ですが、縄張りも竪堀も見どころたっぷりの城でした。城の西側には、雷ギヲン城・雷城、南側には飛鳥城が見えます。ただ荒れ放題で、全くの未整備状態なのが残念でした。

前回は、講師の先生の詳しい説明と資料がありました。今回は資料等が少なく、実際に明日香村にある中世の城跡に行かれた方の資料等を参考にさせていただきながらの歴史散策となりました。大変参考になり、ありがとうございました!

次回は、岡城・祝戸城・八釣城を紹介したいと思います。

           

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福岡平野で最大級の円墳がある「善一田(ぜんいちだ)古墳群」

2019年07月03日 08時18分41秒 | 歴史

福岡県大野城市乙金にある「善一田古墳群」の整備工事が完了し、2019年4月27日に「善一田古墳公園」としてオープンしました。「善一田(ぜんいちだ)古墳群」は、乙金山(おとがなやま)から西に派生する丘陵上にあり、総数30基ほどからなる群集墳です。古墳時代後期から終末期(6世紀後半~7世紀)の時代に、王城山(おおぎやま)古墳群や古野(ふるの)古墳群などとともに「乙金古墳群」の一つにあたります。周辺には同時代の集落遺跡として、薬師の森遺跡や、須恵器窯跡として乙金窯跡・雉子ヶ尾(きじがお)窯跡があります。

今回は、福岡平野で最大級の円墳がある「善一田(ぜんいちだ)古墳群」を紹介したいと思います。

「善一田古墳群」は、古代山城の「大野城跡」にも近接しているので、大野城築造との関わりでも注目されている古代スポットです。古墳群を調査した結果、8つのグループ(支群)があり、3~4世代にわたって継続的に古墳がつくられてきたことが分かりました。多くは直径10mほどの小さな古墳ですが、最初期に造られた18号墳は乙金古墳群の中でも最大規模(直径約25m)で、6世紀後半代の福岡平野の中でも最大級の円墳の一つであるといわれています。内部には高さ3.5mほどの巨大な石室があり、鉄鉗(かなはし)・盛矢具(せいしぐ)・馬具(ばぐ)など豊富な副葬品が出土しました。古墳の副葬品の分析から、被葬者は鉄器生産などの手工業に携わった渡来系集団とみられています。おそらく、卓越した技術をもって地域開発だけでなく、大野城や水城の築城にも関わったことが考えられています。

また、大野城市にある「大野城心のふるさと館」にて、善一田古墳公園オープン記念特別展「古墳・王の輝き」が開催されていましたので見学してきました。古代山城の大野城跡に隣接する「善一田古墳群」の出土品や、古墳時代の列島各地の荘厳な装飾品が展示されていました。特に、「善一田古墳群」26号墳出土の装飾太刀三累環頭柄頭(全国で40例ほど出土していて、福岡県では10例目。)・玉類(朝鮮半島や西アジアで作られたと考えられる玉類)や2号墳出土の「象嵌鉄刀」・各種馬具類等に興味をひかれました。

この地域には、このような古墳公園が殆どありません。整備された「善一田古墳公園」を、古代の「大宰府」の歴史散策の一環として行かれることをお勧めします!

                                      


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