泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

「飛鳥の冬景色・2020」

2020年01月31日 17時49分16秒 | 散歩

久しぶりに、「飛鳥」の地に戻ってきました。今回は、「飛鳥の冬景色・2020」を紹介したいと思います。

最初に、飛鳥の甘南備である「飛鳥坐神社」にお参りに行ってきました。2月2日に行われる、奇祭「おんだ祭」の準備が行われていました。今年は、見学に行こうと思っています。

その後、大好きな「奥飛鳥」と呼ばれている栢森地区や稲渕地区の棚田周辺を散策してきました。

毎年1月には、栢森地区では「女綱」・稲渕地区では「男綱」の神事が行われます。残念ながら、今年は参加できませんでした。

栢森地区を散策し、「女綱」を見てきました。また、稲渕地区の集落の入口には、新しい「男綱」が張ってありました。今年も、いい年になることを祈願しながら棚田周辺を散策しました。

別の日に、「蝋梅」が綺麗な八釣の里に散策してきました。八釣の里の入口に着くと、甘い香りがいっぱいで黄色の「蝋梅」が満開でした。

飛鳥の冬は、例年に比べると暖かいようです。飛鳥のあちらこちらに、冬の花々が咲いていました。久しぶりの「飛鳥」、四季の変化を感じさせられる素敵な所ですね~!

                          

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古代の「百済の地を訪ねて(普願寺跡・端山磨崖如来三尊像)」(最終回)

2020年01月19日 09時42分02秒 | 歴史

古代の「百済の地を訪ねて」シリーズも、いよいよ最終回となりました。前回は、古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)の様子を紹介しました。

ツアー最終日は、午前中は「端山(ソサン)」の普願寺」と「端山磨崖如来三尊像」に行き、午後は、仁川空港まで行き関西空港に戻りました。あっという間の4日間でした。

最終回は、古代の「百済の地を訪ねて(普願寺跡・端山磨崖如来三尊像)」(7)の様子を、紹介したいと思います。

〇「普願寺」は、法印国師宝乗塔および塔碑、文献資料などを通じて非常に繁盛していたことが知られていましたが、創建の時期や廃寺の時期などは明らかではなかったようです。しかし、調査により現在の五重石塔の位置する寺域中心部から最終的な伽藍の範囲や造成の時期が確認されました。また、東側の調査により9~10世紀の青磁をはじめとする高麗時代の遺物が多数出土したので、創建されたあるいは繁盛していた高麗時代の伽藍が存在した可能性が開かれました。また、史跡に指定されたほぼ全域において高麗時代の遺構が確認されており、一部の東側の尾根にまで続いていることから、本来の寺域の規模が非常に大きかったことが分かります。何と、この山の中のお寺には、僧侶1千余名がいたそうです。観光地ではない普願寺」、なかなか興味あるお寺でした!


              

〇瑞山市は忠清南道、西北地域の西海岸近くにあります。384年に、インドのマラナンダという僧が黄海を渡ってこの近くの法聖浦という入江に着き、百済初の仏教の寺「仏甲寺」を開いたといわれ、仏教伝来の地とされています。 

「端山磨崖如来三尊像」は韓国最古の磨崖仏で、600年頃に瑞山郊外の山の中腹の岩壁に、中国へ交易に行く人の安全を願うために彫られたといわれています。その静かな微笑は「百済の微笑」として有名です。

「磨崖三尊仏」は普願寺」から徒歩で約20分位の所にあります。 渓谷から約10分位上っていくと、絶壁に彫られている三尊仏をみることができます。中央には、如来立像。左側は、菩薩立像。右側は、半跏思惟像が彫刻されています。厚い唇・大きな目・頬を膨らませた如来立像は、百済人の典型的な微笑みを表しており、光が当たる角度によって微笑みが様々に変わります。何とも言えない、素晴らしい微笑みの三尊像でした!

