泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

奈良の新春を彩る 「若草山の山焼き」

2017年01月30日 10時03分02秒 | 散歩

奈良市の若草山において、1月28日(土)に新春の伝統行事『若草山の山焼き』が行われ、古都の夜空が赤く染まりました。

今回は、奈良の新春を彩る 「若草山の山焼き」を紹介したいと思います。
「若草山の山焼き」の由来は、興福寺と東大寺の領地争いを仲裁するため山を焼いて境界線をはっきりさせたのが起源とする説や、山頂にある古墳の霊を鎮めるために始められたなど、さまざまな説があるようです。
午後6時15分に、花火約600発が打ち上げられた。その後、奈良市の若草山中腹では、一斉に吹き鳴らされたラッパの音を合図に、たいまつを手にした約300人の消防団員が枯れ草に火をつけると、山肌はあっという間に真っ赤な炎に包まれました。

奈良に住んで、初めて見る「若草山の山焼き」でした。花火は興福寺の近くの猿沢の池から見ました。五重塔をバックにした花火が、とても綺麗でした。

その後、「若草山の山焼き」を近くで見るために奈良公園まで移動しましたが、あまりの人の多さにびっくりしました。(ふもとの奈良公園などに集まった人は、約18万人おられたようでした。) 

それでも、古都の夜空を焦がす炎の祭典に、寒さも忘れて見入っていました。古都「奈良」ではの景色で、幸福なひと時を過ごすことが出来ました!

               


 

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ブライズミ(2) 「古代からの畦(あぜ)」

2017年01月26日 20時24分54秒 | 歴史

以前に一度、ブライズミ「飛鳥京への道」探訪ということで紹介したことがあります。

これは、私にとって飛鳥に住んで初めての試みでした。内容は、飛鳥時代の人々は、「飛鳥宮」に入る時にどの道を通り、どのような景色を見ながら入って行ったのだろうと想像してみました。

そこで、古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組があり、好きな番組でよく視聴しています。

それを参考にしながら、ふと「飛鳥京」へ入る道は一体どこなのだろうか?

古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」とは違って、何の根拠もありませんが、今回も「古代からの畦」ということで、「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」をしてみました。

ところで、飛鳥に住んで5年目になりますが、この間飛鳥に関する講座や歴史サークル等で学んだ中で、飛鳥には「古代からの畦」がいくつか残っていると教えていただきました。

そこで今回も不確かですが、ブライズミ(2)「古代からの畦」ということで紹介したいと思います。

〇飛鳥時代の遺構、一辺約40mの「方形池の跡(畦)」

明日香村島庄には『、日本書紀』や『万葉集』の記述から蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や草壁皇子の「嶋宮」が存在したとされており、蘇我馬子の邸宅には池をもつ庭園があったことが知られています。
蘇我本宗家の滅亡後、邸宅のあった嶋の地は官の没収となったようで、壬申の乱の直前には天武天皇が吉野宮に行く途中で立ち寄っています。
島庄遺跡の発掘調査は、1972年度から橿原考古学研究所によって20数次にわたって行われており、飛鳥時代の遺構としては一辺約40mの「方形池」や石組暗渠・曲溝・川跡・小池・掘立柱建物等が検出されています。

現在、石舞台古墳の近くに飛鳥時代の遺構、一辺約40mの「方形池の跡(畦)」が残っていて見ることができます。ここは、発掘調査で「方形池の跡(畦)」であるということです。

         

〇石神遺跡の「阿倍・(新)山田道」

「阿倍・山田道」は、近鉄橿原神宮前駅東口から東へ伸び、丈六交差点付近で下ツ道と交差し東へ直線的に伸びたのち、雷・奥山・安倍寺の東側の間をにつなぐ「みち」です。

「阿倍・(新)山田道」の区間は、7世紀中頃前後(630年以降)につくられていたようです。この発掘調査では、「阿倍山田道」の南側溝と路面が検出されました。路面幅は約18mで両側に側溝を持つ立派な「みち」です。この「みち」は、丁寧に盛土をしてつくっているようです。盛土の下からは、多量の木の枝や皮が出土しており、これらは「みちづくり」のための基礎工事と考えられています。また、近接する場所でおこなわれた発掘調査では、地中の水分を除去するために、大がかりな石組みの暗渠がつくられていることも確認されています。

