泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代の都「飛鳥を守る・のろし台」(2)

2022年01月29日 17時50分38秒 | 歴史

「両槻会」主催の、「烽(とぶひ)のネットワークを考える」というテーマで、2回(2021年10月・12月)にわたって奈良県明日香村と周辺地域の「のろし台」跡と考えられている所を歩きました。

前回は、紀路を歩く「烽のネットワークを考える」(1)でした。

今回は、古代の都「飛鳥を守る・のろし台」(2)を紹介したいと思います。

(行程)

近鉄飛鳥駅ー平田ヒフリ山ー橘ヒフリ山ー和田ヒフリ山ー豊浦火振山ー奥山ヒフリ山(古山田道より遠望)ー飛鳥寺研修会館(大学の先生による「飛鳥烽群の再検討」というテーマで講演が行われました。)

※フグリ山(明日香村祝戸)は、研修後に見学に行きました。

日本書紀には、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)の後、外敵侵入に備えて九州から飛鳥の都に危急を知らせる「烽(とぶひ)」(のろし)が制度化されたとあり、国防整備の一環として築かれたとみられます。

当時、都のあった飛鳥を守るため、現在の奈良県と大阪府の境にあたる生駒山地の一角に高安城を築くなど、近畿一円に防衛網が張り巡らされました。

北部九州ー瀬戸内海沿岸ー大阪・奈良(高安城)ー飛鳥周辺ー飛鳥宮

「烽(とぶひ)」(のろし)は、最終目的地である「飛鳥宮」へ情報を伝達するネットワークであったと考えられています。

ネットワークは、後には「軍防令」によって規定され、最大約20㎞間隔とされていました。煙や火での通信が繋がらなった場合は、担当する者は、走って次のポイントに連絡するように決められていたそうです。
そのためには、官道沿いの見晴らしの良い丘や低山に「烽火台」が造られたのではないかと推測されています。
飛鳥周辺には、「ヒフリ」の地名が16か所(明日香村は6か所・高取町は1か所)あるようです。
今回は、奈良県明日香村にある「ヒフリ」・「ヒブリ」などと呼ばれている場所に行ってきました。ほとんどが、高安山(現在の奈良県と大阪府の境)から約20㎞に位置しています。

飛鳥周辺地域の「のろし台」跡と考えられている所を歩いてみて、明日香村内にこんなに多くの古代の「のろし台」があると思いもしませんでした。当時、いかに緊迫していたかがわかるような気がしました。
「両槻会」さん主催の企画は、毎回のことながらとても勉強になります。とても有意義な時間を過ごすことができました!

〇平田ヒフリ山(明日香村平田・ヒフリ山古墳周辺)
 
〇橘ヒフリ山(明日香村橘・橘寺の南にある春日神社周辺)
 
和田ヒフリ山(明日香村豊浦・橿原市菖蒲町・北に古道の山田道)
 
豊浦火振山明日香村豊浦・北に古道の山田道)
 
奥山ヒフリ山(古山田道より遠望)明日香村奥山・中世の城の奥山城周辺)
 

〇フグリ山(明日香村祝戸・中世の城の祝戸城周辺)

      

 

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紀路を歩く「烽のネットワークを考える」(1)

2022年01月20日 11時46分13秒 | 歴史

奈良県高取町佐田の「佐田タカヤマ遺跡」で、7世紀後半の「のろし台」跡が見つかりました。(2021年1月)

外敵から、当時の都である飛鳥を守る「のろし台」と考えられています。

飛鳥が大好きな「両槻(ふたつき)会」さん主催の、「烽(とぶひ)のネットワークを考える」というテーマで、2回にわたって飛鳥周辺地域の「のろし台」跡と考えられている所を歩く企画がありました。とても興味があり、参加してきました。(2021年10月・12月)

2回に分けて、紹介したいと思います。

1回目の、紀路を歩く「烽のネットワークを考える」について紹介したいと思います。

(行程)

近鉄飛鳥駅ーマルコ山古墳ー束明神古墳ー佐田タカヤマ遺跡ー出口山古墳ー森カシタニ遺跡ー紀路検出地点ー松山遺跡ー市尾墓山古墳ー市尾宮塚古墳ー市尾瓦窯跡ー巨勢寺跡ー近鉄吉野口駅

