泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

「古代寺院の跡」歴史散策(2)

2017年12月28日 19時56分52秒 | 歴史

2017年、最後の「泉飛鳥塾」のブログとなります。

今回は、前回に引き続き「古代寺院の跡」歴史散策(2)を紹介したいと思います。2回目は、「毛原廃寺と駒帰(こまがえり)廃寺跡」です。

奈良盆地内にはたくさんの「廃寺跡(はいじあと)」があります。宇陀市の「駒帰(こまがえり)廃寺」跡、桜井市の「粟原(おおばら)寺」跡、香芝市の「尼寺(にんじ)廃寺」跡等です。その実態はほとんど分からず、大伽藍(だいがらん)の跡と思われる礎石(そせき)が残るだけです。

〇「毛原廃寺」は、奈良県山添村にあり三重県との 県境にある奈良時代の大寺院跡で、金堂跡、南門跡などの礎石が当時のまま残っています。 笠間川を眼下に見る山麓に、奈良時代平城京の大寺院と同じくらいの大規模な七堂伽藍が建立されていたことを示す金堂跡で、南門跡などの礎石が当時のまま残っています。 付近から出土した軒丸瓦、軒平瓦はいずれも奈良時代後期のもので、 廃寺跡より下流にある岩屋瓦窯跡で焼かれたことが発掘調査で判明しています。

「毛原廃寺」その存在自体が、まったく文献に登場しない寺院にもかかわらず、金堂の規模は唐招提寺の金堂にも引けをとらない大きさと考えられ、国指定の史跡に指定されています。奈良時代の大寺であったであろうこの寺は、東大寺の大仏殿建立のための勅施入によって発展した板蝿杣(いたばえのそま)の地にあり、木を植えて育て東大寺用の木材をとる山などのことの中心に位置することから、東大寺の杣支配所とも考えられています。

室生村と名張市に隣接する山添村毛原の地に、今は金堂跡、中門跡、南門跡など七堂伽藍を示す礎石のみが、畑や民家の間にひっそりと残されています。このような山奥に、何故大寺院が造られたのでしょうか。礎石の素晴らしさに、圧倒されました。

こんなところに大寺院がと思うくらい静かで所でのどかな風景は、想像を膨らませることのできる絶好の場所でも ありました。

また近くには、自然石にお地蔵様が6体並んで彫られた磨崖仏が、周りの草木に溶け込み、この地を見守るようにありました。この「毛原廃寺跡六体地蔵」は、「毛原廃寺」の境内の中に位置しながら、製作年代は室町時代の後期と思われ、廃寺になった後もここが信仰の地として語り継がれてきた証のような存在です。

   「山辺の御井を見がりて 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも」(万葉集)

712年に「長田王」が詠んだこの「山辺の御井」 のはっきりとした所在は、いまだ分かっていませんがこの「毛原廃寺」の礎石群の中に伝承として残っています。

                    

〇「駒帰(こまがえり)廃寺」跡は、宇陀市菟田野にあり多武峰談山神社の社家蔵の史料「宇陀旧事記」に、「安楽寺、駒帰村、本尊阿弥陀如来、七堂あり」と記されているのがこの寺院遺跡のことと考えられています。七堂伽藍が建っていたとあることから、かなり大きな規模の寺院だったと考えられています。

発掘調査で、昭和45年に瓦窯跡、昭和46年に金堂の跡と推定される西方の建物と、東方に所在するやや規模の小さい建物遺構が確認されました。創建時の遺構と瓦窯跡が発見され、五葉複弁蓮華文丸瓦などが出土しています。昭和40年代の発掘調査により、金堂と見られる建物跡と登り窯の瓦窯跡が出土しました。 東西18メートル、南北13メートル、高さ約30センチの基壇の上には焼土が積もっており、奈良時代初期に建立された寺院が、平安時代中ごろに焼失したと考えられています。  

奈良時代の寺院が数々現存するなかで、「廃寺」として数々の礎石が語りかけるものは一体何なのでしょうか。今回の歴史散策は、山奥にある寺院跡に残る礎石をみるだけでも感動ものでした。古代寺院に興味のある方には、必見の地です! 