なんと、現在の「山田道」(雷丘の交差点付近)の横の南北の田畑には、不確かですがおそらく当時の道幅の範囲を示す跡ではないかという不思議な「畦」が残っていました。南北の田畑の畦の幅の長さを測ってみると、ほぼ同じでした。

        

 〇石神遺跡の「阿倍・(旧)山田道」

『日本書記』によると裴世清は、推古天皇16年(608)に、遣隋使小野妹子らとともに「阿倍・山田道」を通って、推古天皇がいる「小墾田宮」に行っています。

「阿倍・(新)山田道」の区間は、7世紀中頃前後につくられていたようですので、別の「みち」を通ったと思われます。

裴世清が通った「阿倍・(旧)山田道」は、現在の「山田道」の南にある「水落遺跡」の北辺を東西に走る里道付近を通っていたのではないだろうかと、これまた歴史サークルの方に教えていただきました。

両方の「みち」とも、いつも散歩しているのに全然気づきませんでした。そう言われてよく見ると、この場所の「畔」の幅等が、他と違っていました。 

      

〇「飛鳥京」への「みち(畦)」

「川原下の茶屋遺跡」からは、飛鳥時代の交差点が検出されていて、数少ない道路跡の遺跡です。東西道は、道幅約12m・南北道は道幅約3mで側溝もみつかっています。東西道路は、直線道路と考えられ、西は下ツ道に交わり、東は飛鳥京に続くと思われます。この道路は、川原寺の南門と橘寺の北門の間を通っているようです。地図で確認してみると、飛鳥京のエビノコ郭の西門に突き当ります。この東の道を、歩いてみました。現在、飛鳥遊歩道として整備されており、途中には「亀石」を見ることができます。細い道をまっすぐに歩いて行くと、橘寺はすぐそこにみえていますが田んぼにつきあたりました。

ここで「ブライズミ」で予想しました。「川原下の茶屋遺跡」で見つかった東西道は、道幅約12mです。この田んぼに痕跡は無いだろうかと。ひょっとしてこの「畦」ではと思い、歩幅で確認してみました。段差を考えながらさらに歩いて行くと、小さな橋がかかっておりまっすぐに行き、銀行の横の道を歩くと飛鳥京のエビノコ郭の西門に突き当りました。

飛鳥に住んでいながら、知らないことが一杯です。今回も、何の根拠もない「ブライズミ(2)」の歴史散策でしたが、とても楽しかったです!

            

 

 

 

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近つ飛鳥風土記の丘にある 「一須賀古墳群」

2017年01月24日 16時56分43秒 | 歴史

阪府南河内郡河南町東山・太子町葉室 にある国指定史跡の「一須賀古墳群」は、「近つ飛鳥風土記の丘」として保存公開されています。

「風土記の丘」には102基の古墳があり、そのうち32基は整備され実際に石室内に入ることができます。

今回は、、近つ飛鳥風土記の丘にある「一須賀古墳群」を紹介したいと思います。

「一須賀古墳群」は、葛城山地から北西方向に延びる丘陵地帯に、6世紀前半から7世紀中頃にかけて次々と墳墓が造られました。23支群・総数262基からなる古墳群です。

この群集墳の存在は、江戸時代からすでに知られていたようです。

古墳の大半はほとんどが直径10メートルから20メートルの円墳ですが、方墳も一部見られるようです。石槨はほとんどが横穴式石室ですが、木棺直葬や石棺式石室も一部に見られます。

石室の羨道は短く、玄室の平面プランは正方形に近く、石室内には2~3体を埋葬していたケースが最も多いようです。遺物は須恵器、土師器、鉄拳、玉類等です。

発掘調査された古墳から、ミニチュアの炊飯具が多く出土しており、百済系渡来氏族との関連が指摘されているようです。

多くの古墳の中でも特にD-4号墳は、一須賀古墳群の中でも最大級の古墳で、直径25メートル・高さ2・3メートルの円墳です。石棺、木棺を合わせ4基の埋葬が確認されています。出土品は金銅製飾金具、かんざし等が発見されているようです。

