泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

大宰府に残る 「菅原道真公」伝説(2)

2015年12月29日 17時38分46秒 | 歴史

前回に引き続き、大宰府に残る「菅原道真公」伝説を紹介したいと思います。

901年、「道真公」は「大宰府」に到着し、配所である「榎社」において生活しました。

〇榎(えのき)社・隈麿(くままろ)の墓・浄妙尼(じょうみょうに)社

・配所である「榎社」での生活は思ったより厳しく、権帥(ごんのそち)とは名ばかりで官舎も荒れ果てて、床は落ち雨漏りするようなありさまでした。

・配流の時、隈麿(くままろ)と紅姫(べにひめ)の二人の幼子と一緒でしたが、隈麿(くままろ)は902年に亡くなったようです。榎社の近くに、「隈麿の墓」と伝えられる墓石があります。

・配所の地で不自由な暮らしの「道真公」を何くれとなくお世話した方が、浄妙尼(じょうみょうに)と呼ばれる方です。時折、梅の枝をのせたお餅を差し上げると「道真公」は大変喜ばれたそうです。そのお餅が、梅が枝餅の始まりだと言われています。「榎社」の境内に、「浄妙尼社」があります。

         

〇天拝山(てんぱいざん)

天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高257.4mの山です。その名は、大宰府に流刑された「菅原道真公」が自らの無実を訴えるべく、幾度も登頂ししたという伝記に由来します。

        

武蔵寺(ぶぞうじ)  

天拝山のにある武蔵寺は、九州最古の仏蹟です。その創建にかかわったのが藤原鎌足の子孫、藤原虎麿(虎丸・虎麻呂・登羅麻呂)といわれています。なお、虎麿は初代の太宰帥蘇我日向臣身刺(だざいのそち・そがのひむかのおみ・むさし)と同一人物ではないかともいわれています。また、蘇我日向臣身刺は,孝徳天皇の病気がよくなるよう祈って、654年に般若寺(はんにゃじ)を建てたと言われています。現在、その場所には、鎌倉時代の石造七重塔(重要文化財)があります。

       

〇紫藤(しとう)の滝・衣掛けの岩

武蔵寺境内のわきにある落差2mほどの小さな滝を「紫藤(しとう)の滝」と呼んでいます。「道真公」が無実の罪が晴れるようにと天拝山で祈るに際し、身を清めたといわれている滝です。また、滝つぼの横には身を清める際に衣を掛けた石「衣掛けの岩」があります。

   

〇針摺(はりすり)石・鍬柄(くわのえ)橋・鯰(なまず)石

・「道真公」は、無実の罪が晴れるようにと天拝山に登って祈りました。その帰りに、一人の老翁が斧を石にあて一生懸命に摺っていました。それを見て不思議に思って、翁に「何をしているのか」と尋ねたところ、翁は「この斧を摺りへらして針に作っているのです」と答えました。その答えに大変感動した「道真公」は、何事も一生懸命に努力を重ね精進すれば事は成就するものだと悟り、再び天拝山に登って祈ったということです。老翁が斧を摺っていた石を「針摺(はりすり)石」と呼んでいます。

・川を渡ろうとした時、橋がなく「道真公」は困っていました。その時に、そこを通りかかった農夫が担いでいた鍬の柄を、橋の代わりに差し出したそうです。その後、この橋を「鍬柄(くわのえ)橋」と呼ばれるようになったそうです。

・川に大鯰がいて道行く人を大変困らせていました。「道真公」がこの辺りを通りかかると鯰が川を渡らせようとしませんでした。そこで「道真公」は太刀をふるって鯰を退治しました。すると、不思議なことに「頭・胴・尾」の三つに切られた鯰は、何と「石」になったそうです。

他にも、「大宰府に」は数多くの「道真公」伝説が残っています。これからも、楽しみながら散策したいと思います!