「日本書紀」には、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)の後、外敵侵入に備えて九州から飛鳥の都に危急を知らせる「烽(とぶひ)」(のろし)が制度化されたとあり、国防整備の一環として築かれたとみられます。

当時、都のあった飛鳥を守るため、現在の奈良県と大阪府の境にあたる生駒山地の一角に高安城を築くなど、近畿一円に防衛網が張り巡らされました。ところがこのほど、それに連なるのろし跡らしい遺構が、奈良県高取町の「佐田タカヤマ遺跡」で確認されたのです。

7世紀後半、古代日本は未曽有の事態に見舞われました。朝鮮半島・白村江(はくそんこう)での大敗北です。

中央政権は、北部九州から瀬戸内、近畿にかけて長大な防衛線を突貫工事で築きました。戦闘拠点の古代山城とともに各地に設置されたのが、情報伝達の要となる「のろし台」です。

飛鳥周辺の「烽(とぶひ)」の跡として、「佐田タカヤマ遺跡」と「森カシタニ遺跡」に行きました。

〇「佐田タカヤマ遺跡」は、奈良県高取町佐田タカヤマにあり、マルコ山古墳の南西約350mにある標高152,5mに位置する小高い丘陵にあります。黒く煤けていた大型土坑や大型建物跡等が見つかっています。築造時期としては、7世紀後半頃と考えられているようです。現在は、鉄塔が立っています。

  

〇「森カシタニ遺跡」は、奈良県高取町大字森小字カシ谷にあり、近鉄飛鳥駅から南西約1,5㎞の丘陵上にあり「紀路」を見下ろす位置にあります。飛鳥時代の「烽」遺構等が見つかっています。全体の大きさは、「佐田タカヤマ遺跡」よりもかなり大きかったようです。現在は、何もない丘陵です。残念ながら、2ヶ所とも案内してもらわないとわかりません。

 

今回とても興味をそそられたのは、古代の「のろし台」跡もですが、もう一つありました。

〇「続日本紀」に、765年10月15日に「称徳天皇」が紀伊に行幸する際に通ったのが「紀路」とされています。「紀路」とは、大和と紀伊を結ぶ古代の幹線道路です。 その際、行幸の行列が「まゆみの陵」(草壁の皇子の墓と思われる「束明神古墳」)を通過する際、「称徳天皇」が付き従っている官人たちに詔を下し、騎馬の者はすべて下馬させ儀仗兵には旗幟を巻かせ威儀を正させてた」とあります。

「称徳天皇」は、「紀路」から祖先の「草壁の皇子」が葬られている「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したことになります。奈良県高取町佐田にある「束明神古墳(つかみょうじんこふん)」は、7世紀末に築かれた八角形墳で終末期古墳 です。被葬者は、天武天皇と持統天皇の子である「草壁の皇子」ではないかと言われています。「称徳天皇」にとっては、曾祖父にあたる人です。

以前から「日本書紀」を読んでいると、どこでその事が行われたのか気になっていました。

「両槻会」さんの事前の調査で、「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所を、2か所探して頂きました。

実際現地に行ってみると、「まゆみの陵」(束明神古墳)は、①の地点からは約1㎞・②の地点からは約550mの所にあります。現在は、①・場所からは、木々や家等があり「まゆみの陵」(束明神古墳)は、残念ながら見えませんでしたが、ここから遥拝したのではないかと思われるような場所でした。当時は、遮る物もなく八角形墳が見えたかもしれませんね・・・

真実はわかりませんが、古代史の謎のひとつが解けたような思いでした。「両槻会」のスタッフの皆さん、事前調査ありがとうございました‼

今回も、参加してとても良かったです! 

