2017年、最後の「泉飛鳥塾」のブログとなります。
今回は、前回に引き続き「古代寺院の跡」歴史散策(2)を紹介したいと思います。2回目は、「毛原廃寺と駒帰(こまがえり)廃寺跡」です。
奈良盆地内にはたくさんの「廃寺跡(はいじあと)」があります。宇陀市の「駒帰(こまがえり)廃寺」跡、桜井市の「粟原(おおばら)寺」跡、香芝市の「尼寺(にんじ)廃寺」跡等です。その実態はほとんど分からず、大伽藍(だいがらん)の跡と思われる礎石(そせき)が残るだけです。
〇「毛原廃寺」は、奈良県山添村にあり三重県との 県境にある奈良時代の大寺院跡で、金堂跡、南門跡などの礎石が当時のまま残っています。 笠間川を眼下に見る山麓に、奈良時代平城京の大寺院と同じくらいの大規模な七堂伽藍が建立されていたことを示す金堂跡で、南門跡などの礎石が当時のまま残っています。 付近から出土した軒丸瓦、軒平瓦はいずれも奈良時代後期のもので、 廃寺跡より下流にある岩屋瓦窯跡で焼かれたことが発掘調査で判明しています。
「毛原廃寺」その存在自体が、まったく文献に登場しない寺院にもかかわらず、金堂の規模は唐招提寺の金堂にも引けをとらない大きさと考えられ、国指定の史跡に指定されています。奈良時代の大寺であったであろうこの寺は、東大寺の大仏殿建立のための勅施入によって発展した板蝿杣(いたばえのそま)の地にあり、木を植えて育て東大寺用の木材をとる山などのことの中心に位置することから、東大寺の杣支配所とも考えられています。
室生村と名張市に隣接する山添村毛原の地に、今は金堂跡、中門跡、南門跡など七堂伽藍を示す礎石のみが、畑や民家の間にひっそりと残されています。このような山奥に、何故大寺院が造られたのでしょうか。礎石の素晴らしさに、圧倒されました。
こんなところに大寺院がと思うくらい静かで所でのどかな風景は、想像を膨らませることのできる絶好の場所でも ありました。
また近くには、自然石にお地蔵様が6体並んで彫られた磨崖仏が、周りの草木に溶け込み、この地を見守るようにありました。この「毛原廃寺跡六体地蔵」は、「毛原廃寺」の境内の中に位置しながら、製作年代は室町時代の後期と思われ、廃寺になった後もここが信仰の地として語り継がれてきた証のような存在です。
「山辺の御井を見がりて 神風の 伊勢の処女ども 相見つるかも」(万葉集)
712年に「長田王」が詠んだこの「山辺の御井」 のはっきりとした所在は、いまだ分かっていませんがこの「毛原廃寺」の礎石群の中に伝承として残っています。
〇「駒帰(こまがえり)廃寺」跡は、宇陀市菟田野にあり多武峰談山神社の社家蔵の史料「宇陀旧事記」に、「安楽寺、駒帰村、本尊阿弥陀如来、七堂あり」と記されているのがこの寺院遺跡のことと考えられています。七堂伽藍が建っていたとあることから、かなり大きな規模の寺院だったと考えられています。
発掘調査で、昭和45年に瓦窯跡、昭和46年に金堂の跡と推定される西方の建物と、東方に所在するやや規模の小さい建物遺構が確認されました。創建時の遺構と瓦窯跡が発見され、五葉複弁蓮華文丸瓦などが出土しています。昭和40年代の発掘調査により、金堂と見られる建物跡と登り窯の瓦窯跡が出土しました。 東西18メートル、南北13メートル、高さ約30センチの基壇の上には焼土が積もっており、奈良時代初期に建立された寺院が、平安時代中ごろに焼失したと考えられています。
奈良時代の寺院が数々現存するなかで、「廃寺」として数々の礎石が語りかけるものは一体何なのでしょうか。今回の歴史散策は、山奥にある寺院跡に残る礎石をみるだけでも感動ものでした。古代寺院に興味のある方には、必見の地です!
「2018年、皆様にとって良い年になりますように願っています。2018年も泉飛鳥塾、宜しくお願い致します!!!」