泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(2)

2019年02月27日 20時14分04秒 | 歴史

「磐余(いわれ)」とは、奈良盆地の東南端に位置し、奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名です。この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地でした。先日、桜井市のボランティアガイドさんの案内のもと、大和政権の政治の中心地「磐余の道(いわれみち)」沿いを歴史散策してきました。

前回は、近鉄・jr桜井駅(出発)-魚市場跡(古い街並み)-等弥神社ー若櫻(わかざくら)神社(桜の井戸)-土舞台ー安倍文殊院ー安倍寺跡(昼食)までの様子を紹介しました。

今回は、後半の大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(2)の様子を、紹介したいと思います。

(行程)

谷首古墳ー稚桜(わかざくら)神社ー「磐余池」推定地ー吉備池廃寺ー蓮台寺(吉備真備五輪塔)ー近鉄大福駅(解散)

〇谷首古墳

 桜井市阿部字谷汲にある巨石古墳です。阿部丘陵の中では最大規模を誇り、中世には墳丘が砦として利用され、現在は八幡神社が古墳の上に鎮座しています。安倍文殊院の近くにあり、開口部が若干狭いですが石室内は広く、古墳初心者の方でも抵抗なく古代のロマンを感じる事が出来る古墳です。墳形は一辺約40m(現状は南北41m、東西38m)、高さ約8mの方墳で石室は南に開口しています。石室の企画性は、飛鳥の石舞台古墳とよく似た大型の両袖式横穴式(全長13.8m)で、玄室部は長さが約6m、幅約2.8m、高さ約4m、羨道部は長さ約7.8m、幅約1.7m、高さ約1.7mの規模を誇ります。石室内から、かって凝灰岩の破片出土した事で元々、家型石棺があったと思われます。築造年代は7世紀初頭~前半で、このあたりを本拠地にした豪族、阿倍氏関係の墳墓と考えられています。桜井市倉橋にある「赤坂天王山古墳(あかさかてんのうざんこふん)」に、よく似た古墳で、一歩足を踏み入れ石室に入ると、7世紀の黄泉の世界が広がっているような感覚におちいる古墳でした。

        

〇 稚桜(わかざくら)神社

奈良県桜井市池之内に鎮座する「 稚櫻神社 ( わかざくらじんじゃ ) 」です。「磐余稚桜宮」( いわれのわかざくらのみや)は、 第17代 履中天皇は皇妃とともに磐余市磯池(いわれのいちしいけ)に両枝船を浮かべて船遊びを楽しまれました。 膳臣余磯が天皇に酒を献じたとき、桜の花が舞い落ちてきました。「咲くべき時季でないのに咲いた。いったいどこの花だろうか。」 不思議に思った天皇は、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)に命じて探させみつけ出しました。 天皇大いに喜び、即座に宮の名を「磐余稚桜宮」と名付けたとされています。こちらも、小山の頂上に稚桜神社本殿があります。前回紹介した、約2Km程東南の桜井市谷に、「若櫻(わかざくら)神社」があり、そこを「磐余稚櫻宮跡」という説もあるようです。はたして、どちらが「磐余稚桜宮」なのでしょうか・・・

      

〇「磐余池」推定地

日本書紀に登場する「磐余(いわれ)池」推定地である橿原市の「東池尻・池之内遺跡」で、6世紀後半に造られた池の堤跡が見つかりました。

堤は自然の丘陵を利用して造られ、現在の地形から全長300メートル以上、上面の最大幅約50メートル、高さ2~3メートルと想定されています。今回の発掘現場(約90平方メートル)は中心部のやや東側で、堤の上面の遺構が出土しました。現場付近の堤の推定幅は約30メートルですが、市教委はこれまでの調査結果を踏まえ、25メートル以上とみているようです。 同じような古代の池では、大阪府の狭山池(7世紀前半)が知られ、堤の上面幅約13メートル、高さ5~6メートル。狭山池の方が高く、池全体の規模も大きいですが、堤の幅は「東池尻・池之内遺跡」の方が広いようです。道沿いに、「東池尻・池之内遺跡」の説明版があり、イメージがしやすかったです。「磐余池」推定地は、何ヵ所かあるようですが、果たして、飛鳥時代に悲劇の皇子と言われている「大津皇子」が刑死される時、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と詠んだのは、このあたりなのでしょうか・・・