発掘調査による出土品の一部は、隣接する「大阪府立近つ飛鳥博物館」において展示されています。この博物館の展示物は、とても充実していました。特に、巨大な古墳の石を運ぶ発見された本物の「修羅(しゅら)」は、一見の価値があります。

「一須賀古墳群」の古墳は、大阪平野の南東部の藤井寺市と羽曳野市にまたがる巨大な「古市古墳群」とは全く違っていて、見るだけでなく実際に石室内に入ることが出来ます。

「一須賀古墳群」は、とても興味深く歴史散策することが出来て楽しかったです。古墳に興味がある方は、是非お勧めします!

                             

  

 

 

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(続)世界遺産の国内暫定リストに追加された 「古市古墳群2」

2017年01月19日 19時47分11秒 | 歴史

大阪平野の南東部、現在の藤井寺市と羽曳野市にまたがる東西約4km、南北約4kmの範囲の中に、たくさんの古墳が集中して存在する場所があります。

この古墳の集まりを「古市古墳群」と呼んでいます。

前回は、「古市古墳群」の三分の一位しか歴史散策することが出来ませんでした。

(前回の行程) 

 近鉄土師ノ里駅ー栗塚古墳ー市ノ山古墳(伝允恭陵)ー国府遺跡ー仲津山古墳(伝仲津姫陵)ー道明寺・道明寺天満宮ー古室山古墳ー誉田御廟山古墳(伝応神陵) 

誉田八幡宮ー野中古墳ー墓山古墳ー向墓山古墳ー前ノ山古墳(白鳥陵)ー近鉄古市駅

今回は、(続)世界遺産の国内暫定リストに追加された「古市古墳群2」ということで、残りの古墳群等を紹介したいと思います。

(今回の行程)

近鉄高鷲駅ー長尾街道(重要文化財の吉村家住宅)ー雄略天皇陵古墳ー津堂城山古墳ー善光寺ー葛井寺ー鉢塚古墳ー仲哀天皇陵古墳ー番所山古墳ー野中宮古墳ーはざみ山古墳ー近鉄古市駅

このコースは、案内板が少なく地図を見ながらの歴史散策でしたが、一つ一つの古墳に特徴があり、楽しく歴史散策をすることが出来ました。又、古墳の近くに神社やお寺が近くにあって、興味深く歴史散策できました。

今回、特に印象に残る古墳は「津堂城山古墳」・「番所山古墳」でした。

「古市古墳群」で最初に築造された古墳で、墳丘長210mの前方後円墳です。室町時代に城を築くために墳丘の一部が大きく削られて、現在地域住民の方の公園みたいになっていました。ここで発見された3体の水鳥形埴輪は、重要文化財に指定されています。また、近くにある「ガイダンス棟まほらしろやま」の建物の前には、後円部頂で見つかった竪穴式石槨の立派な天井石を見ることが出来ました。

又、どういうわけか住宅地の真中に残された、小さな円墳の「番所山古墳」がとても印象に残りました。

                                          

お寺では、「葛井寺(ふじいでら)」と「善光寺」です。また、古代の「長尾街道」を、歴史散策することも出来ました。 

「葛井寺(ふじいでら)」は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの参詣者が訪れます。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、1043本もの手を持つ珍しい仏像です。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっていて、み見応えがありました。 

「善光寺」は、浄土宗知恩院派に属する寺で、織田信長の河内攻めの時に一旦焼失、慶長年間(1596~1614)になって現在の位置に再建されました。 ここには有名な「本田善光の伝説」が伝わっています。推古天皇の御代、本田善光が信州への帰途に拾った阿弥陀如来像を背負って小山の里の小さな堂に宿泊した際、住職がその仏像を所望しましたが聞き入れられませんでした。そこで、三日三晩念仏を唱えたところ二体になり、その一体が善光寺、もう一体が長野の善光寺の本尊となったと語り伝えられ、「元善光寺」「日本最初の善光寺」として知られています。予備知識がありませんでしたので、道の途中に「日本最初の善光寺」があることに大変驚きました。 