〇「まゆみの陵」(束明神古墳)

    

〇「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所(その1)

近鉄飛鳥駅から徒歩約10分の、線路沿いの「紀路」の付近から見た約1㎞先の束明神古墳」。一番奥の、家がある所の山裾にあります。

 

〇「まゆみの陵」(束明神古墳)を遥拝したと思われる場所(その2)

終末期古墳の「出口山古墳」を通り抜け、「紀路」から約550m先の束明神古墳」。一番奥の、家の先きの山裾にあります。

  

〇「高松塚古墳」から、約1.5㎞程の距離で見える「牽牛子塚古墳」。 イメージとして、こんな感じに見えていたのでしょうか・・・
八角墳の「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」(7世紀後半)は、飛鳥時代の女帝「斉明天皇」が被葬者とされる古墳です。
 
「紀路」とは、大和と紀伊を結ぶ古代の幹線道路です。
近鉄飛鳥駅から、「紀路」を歩きながら古墳や遺跡等を見てきました。
マルコ山古墳ー束明神古墳ー佐田タカヤマ遺跡ー出口山古墳ー森カシタニ遺跡ー紀路検出地点ー松山遺跡ー市尾墓山古墳ー市尾宮塚古墳ー市尾瓦窯跡
次回は、「明日村内のヒフリを巡る」を紹介したいと思います。
             
 

 

 



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奥飛鳥栢森の「女綱の綱掛け神事・2022」

2022年01月11日 17時01分57秒 | 歴史
奈良県明日香村稲渕・栢森地区において、1月10日の「成人の日」に稲渕地区で「男綱(おずな)」が、1月11日には柏森地区で「女綱(めずな )」の綱掛け神事が行われました。「綱掛け神事」は、稲淵と栢森両大字に伝わる神事です。
今回は、奥飛鳥と呼ばれている栢森の「女綱の綱掛け神事・2022」の様子を紹介したいと思います。
「綱かけ神事」は、子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押しとめ、住民を守護するための神事と言われています。「男綱」は柏森のさらに奥にある男渕の竜神を、「女綱」は女渕の竜神を祭っているといわれています。

〇稲渕地区からさらに南にある柏森(かやのもり)地区の「女綱の綱掛神事」は、「男綱」と対になる「女綱」です。 
栢森地区の集落から「女綱」を運んでこられ、福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛けられます。
栢森大字の神事の特徴は、全体を仏式で行なわれます。ちなみに、稲渕地区での「男綱の綱掛神事」は神式で行われます。最後に、両神事とも参加者全員にミカンが配られます。今年は雨の中、15時30分位から行われ16時30分頃には終了しました。
「綱掛け神事」は、日本の原風景が色濃く残る飛鳥ならではの郷土行事です。 

毎年、二つの神事に参加していますが、今年こそはコロナの収束を願いながらの参加でした!

              
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明日香村にある「旧大鳥家住宅が国登録文化財に!」

2022年01月04日 12時50分54秒 | 歴史
「あけましておめでとうございます。
       本年もよろしくお願いいたします!」
                                         

今年も、飛鳥を中心に色々と発信していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
2022年の最初の「泉飛鳥塾」のブログは、奈良県明日香村大字飛鳥にある「旧大鳥家住宅」を紹介したいと思います。
2021年11月に、奈良県明日香村にある「旧大鳥家住宅」を国の登録有形文化財に、国の文化審議会が文部科学相に答申しました。
奈良県文化財保存課によると、明日香村大字飛鳥にある「旧大鳥家住宅」は、1870年に呉服商が建てた住宅を1904年に農家の大鳥家が買い取りしました。
主屋は、2階の天井が通常より低い「つし2階建て」と呼ばれる造りをしており、離れやとともに木造2階建てで瓦葺きです。いずれも装飾性の高い格子窓の「虫籠窓」を備えています。江戸時代の民家の形式を今に伝えています。
「旧大鳥家住宅」がある場所は、明日香村大字飛鳥の「飛鳥坐神社」参道沿いにあり、飛鳥寺の北にある「来迎寺」のすぐ西にあります。この寺は、古代の飛鳥寺の講堂跡で当時の礎石が残っており見ることができます。明日香村内では、江戸末期から明治にかけての古い住宅が残っています。最近、電柱の地中化の工事がなされ落ち着いた雰囲気の素敵な場所です。
現在「旧大鳥家住宅」は、「ブランシエラビイラ明日香」の一部として用いられ、宿泊できます。すぐお隣は、同じように古い建物で安価で宿泊できる「アスカゲストハウス」もあります。
古い宿に宿泊して、のんびりと飛鳥を散策するのもいいかもしれませんね!
                              
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