           

〇吉備池廃寺・蓮台寺(吉備真備五輪塔)・近鉄大福駅(解散)

吉備の集落の南にある吉備池周辺を発掘していた奈良国立文化財研究所は、その池の底に古代寺院跡を発見し、これを「吉備池廃寺」と名付け、百済大寺の跡ではないかと発表しました。東側には東西37メートル・南北約28メートル、西側は一辺約30メートル四方と巨大なもので、それぞれ寺院の金堂・塔の基壇にあたります。塔基壇の中央には、心礎の抜取穴もみつかりました。また、南面の回廊も発見されています。

以前は、池の周りに草が覆っていたのですが草刈りが行われていて、とても見やすくなっていました。

最後に、近鉄大福駅に行く途中に「蓮台寺」(れんだいじ)に立ち寄りました。

「蓮台寺」は、730年代に行基の開基で「吉備真備」が浄刹を当寺地に建立し、本尊は、「阿弥陀如来立像」です。境内の南側に、国重文「石造五輪塔」が建ち、花崗岩製、塔高2.1m、一重基壇に立つ完形、地輪(最下段)に銘があり、「為一切衆生、奉造立者也、徳治二年(1307年)卯月八日、願主当麻秀清」と彫られ、「吉備真備」の墓とも称しています。「吉備真備」(きびのまきび)は、奈良時代の学者・公卿です。遣唐使(留学生)として717年に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、経書と史書、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、734年に多くの典籍を携えて帰朝し橘諸兄のブレーンとして玄昉ともに活躍した人です。この辺りは吉備氏の別業地で、近くに氏寺の「吉備寺」もあったと伝えられています。「吉備真備」は、吉備(岡山)地方の豪族出身で、留学生として中国へ渡ったのを含め二度入唐して、帰国後は聖武天皇の政界で活躍しました。

「蓮台寺」は予定にはなかったところですが、奈良時代に活躍した「吉備真備」の五輪塔を見ることが出来ました。現在、重要文化財となっており、立派な五輪塔でした。

今回、桜井市のボランティアガイドさんの案内のもと、約13キロの道のりでしたが、大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」を、興味深く歴史散策をすることが出来ました!

   

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大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策(1)

2019年02月24日 21時16分49秒 | 歴史

「磐余(いわれ)」とは、奈良盆地の東南端に位置し、奈良県桜井市の西部地域を指した古代の地名です。この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地でした。

 また、古代の幹線道路である「磐余の道」は、上ツ道と横大路の交差点から安倍丘陵に沿って南西に斜交し、時の都であった「飛鳥」へ至る古道です。2002年の安倍寺遺跡の発掘調査で、道路面と西側側溝に推定される石敷きや石組み溝が発見されています。

先日、桜井市のボランティアガイドさんの案内のもと、大和政権の政治の中心地「磐余の道(いわれみち)」沿いを歴史散策してきました。

今回、大和政権の政治の中心地「磐余(いわれ)の道」歴史散策の様子を、2回にわたって紹介したいと思います。

(行程)

近鉄・jr桜井駅(出発)-魚市場跡(古い街並み)-等弥(とみ)神社ー若櫻(わかざくら)神社(桜の井戸)-土舞台ー安倍文殊院ー安倍寺跡(昼食)-谷首古墳ー稚桜(わかざくら)神社ー磐余池推定地ー吉備池廃寺ー吉備真備五輪塔ー近鉄大福駅(解散)

飛鳥の地で一緒にボランティアガイドを行っている皆さんと一緒に、研修の一環として「磐余の道(いわれみち)」沿いを歴史散策してきました。

今回は、近鉄・jr桜井駅(出発)-魚市場跡(古い街並み)-等弥神社ー若櫻(わかざくら)神社(桜の井戸)-土舞台ー安倍文殊院ー安倍寺跡(昼食)までの様子を紹介したいと思います。