  「2018年、皆様にとって良い年になりますように願っています。2018年も泉飛鳥塾、宜しくお願い致します!!!」

              

 

 

 

 

 

 

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「古代寺院の跡」歴史散策(1)

2017年12月24日 15時30分55秒 | 歴史

飛鳥が大好きな「歴史サークル」の皆さんと一緒に、車でしか行けないような「古代寺院の跡」に行ってきました。2回に分けて紹介したいと思います。

今回は、「古代寺院の跡」歴史散策(1)を紹介したいと思います。1回目は、「夏見廃寺(なつみはいじ)」です。

〇「夏見廃寺(なつみはいじ)」は、三重県名張市夏見にあります。飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した寺の跡地です。 1990年に、国の史跡に指定されています。かつては雑木林の中でありましたが、現在は名張中央公園の一部として整備されており、金堂、そして塔と講堂、周囲に掘立柱建物の基壇が保存され、復元展示されています。

「夏見廃寺」の金堂は、飛鳥の山田寺と 同じ形をしていたことがわかっており、中央政府との結びつきの強さがうかがえるとされています。11世紀の初頭に成立した「薬師寺縁起」に、「大来皇女」の発願により亡き父「天武天皇」を偲んで伊賀国名張郡に建立された昌福寺のことが書かれており、「夏見廃寺」はその昌福寺ではないかと考えられているようです。発掘された大形多尊塼仏の須弥壇部分に、「甲午年□□中」(694年)の表記があり、寺の建立についてもこの年の前後とみられています。南斜面につくられた「夏見廃寺」は、礎石等が数多く残っており伽藍配置がわかる古代寺院の跡でした。

「夏目廃寺」は、飛鳥時代後半(7世紀末~8世紀前半)に建てられ10世紀末頃に焼失したようです。金堂跡発堀調査で金堂跡から、仏像をレリーフにした焼き物「塼仏(せんぶつ)」が大量に見つかりました。「夏目廃寺展示館」には、大小5種類の塼仏709個を組み合わせた金箔の塼仏壁画が復元されています。とても、見事でした。

私が大好きな飛鳥大好きなこの「歴史サークル」では、事務局の方による綿密な準備と詳しい資料が準備され、この件に関わる講師の先生を招聘し大変詳しく説明を受けることができます。毎回、楽しみしています。

「天武天皇」の皇女で、斎王制度が成立してから初めての斎王として仕えた「大来皇女」が、父の菩提を弔うために建てた昌福寺が「夏見廃寺」であるといわれている古代寺院の跡は、飛鳥から離れた地にあります。飛鳥時代の人物が関わったとされていて、とても興味をそそがれた歴史散策となりました!

次回は、「毛原廃寺」等を紹介したいと思います。

                                                                        



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巨大な前方後円墳を擁する「百舌鳥古墳群」

2017年12月19日 20時13分06秒 | 歴史

「百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)」は、大阪府堺市にある古墳群です。半壊状態のものも含めて、44基の古墳があります。このうち17基が国の史跡に指定されているほか、これとは別に宮内庁によって3基が天皇陵に、2基が陵墓参考地に18基が陵墓陪冢に治定されています。かつては100基を上回る古墳がありましたが、第二次世界大戦後に宅地開発が急速に進んだため、半数以上の古墳が破壊されてしまいました。 「古市古墳群」とともに、巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られています。

今回は、巨大な前方後円墳を擁する「百舌鳥古墳群」を歴史散策しましたので紹介したいと思います。

(行程)

南海高野線堺東駅ー堺市役所ー竹内街道ー各古墳ー堺市博物館ー各古墳ー南海高野線中百舌鳥駅

飛鳥が大好きな歴史のサークルの皆さんと一緒に南海高野線堺東駅前をスタートし、堺市役所の最上階に行きました。ここからは世界最大規模の前方後円墳・仁徳天皇陵古墳の全景を見学しました。その後、「竹内街道」を歩き、ガイドさんによる各古墳の詳しい説明を聞きながらの歴史散策でした。途中、「堺市博物館」を見学し最後は、南海高野線中百舌鳥駅に到着しました。

堺市のやや北部に位置する「百舌鳥古墳群」は、日本を代表する古墳群です。 主な古墳には、大仙公園を挟んで、日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳があり、東側に、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、北側に反正天皇陵古墳があります。あまりの古墳の多さに驚きました。