今回(2019年11月中旬)、古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」4日間の、とてもマニアックな歴史ツアーでした。

参加の動機は、「古代飛鳥」の歴史を語るには、百済の国の地(歴史)を知らないといけないと思い参加しました。3泊4日と短い時間でしたが、とても充実した内容の歴史散策となりました。飛鳥を紹介するうえにおいて、大変勉強になりました!今までにないツアーでしたので、また機会があればこの歴史ツアーに参加したいと思っています・・・

                

 

       

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古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)

2020年01月10日 15時20分38秒 | 歴史

2019年の11月中旬に、古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」の4日間、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(公山城)」(5)の様子を、紹介しました。「光州」の町を離れ、「益山(イクサン)」に行きました。

今回は昨年からの引き続きとして、古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)の様子を、紹介したいと思います。

〇「益山」は ,百済の最後の王都だった「扶余」を囲むように流れている白馬江から南方へ約31キロほど離れた場所に位置しています。後期百済の仏教文化の花を咲かせた益山市の「彌勒寺」址は、百済第30代王武王(ムワン/580~641年)の際に創建された東西260メートル、南北640メールの百済最大の規模であり、韓国最古の石塔が聳え立ているお寺です。真正面には解体改修が完了した西塔と復元の東塔が広い敷地に立っています。百済末期に建てられたと言われる「益山彌勒寺址石塔」は、1400年という歳月が流れるうちに石塔の6階一部までしか残されています。石塔が崩れ落ちるのを恐れセメントで固められた西塔を、2001年10月から解体改修工事に入り、2019年3月に解体工事を完了し、一般に公開されました。また、1980年からはじまった大々的な発掘調査で、東西に二つの石塔があって、その中央に木塔がある三塔三金堂の大伽藍ということがわかり、韓国の古代寺院のうち、最古・最大級のものと推測しています。また、「彌勒寺址石塔」は国宝第11号に指定されており、宝物第236号の彌勒寺址幢竿支柱があります。

このお寺は、武王と王妃が師子寺にお参りに行く途中、龍華山の下の池のほとりで弥勒三尊が現われ、王妃の願いを聞き入れ、池を埋めて塔と金堂・回廊をそれぞれ3ヶ所ずつ作ったという記録があります。この記録から分かる事実は、まず「弥勒寺」が百済の国を挙げて建てられた伽藍であったこと、湿地を埋め立てて平地を造成したこと、未来の仏である弥勒が兜率天から降りてきて、三度の説法を通じてすべての衆生を救済するという『弥勒下生経』に基づいて伽藍を配置したという点です。百済の一般的な寺院は、塔と金堂が一つずつ配置される1塔1金堂式ですが、弥勒寺跡では塔と金堂を一つのセットとして、東西に3セット配置される珍しい配置となっています。そのため、塔と金堂を一つの寺院として考え、中院、東院、西院に区分しています。中院には木塔、東院・西院には石塔が配置されています。

今回の歴史ツアーで楽しみにしていたひとつに、「彌勒寺址石塔」の四方にある石造物でした。明日香村にある謎の石造物である「猿石」の原型があるとのことで楽しみにしていました。「猿石」については以前、「飛鳥の猿石」で紹介させていただきました。2018年11月5日)

飛鳥時代(斉明天皇)に造られたと思われる飛鳥の「猿石」は、年代や制作理由も不明の石造物です。元々は、江戸時代に「欽明天皇陵」南の田から掘り出されたものでした。埋没中は鬼面の方が露出していたのか、「鬼石」とか「鬼形石」と呼ばれていた様です。材質は花崗岩です。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前がついており、それぞれ高さは1メートル前後です。そのうちの「女」「山王権現」「男」の3つは後ろに天邪鬼の様な顔があります。

飛鳥時代に造られた明日香村にある謎の石造物である「猿石」の原型は百済にあり、百済系の渡来人の工人集団が斉明天皇の時代に飛鳥の石造物に関わったのではないかという説もあるようです。「彌勒寺址石塔」の四方にある石造物の内、3体はかなり風化が進んでいました。残る一体の石造物の姿は、明日香村にある「猿石」とあまりにもそっくりなので大変驚きました!明日香村にある謎の「猿石」は、ここから来たのでしょうか・・・

                                            