この地は、5世紀から6世紀にかけての大和政権の政治の中心地で、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。第17代履中天皇の条には、「磐余池を作る」と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。履中天皇の宮「磐余稚桜宮」がこのあたりで営まれ、この池で船をうかべて遊宴されたことが、日本書紀に記述があります。また、飛鳥時代に悲劇の皇子と言われている「大津皇子」が刑死される時、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と詠んだのは、この磐余池のあたりでしょうか・・・

〇近鉄・jr桜井駅(出発)-魚市場跡(古い街並み)-等弥(とみ)神社

「魚市場跡」は、 旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは魚市場のあったところで、かつては藤堂藩の宿場として栄え、市場としては古いものの一つでした。吉野から多武峰をへて、かついできた熊野鯖は名物のひとつであったようです。周辺は、古い街並みがのこっており風情がありました。「等弥(臣とみ)神社」は、創建の年月は明らかではないですが、鳥見山の西麓を能登山というところから、「能登宮」ともいわれいて、延喜式内社です。神社入口に友情句碑として、佐藤春夫の句碑と、堀口大学の句碑が併せて建碑されており、偉大な両詩人の碑をたずねくる人も多いようです。

       

〇若櫻(わかざくら)神社(桜の井戸)

履中天皇が「磐余池」に船を浮かべて宴遊されたとき、天皇のお盃の中に桜の花が散って入った。天皇は不思議なことだと思われて物部長真胆連(もののべのながのまいのむらじ)に「この花は今咲くべき時節でもないのにおちてきた。どこからだろうかさがしてこい」と仰せになった。物部長真胆連は、桜の花を見つけ出して献上すると、天皇は珍しい事とお喜びになり、宮の名を「磐余稚桜宮」とおつけになった。それがこの神社の名の由来だそうです。同じ名前の神社が近くあります。

     

〇土舞台

「日本書紀」によると612年に百済の人、味摩之(みまし)が呉で「伎楽舞(くれのうたまい)」を学び、これを聖徳太子がご覧になって、この地で少年を集めて習わしめたといわれています。土舞台は、初の国立演劇研究所がつくられた所であると伝えられています。高台にあり、中世には城としてつかわれたようです。明日香村豊浦にも、候補地の一つがあります。

        

安倍文殊院(あべもんじゅいん)

645年に、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が創建した安倍寺の後身といわれています。安倍氏の氏寺として、阿倍仲麻呂や平安時代の陰陽師安倍晴明ゆかりの地としても知られています。日本三文殊の一つとして「智恵の文殊さん」で親しまれ、学業成就の祈願に訪れる人も多いです。また境内には、金閣浮御堂、特別史跡の西古墳、閼伽井古墳等があります。本堂拝観前に、抹茶・お菓子付をいただきました。とても美味しかったです。

安倍文殊院の本尊は、鎌倉時代の快慶作で日本最大の「文殊菩薩」(巨大な獅子にまたがり高さ7メートル)は、勉学に励む多くの児童学生達に知恵を授けることで有名です。また、近年は、お年寄りの味方“ぼけ封じの霊場”として、無病息災を祈る方の参詣が増えています。また、ぼけ封じのお土産として亀パンやぼけ酒があるということで、亀パンを買ってきました。

 また、境内には特別史跡の「文殊院西古墳」が開口しており見ることが出来ます。横穴式石室を持つ古墳の中で、最も整美された切石の石室を持つ古墳です。7世紀中頃が想定され、墳形は不明ながら20メートル以上の円墳の可能性が高いようです。玄室は、壁面を、長方形に磚状に研磨した花崗岩の石材を積み上げており、朝鮮半島の磚槨墳を意識に入れています。天井は、一石で構築され、内側をやや掘りくぼめている。羨道は、板右を両側4枚並べ、天井石は3枚乗っています。いずれも、表面を研磨しており、整った壁面を構成しています。阿倍氏の中で、大化改新後に初めて左大臣にのぼり、5年後に死去した阿倍倉梯麻呂の墓説が有力です。現在、石室内には鎌倉時代作とみられる石の地蔵像が安置され、信仰の対象とされています。明日香村にも、整美された石室を持つ古墳「岩屋山古墳」があります。

特に印象的だったのは、見事な切石の石室を持つ古墳と文殊菩薩像は見事でした!