「堺市博物館」では、VR技術を用いて上空300mからの仁徳天皇陵古墳の雄大な眺めと、古墳内部の石室をCGで再現した映像を体験できます。「ここに来れば堺の歴史と文化がわかる」という博物館です。古代から近代まで堺の歴史を時代ごとにゾーン展開、貴重な多くの出土品や堺のまちが培ってきた文化財などの展示を、タイムスリップするような気分で見学できます。

今回の歴史散策で、特に印象に残っている古墳は「仁徳天皇陵古墳」と「いたすけ古墳」です。

「仁徳天皇陵古墳」は、クフ王の「ピラミッド」・「秦始皇陵」と並ぶ世界3大墳墓の一つとされています。5世紀の築造とされる墳丘長約486mの日本最大の前方後円墳で、墳丘は3段に築かれ三重の濠がめぐっています。あまりの大きさに、圧倒されました。また、周辺には10基以上の中小古墳を見ることができます。

「いたすけ古墳」は、「百舌鳥古墳群」ほぼ中央にあり5世紀中頃から後半頃に造られたとされる群中8番目の大きさで、全長約146mの前方後円墳です。住宅造成で破壊されそうになったのを市民運動によって保存したことで有名な古墳です。なんと、この古墳に生息しているタヌキを見ることができました。

今回は、約10km位の散策でしたが、ガイドさんの詳しい説明で大変興味深く歴史散策することができました!

                                             


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明日香村にある中世の城郭2「雷城と飛鳥城」

2017年12月14日 18時13分41秒 | 歴史

前回に引き続き、明日香村にある中世の城郭2「雷城と飛鳥城」を紹介したいと思います。

〇「雷丘(いかづちのおか)」は、奈良県明日香村大字雷にある標高110mほどの丘にある城です。「雷丘」は、中世には城が築かれてました。

「雷丘」は、飛鳥時代に「柿本人麿」によって詠まれた「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも」や、「雄略天皇」の時の「雷神」で有名な丘です。

『日本霊異記』と『日本書紀』に、「雷丘」に関連する伝承が記されています。
「雄略天皇」の時、家臣の小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、天皇に「雷神を捕らえてこい」と命じられます。
栖軽は、豊浦寺と飯岡の間にある丘に落ちていた雷神を連れ帰り天皇に献上するも、天皇は光り輝く雷神に恐れをなし「落ちていた所へかえしてこい」と命じます。この雷神が落ちていた所を「雷岡(雷丘)」と呼んでいます。

この場所は、発掘の結果、多数の円筒埴輪片や石室が発見され古墳があった可能性があります。この時、深さ2m程の中世城郭の堀跡が発掘され、ここに「雷城」があったことが裏付けされました。城は、「雷丘」の中央部に主郭を置き、空堀を隔てて西側に二の曲輪、更に西側に一段下がって曲輪を置き、更に南北両側に一段下がって帯曲輪を伴う縄張りとなっています。西堀切は、幅約7m。東堀切は、幅約3mを測る薬研掘りです。

講師の先生の詳しい説明により、掘割等を見てこの場所が中世の城郭とわかりました。現在、公園と整備されて遺構の改変もあり、なかなかわかりづらい城跡でした。

                    

〇「飛鳥城」は、奈良県明日香村大字飛鳥にあり標高119mの竹藪の小さな丘上にあります。築城時期・築城者とも不明ですが、城主は「大和誌」によれば、飛鳥氏とされていますが不明です。南方に鎮座する、「飛鳥坐神社」との関連も考えられます。城址は、明日香村のほぼ中央に位置し「飛鳥坐神社」の北にあります。現在は、竹林となっている独立丘陵の頂部に主郭、西側と東側に一段低く副郭を設け、主郭の北側は横堀、南側は堀切で防御しています。南側の堀切は西に向かって斜面を竪堀状に下っており、外側には土塁を伴っています。北側の横堀の外側は数段に渡り平場がありますが、どこまでが当時の地形なのかよく分かりません。東側は、破壊が激しく空堀なのか曲輪なのかわかりません。小規模な城ですが、人工的な掘割等の遺構が比較的よく残されています。

「飛鳥城」は、いつも散歩で横を通っていたのですが、まさかこの小さな竹林の丘が中世の城郭とは思いもしませんでした。

小さな明日香村内に、なんと中世の城郭が11位残っているようです。明日香村に住んでいながら、知らないことがいっぱいです。

次回は、「小山城」を散策の予定です。とても楽しみにしています。

明日香村は、飛鳥時代の遺跡が多く残るところですが、今回地元の皆さんと一緒の中世の城郭歴史散策は、とても勉強になりしかも楽しいひと時となりました!