〇「益山彌勒寺」址から約6キロくらい離れている「王宮里」遺跡地は、百済王室と直接関わりのある百済末期の武王時代に造成された重要な王宮址として知られています。

 国立扶余文化財研究所により、1989年から発掘調査をはじめて、現在も盛んに発掘している「王宮里」遺跡地は、南北490余メートル、東西約240メートルの規模の長方形の石築の城壁の内側に大規模な建物の跡、庭園、工房、トイレなど様々な遺構が出土され、「王宮里」という地名のように百済時代の王宮またはそれに相応しい関連施設があった場所ではないかといわれています。「王宮里5層石塔」(国宝第289号)は、1965年補修工事の際、高麗時代に製作された舎利装置が発掘されたことから、百済系の石塔の様式に新羅の塔の様式を一部加えた高麗初期の石塔だと建立時期を推定しています。また、石塔の周辺では金堂址と講堂址などの統一新羅時代の寺院の遺構を確認され、最初に百済の宮殿または離宮として建立されたが、百済が滅亡されてからその場にお寺を建築したものではないかと考えられています。「王宮里遺跡展示館」は、王宮里遺跡からわかる百済の建物、王宮生活、王宮から寺院への移り変わり、百済の王宮など、5つの分野に分けて展示されており、「王宮里」遺跡地は、韓国の古代王宮の内、唯一に王宮の外郭塀や建物の遺構が残っていることから、古代王宮の築造過程や王室生活などが把握できる重要な遺跡地になっています。「王宮里」遺跡地は、さすがに百済時代の王宮またはそれに相応しい関連施設があった場所ではないかといわれているように、土段等が整備され歴史的景観がとても素晴らしかったです!また、「王宮里5層石塔」も、日本では見ることができない素晴らしいものでした。

次回はいよいよ最終回となります。古代の「百済の地を訪ねて(普願寺跡・端山磨崖如来三尊像)」(7)を、紹介したいと思います。

                                                                      

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2020年の初詣「平野(牛頸)神社」

2020年01月03日 10時08分10秒 | 散歩

「あけましておめでとうございます!」 

2月には、久しぶりに「飛鳥」に戻る予定なので、今まで以上に「飛鳥」等の魅力を発信していきたいと思っています。どうぞ、2020年も「泉飛鳥塾」宜しくお願い致します。

2020年最初の「泉飛鳥塾」のブログは、初詣「平野(牛頸)神社」の様子を紹介したいと思います。

 以前「牛頸」については、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」ということで。紹介させていただきました。(2019年4月14日)

「牛頸」と書いて、「うしくび」と呼びます。福岡県福岡市の南に隣接する大野城市の南に位置する地域に、「牛頸」地区と呼ばれる所があります。その中心にあるのが「平野神社」です。地元では、「牛頸神社」と呼んでいます。991年に、京都「平野神社」の御分霊を、筑紫の牛頸に勧請鎮祭されています。古代の「牛頸」は、須恵器を伝え作った人々の邑でした。その中心に神社はあります。普段は、神主さんもいない静かな神社です。

元旦は、博多の地は大変天気に恵まれ、家族総出で地域の氏神様である「平野神社」に初詣に行きました。午後3時半頃に行ったのですが、多くの方が参拝に来られていました。参拝後、恒例の「おみくじ」をi引き、今年は「吉」でした。果たして、2020年はどんな年になるのでしょうかね~・・・

 

          

 〇せっかくなので、神社から歩いて5分位の所にある「胴の元古墳」に行ってきました。もともとは、周囲を一望できる丘陵上に6世紀に築造された直径約11mの円墳です。埋葬施設は、全長約6mの横穴式石室で耳環やガラス玉・須恵器など出土しました。古墳は開発によって丘陵が削られた後、現在古墳公園として復元・保存されています。「牛頸」地域では、唯一残っている古墳です。もともとこの古墳は、周囲よりも14mの高さにある丘陵上に築かれたものでした。この地域は、6世紀中頃から9世紀に至るまで操業を続けた九州最大の窯跡群である「牛頸窯跡群」がありました。ひょうとして、この地域には工人達の住居等があり高台にある「胴ノ元古墳」の被葬者は、須恵器を生産する陶工のリーダだったのかもしれませんね。

           

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