            

〇安倍寺跡

大化の改新時の左大臣「阿倍倉梯麻呂」の建立と伝えられ、創建は山田寺とほぼ同年代とされています。伽藍配置は、法隆寺式とする考えと、四天王寺式とする考えの二者があるようです。現在、公園となっており塔と金堂跡には土壇が復元してありました。ここで、昼食をとりました。

次回は、首古墳ー稚桜(わかざくら)神社ー磐余池推定地ー吉備池廃寺ー吉備真備五輪塔ー近鉄大福駅(解散)の歴史散策の様子を紹介したいと思います。

    

 

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明日香村大字岡の「岡えびす神社祭り・2019」

2019年02月17日 18時10分02秒 | 散歩

奈良県明日香村大字岡の集落に鎮座する神社「岡えびす神社」において、2月17日13時から「岡えびす神社祭り」が行われました。

「岡えびす神社」は、大字岡の集落の中心にあり道路沿いにある小さな神社です。近くに、「飛鳥宮跡」があります。

今回は、明日香村大字岡の「岡えびす神社祭り・2019」の様子を紹介したいと思います。

「岡えびす神社」の創建・由緒など不詳ですが、社務所に「高市御縣坐鴨事代主神社 岡えびす神社」と掲げられています。
祭神は、「事代主命」ですが、「恵比寿神」(現代では商売繁盛、家内安全の神様)と同神とされています。
また、福徳を授ける神とされ、農村では、稲の豊作をもたらす田の神の性格をも兼ねているようです。

私も、大字岡に居住しており毎年のように参加しています。参加者は、ほとんどが地元の方ばかりの「お祭り」です。

飛鳥坐神社の宮司さんによる祝詞の奏上等が行われ、最後に希望者による祈願が行われました。私も、「家内安全」の祈願をしていただきました。

祈願後、お符だと紅白の福餅をいただきました。また、福引きもあり地元の醤油をいただきました。

約1時間程度の小さな「岡えびす神社祭り」ですが、なんだか「ほっこり」とするような「お祭り」ですよ!

                     

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「寺口忍海(てらぐちおしみ)古墳群とその周辺地域」の歴史散策

2019年02月12日 20時26分45秒 | 歴史

「寺口忍海(てらぐちおしみ)古墳群」は、奈良県葛城市寺口にあり「葛城山麓公園」として整備保存されている古墳群です。

バーベキュー場や児童公園があり、四季の花が楽しめる葛城山麓(さんろく)公園は、週末になると家族連れでにぎわう公園です。ただ、園内を含む一帯に、200基以上の古墳があることは意外と知られていません。

今回は、「寺口忍海(おしみ)古墳群とその周辺地域」の歴史散策の様子を紹介したいと思います。

葛城山の東の麓(ふもと)一帯は、古墳時代中後期の前方後円墳とともに一定の地域に大きさが10メートル前後の小さな古墳が密集して作られた群集墳が数多く見られることできます。葛城市(旧新庄町)には、寺口千塚古墳・笛吹古墳群・山口千塚古墳群など古くからよく知られた群集墳があり、「寺口忍海古墳群」もその1つです。

「寺口忍海古墳群」は、古墳の分布状況から北・中央・南の三群に分けられ200基以上の古墳がつくられていたものと推定されます。出土した遺物から、古墳は5世紀後半から7世紀初めにかけてつくられ続けたようです。出土遺物としては、鉄鉾、鉄刀、鉄剣、鉄鏃等の武具のほか馬具、ミニチュア農工具を含む鉄製農工具類。鉄滓が石室内で発掘されています。副葬品に鍛冶に関わる遺物が多く、鍛冶生産に携わっていた渡来系の技術集団が被葬者に含まれているのは間違いないといわれています。

忍海駅近くの「葛城歴史博物館」で、出土遺物を見ることが出来ます。葛城市を中心に、周辺地域全体を視野に入れた、歴史・伝統・文化に関する展示をおこなっています。常設展示室には古代から中世までの歴史資料および民俗資料を展示しています。今回、「葛城歴史博物館」の学芸員さんの説明をうけて「寺口忍海古墳群」に行ってきました。墓地、公園などが混在する敷地内に、200基弱の古墳がほとんど手付かずのままで残っていました。とても、興味をひかれたのは、尾根筋上に小さな古墳が3基連続で並んでいて、その一つが盗掘者によって開けられた状態をそのまま見ることができました。他にも、開口した古墳の中に入ることが出来ました。