「長尾街道」は、堺市から柏原市を経て奈良県葛城市長尾へ至る街道で、江戸時代には和泉、河内、大和を結ぶ重要な街道でした。また、その道筋は、日本書紀の壬申の乱の記述にみられる「大津道」と推定されています。現在は、車一台が通る位の細い道でした。

            

今回、残りの「古市古墳群」を歴史散策するつもりでしたが、残念ながら全部を歴史散策(前回は、約12km、今回は、約14kmの散策することが出来ませんでした。

次回は、残りの「古市古墳群」を歴史散策したいと思っています!

 

 

 

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飛鳥での土器づくり 「実験考古学 弥生式土器制作」

2017年01月16日 21時05分14秒 | 歴史

「実験考古学」は,発掘調査で出土した遺物や遺構の持つ性質を探るためにその遺物や遺構の制作方法や使用方法を復元し,それらを使用したときの効果や有効性を確かめたり,ある考古学上の考え方や仮説に対しその考え方や仮説が正しいかどうかを確かめるために行われるものとされています。

今回は、国営飛鳥歴史公園の「キトラとらい塾」で行った、飛鳥での土器づくり「実験考古学 弥生式土器制作」を紹介したいと思います。

「弥生式土器」は、弥生時代(紀元前300年頃、終わりは紀元後300年頃)につくられた土器で、縄文式土器に比べていろいろな違いがあります。

色ですが縄文式土器が黒やねずみ色が多いのに比べて、弥生式土器は大抵は赤っぽい色をしています。弥生土器の形はものを蓄えておくための壺、ものを煮炊きするためのかめ、食器としての高つきや鉢などと使い道によってはっきりと区別されているようです。

今回は、飛鳥での土器づくり「実験考古学 弥生式土器制作」ということで、2回に分けて制作しました。

1回目は、2016年12月11日に飛鳥キトラ地区公園の体験工房で行われました。

最初に、指導の先生により「飛鳥の焼き物」ということで、縄文・弥生・古墳といった各時代ごとの土器の特徴等の講義がありました。

そして、いよいよ土器づくりです。土器成形の仕方を先生が手本を示されて、各自制作に入りました。

最初は、1〜2cm位の厚さで、土器の底部になる円形の土台をつくります。次に手の指で粘土を転がし、粘土ひもを作り形を作っていきます。ちなみに、粘土はキトラ地区で採れた物を使用しました。皆さん色々と工夫されて、とても素敵な土器を作られていました。1回目の作業は土器を作るところまでした。この後、約1カ月位乾燥させてます。

2回目は、2017年1月15日に乾燥させた土器を飛鳥キトラ地区公園体験工房横の空き地で焼きました。いよいよ、「実験考古学 弥生式土器」の野焼きの開始です。

火の調整等は、先生の指示に従って行いました。9時30分頃から始めて、取り出したのは15時位でした。なかなか火がつかず温度調整も難しくて、きちんと割れずに焼き上がってくれるのかキドキでしながらの時間でした。

昼食は、キトラ地区の農園で採れた米や野菜を使った料理を調理し、皆さんで食べました。とても美味しくいただきました。最後には、残り火で焼いた焼き芋がとても美味しかったです。

年に1回だけの「実験考古学 弥生式土器制作」ですが、国営飛鳥歴史公園のキトラ地区の体験工房では、古代ガラス制作体験・ガラス玉づくり・勾玉(まがたま)づくり・海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)づくり・富本銭(ふほんせん)づくり等の「飛鳥古代体験」ができます。飛鳥に来られたら、チャレンジしてみませんか・・・

今回、初めての「実験考古学 弥生式土器制作」でした。作品の出来はいまいちでしたが、とても楽しい時間を過ごすことができ、また貴重な体験をさせていただきました!                                         

 

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