             

 

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明日香村にある中世の城郭「冬野城と畑城」

2017年12月10日 15時05分05秒 | 歴史

奈良県高市郡明日香村冬野にある「冬野城」は、多武峰城塞群の一角を成す中世の城です。多武峰城砦群の中でも、最高所・最大規模のお城です。また、「畑城」は、明日香村畑にある城で明日香村最小の城です。

明日香村は、飛鳥時代の歴史的遺産が多いのですが、実は縄文時代から人々が生活していたようです。

今回は、地元の方々と講師の先生と一緒に、明日香村にある中世の城郭の最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を歴史散策してきましたので紹介したいと思います。

〇「冬野城」の 遺 構としては、 曲輪、土塁、堀切、土橋等があり、 築城者は、 多武峰寺です。 築城年代としては、平安時代末期のようです。 見 ど こ ろとしては、「冬野城」は、談山神社を中心として周囲の峰々に築かれた多武峰城砦群の中でも最大の規模があり、南の吉野方面への備えの城のようです。

 多武峰寺は、興福寺との争いが続き、幾度も興福寺衆徒により堂宇を焼かれ、その都度普請され城砦化されていったようです。南北朝時代から戦国時代まで、多武峰を舞台に三度の合戦が行われ、冬野城ではその度に激戦が繰り返されました。

「冬野城」の 遺 構としては、電波塔や神社などにより改変はありそうですが、北側一帯は連郭式の山城の様相です。多武峰・談山神社に繋がる北方の尾根状に階段状に郭が続き、竪堀のような遺構と堀切が3本(それより先にもあるようです)、主郭(最高所)に近づくごとに高い切岸により敵を寄せ付けない構造になっています。北東方面にも郭が4段続いて堀切が2本あります。古くから、興福寺と対立していた多武峰は付近が城郭化していた可能性もあり、また1437年から10年にかけて起こった大和永享の乱の際は越智方が多武峰を中心に抵抗し広く戦場になったようです。1506年には赤沢朝経の大和乱入があり、その際、南和の越智氏や箸尾氏が多武峰に逃れ、北和の筒井氏は東山内に逃れました。多武峰は、大和国中(奈良盆地)の東南に位置し、別天地の感があります。筒井氏の東山内と同じような位置づけで、多武峰周辺にのがれた南和の国人達が冬野城を改修し使用したと考えられます。城跡の概要は、神社の境内にある建物や電波塔の建設による改変以外は比較的良好な状態で残っているものと思われます。

冬野には、何度か行ったことがあります。明日香村でも山奥にあり、車1台分位の道しかありません。この地には、鎌倉時代の人で亀山天皇の第8皇子である「良助親王」の「冬野墓」があります。親王の遺志により、冬野に葬られました。まさか、この「冬野墓」から歩いて数分の所に中世の城郭があるとは思いもしませんでした。

                         

〇「畑城」は、畑集落の北側にあり標高538mの城山に位置し北側に大きな堀切がある単純な造りです。西側の堀も土塁もなくだらだらと降りるだけですが、500m下った先に堀切があり。広大な城塞郡の一画であったようです。

「畑城」は、「冬野墓」に行く途中にあります。道沿いにあり、見落としてしまう位の小さな城跡でした。

両城共に、数百年以上経っており木々等が生い茂り、最初は何も分かりませんでした。講師の先生の後を歩きながら、地形の詳しい説明を受けてはじめて人工的な城跡であることが分かりました。まさか、こんな場所に中世の城郭があるとは思いもしませんでした。

今回は、明日香村にある最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を、滋賀県から来られた熱心な講師の先生のもと、とても興味深く歴史散策をすることができました!

次回は、明日香村にある中世の城郭である「飛鳥城」・「雷城」を紹介したいと思います。

              

 

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