「磐余(いわれ)」とは、奈良盆地の東南端に位置し、奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名です。この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地でした。先日、桜井市のボランティアガイドさんの案内のもと、大和政権の政治の中心地「磐余の道(いわれみち)」沿いを歴史散策してきました。
前回は、近鉄・jr桜井駅(出発)-魚市場跡(古い街並み)-等弥神社ー若櫻(わかざくら)神社(桜の井戸)-土舞台ー安倍文殊院ー安倍寺跡(昼食)までの様子を紹介しました。
今回は、後半の大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(2)の様子を、紹介したいと思います。
(行程)
谷首古墳ー稚桜(わかざくら)神社ー「磐余池」推定地ー吉備池廃寺ー蓮台寺(吉備真備五輪塔)ー近鉄大福駅(解散)
〇谷首古墳
桜井市阿部字谷汲にある巨石古墳です。阿部丘陵の中では最大規模を誇り、中世には墳丘が砦として利用され、現在は八幡神社が古墳の上に鎮座しています。安倍文殊院の近くにあり、開口部が若干狭いですが石室内は広く、古墳初心者の方でも抵抗なく古代のロマンを感じる事が出来る古墳です。墳形は一辺約40m(現状は南北41m、東西38m)、高さ約8mの方墳で石室は南に開口しています。石室の企画性は、飛鳥の石舞台古墳とよく似た大型の両袖式横穴式(全長13.8m)で、玄室部は長さが約6m、幅約2.8m、高さ約4m、羨道部は長さ約7.8m、幅約1.7m、高さ約1.7mの規模を誇ります。石室内から、かって凝灰岩の破片出土した事で元々、家型石棺があったと思われます。築造年代は7世紀初頭~前半で、このあたりを本拠地にした豪族、阿倍氏関係の墳墓と考えられています。桜井市倉橋にある「赤坂天王山古墳(あかさかてんのうざんこふん)」に、よく似た古墳で、一歩足を踏み入れ石室に入ると、7世紀の黄泉の世界が広がっているような感覚におちいる古墳でした。
〇 稚桜(わかざくら)神社
奈良県桜井市池之内に鎮座する「 稚櫻神社 ( わかざくらじんじゃ ) 」です。「磐余稚桜宮」( いわれのわかざくらのみや)は、 第17代 履中天皇は皇妃とともに磐余市磯池(いわれのいちしいけ)に両枝船を浮かべて船遊びを楽しまれました。 膳臣余磯が天皇に酒を献じたとき、桜の花が舞い落ちてきました。「咲くべき時季でないのに咲いた。いったいどこの花だろうか。」 不思議に思った天皇は、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)に命じて探させみつけ出しました。 天皇大いに喜び、即座に宮の名を「磐余稚桜宮」と名付けたとされています。こちらも、小山の頂上に稚桜神社本殿があります。前回紹介した、約2Km程東南の桜井市谷に、「若櫻(わかざくら)神社」があり、そこを「磐余稚櫻宮跡」という説もあるようです。はたして、どちらが「磐余稚桜宮」なのでしょうか・・・
〇「磐余池」推定地
日本書紀に登場する「磐余(いわれ)池」推定地である橿原市の「東池尻・池之内遺跡」で、6世紀後半に造られた池の堤跡が見つかりました。
堤は自然の丘陵を利用して造られ、現在の地形から全長300メートル以上、上面の最大幅約50メートル、高さ2~3メートルと想定されています。今回の発掘現場(約90平方メートル)は中心部のやや東側で、堤の上面の遺構が出土しました。現場付近の堤の推定幅は約30メートルですが、市教委はこれまでの調査結果を踏まえ、25メートル以上とみているようです。 同じような古代の池では、大阪府の狭山池(7世紀前半)が知られ、堤の上面幅約13メートル、高さ5~6メートル。狭山池の方が高く、池全体の規模も大きいですが、堤の幅は「東池尻・池之内遺跡」の方が広いようです。道沿いに、「東池尻・池之内遺跡」の説明版があり、イメージがしやすかったです。「磐余池」推定地は、何ヵ所かあるようですが、果たして、飛鳥時代に悲劇の皇子と言われている「大津皇子」が刑死される時、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と詠んだのは、このあたりなのでしょうか・・・
〇吉備池廃寺・蓮台寺(吉備真備五輪塔)・近鉄大福駅(解散)
吉備の集落の南にある吉備池周辺を発掘していた奈良国立文化財研究所は、その池の底に古代寺院跡を発見し、これを「吉備池廃寺」と名付け、百済大寺の跡ではないかと発表しました。東側には東西37メートル・南北約28メートル、西側は一辺約30メートル四方と巨大なもので、それぞれ寺院の金堂・塔の基壇にあたります。塔基壇の中央には、心礎の抜取穴もみつかりました。また、南面の回廊も発見されています。
以前は、池の周りに草が覆っていたのですが草刈りが行われていて、とても見やすくなっていました。
最後に、近鉄大福駅に行く途中に「蓮台寺」(れんだいじ)に立ち寄りました。
「蓮台寺」は、730年代に行基の開基で「吉備真備」が浄刹を当寺地に建立し、本尊は、「阿弥陀如来立像」です。境内の南側に、国重文「石造五輪塔」が建ち、花崗岩製、塔高2.1m、一重基壇に立つ完形、地輪(最下段)に銘があり、「為一切衆生、奉造立者也、徳治二年(1307年)卯月八日、願主当麻秀清」と彫られ、「吉備真備」の墓とも称しています。「吉備真備」(きびのまきび)は、奈良時代の学者・公卿です。遣唐使(留学生)として717年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、経書と史書、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、734年に多くの典籍を携えて帰朝し橘諸兄のブレーンとして玄昉ともに活躍した人です。この辺りは吉備氏の別業地で、近くに氏寺の「吉備寺」もあったと伝えられています。「吉備真備」は、吉備(岡山)地方の豪族出身で、留学生として中国へ渡ったのを含め二度入唐して、帰国後は聖武天皇の政界で活躍しました。
「蓮台寺」は予定にはなかったところですが、奈良時代に活躍した「吉備真備」の五輪塔を見ることが出来ました。現在、重要文化財となっており、立派な五輪塔でした。
今回、桜井市のボランティアガイドさんの案内のもと、約13キロの道のりでしたが、大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」を、興味深く歴史散策をすることが出来ました!