         

                          

ところで「忍海(おしみ)」の名の由来は、都が藤原京(694~710)にあったころ、葛上郡と葛下郡にはさまれて忍海郡が設置されていたことは確かで、忍海の名が使用されたのは鉄生産技術を持って朝鮮から渡来した人たちの集団である忍海氏の本拠地であったことによるものと推測されます。忍海氏のオシヌミが何を意味するのか明らかではありませんが、海に関係していたものと思われます。

せっかくなので、「寺口忍海古墳群」の周辺の歴史散策をしてきました。

〇「角刺(つのさし)神社」の場所は、「古事記」に「飯豊天皇( 女帝)」が葛城の忍海の高木の「角刺宮」で即位したと記されています。その場所と言われている所です。     

〇「博西神社」は、屋敷山古墳(国指定・史跡)の西に建てられた社(やしろ)であることから、「陵西(はかにし)」または「墓西(はかにし)」とも書かれています。その創建や由緒については明らかではありませんが、中世このあたりを支配した布施氏の氏神として、布施郷支配の信仰上の拠点となっていました。
規模・形式とも全く等しい社殿を障塀でつなぎ連結としている形式手法などから、本殿の建立年代は、伝えられる大永年間よりやや新しい室町時代末期と考えられます。

「博西神社」本殿は、国指定重要文化財となっています。葛城山麓には、歴史的な色々な場所があり、今回とても興味深く散策することが出来ました!

         

 

 

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長谷寺 「大黒天祭節分会・2019」

2019年02月08日 14時44分02秒 | 散歩

 季節の節目の邪気を追い払う行事 が2月3日、奈良県桜井市長谷寺で「節分祭」が行われました。

今回は、長谷寺 「大黒天祭節分会・2019」の様子を紹介したいと思います。

「長谷寺」は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺です。山号を豊山、院号を神楽院と称します。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされます。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られています。一年を通じ「花の寺」として親しまれています。本尊の十一面観音菩薩は、高さ9.18mを誇る日本最大級の木彫仏です。また、『源氏物語』や『枕草子』などの古典の中でも記される、歴史あるお寺です。

「節分祭」・・・天気が心配されましたが、無事行われました。

・8:30~ 大黒堂において大黒天祭法要がありました。大黒祭ではリアル大黒様にお加持していただきました。
・9:30~ 豪華景品の当たる福引付福徳豆の授与を開始されました。景品の当たる福引は1回:300円です。楽しみにしていた「くじ付き福豆」を引きまして、今回は、なんと可愛い「招き猫」が当たりました。
・10:30~ 節分会法要のあと11時前に、福娘・福男による「豆まき」が行われました。長谷寺では、豆まきの時は、「だだおし」で鬼を払うため、「福は内」しか言わないそうです。今年の「節分祭」は日曜日と重なり、多くの方が来られていました。

今回は、「福徳豆」を11個いただきました。そのうち、幸運の5円玉が3個入っていました。大事に財布の中に入れました。
今回で2回目の参加ですが、前回と同様にお接待の甘酒がいい具合のお味でとても美味しかったです。「節分祭」後、牡丹が笠かぶっている風景を撮りに行きました。

今年は、「くじ付き福豆」では可愛い「招き猫」が当たり、とてもハッピーな気持ちになれた「節分祭」となりました!

この後「長谷寺」では、2月8日-2月13日の14:00から「修二会法要」がおこなわれます。旧年の罪科を懺悔し、新年の安寧を願います。
2月14日の15:00から修二会結願「だだおし法要」が行われます。大和に春を呼ぶと言われる祭りです。お加持によって得た法力で鬼を追い払います。鬼は大松明と共に暴れ回りますが、この松明の燃え残りを持ち帰ると無病息災を得ると言われています。こちらはまだ参加したことがありませんが、一度、参加したいと思っています。

                         

 

 

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