               

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宰府に残る 「菅原道真公」伝説(1)

2015年12月25日 17時08分45秒 | 歴史

「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
(東風の吹く季節になったならば、かぐわしい香りの花を咲かせて欲しい、その花と香りを愛でる家の主(自分)がいなくても、春を忘れないでおくれ)

この歌は、「菅原道真公」が「大宰府」に左遷された時に、京都の自分の家にあった梅の木を思って詠ったものです。

「菅原道真公」は、9世紀後半の学者・政治家で、宇多天皇(うだてんのう)に重く用いられ、右大臣という要職にまでつきました。

しかし、901年藤原氏をはじめとする勢力の陰謀により「大宰府(だざいふ)」(福岡県)に左遷され、この地で903年に亡くなりました。

「大宰府」には3年足らずの滞在でしたが、数多くの「道真公」伝説が残っています。

有名なのは、梅の木が「道真公」を慕って、一夜のうちに都から「大宰府」に飛来したと伝えられる「飛梅」伝説(とびうめでんせつ)です。

他にも、数多くの「菅原道真公」伝説が「大宰府」に残っています。

今回は、「大宰府」に残る「道真公」伝説を、数回にわたって紹介したいと思います。

〇「衣掛(きぬかけ)天満宮」・「衣掛(きぬかけ)石」・「姿見(すがたみ)井」・「苅萱(かるかや)の関」

「大宰府(だざいふ)」に左遷された「道真公」は、長い旅の末「大宰府」の入り口である「水城」に到着しました。いよいよ「大宰府」に入るというので、今まで着ていた旅の衣を脱いで新しい衣に着替えようとされました。その時、脱いだ衣を傍の「松と石」に掛けたと伝えられています。

その故事にちなんで、社を建てたのが「衣掛(きぬかけ)天満宮」と言われています。また、その石を「衣掛(きぬかけ)石」と呼んでいます。

衣服を改めた時に、近くの井に姿を写されたと伝えられています。その井が、「姿見(すがたみ)井」です。

この後、「苅萱(かるかや)の関」を通って「大宰府」に到着しました。

次回は、「大宰府」に到着した後、「道真公」が天に自らの無実を訴え登ったとされる山、「天拝山(てんぱいざん)」等を紹介したいと思います!

                             

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宰府の 「縁結びの神様・竈門神社(かまど神社)と神々が宿る・宝満山(ほうまんざん)」

2015年12月18日 18時08分07秒 | 歴史

福岡県太宰府市にある「竈門神社(かまど神社)」は、大宰府政庁の北東に位置する神社で、宝満山(ほうまんざん)の山麓にあり玉依姫命を祭神とし、 相殿に神功皇后・応神天皇を祀っています。
「大宰府」(7世紀後半に九州の筑前国に設置された地方行政機関)が現在地に遷された際、 鬼門(東北)に位置する「宝満山」に鬼門除けとして建立されたといわれています。 

今回は、縁結びの神様として有名な「竈門神社(かまど神社)」と、神々が宿る「宝満山(ほうまんざん)」を紹介したいと思います。

学問の神様で知られる「太宰府天満宮」は有名ですが、その北東に位置する「宝満山(ほうまんざん)」と、「竈門神社(かまど神社)」は意外に知られていません。

神社は、1350年の歴史をもち、古来より「縁結び」「方除け」として信仰されています。主祭神の玉依姫命は魂(玉)と「魂」を引き寄せる(依)、引き合わせるというご神徳から、男女の縁をはじめ、友人、家族、仕事など幅広いご縁も含め、縁結びの神様として、女性やカップルたちに人気のある神社です。

境内には、「再会の木」と呼ばれている木があります。 神功皇后は朝鮮出兵のおり宝満山に登りサイカチの木を植えて 「凱旋ののち再開しよう」と言われました。 この木に向かって、好きな人と再会できる事を祈れば願いがかなうと言い伝えられています。
また、「愛敬の岩」と呼ばれている岩があります。 目を閉じで歩き、無事向こう側の石にたどり着く事が出来れば 恋が叶うと言われています。

竈門神社(かまど神社)は、神々が宿る「宝満山(ほうまんざん)」のふもとに祀られた神社です。「竈門神社(かまど神社)は別称宝満宮とも言い、県内に広く存在する宝満信仰の中心であり、地元では「宝満さま」として親しまれています。 「宝満山」(標高829,6mの)は、中世の山岳信仰で英彦山と同じように「宝満山」も修験道の道場となっていました。平安時代には唐に留学する最澄や円仁が渡航の安全を祈り、空海(弘法大師)も宝満山に登り修行をされたようです。

特に、最澄が入唐の安全を祈って参籠(さんろう)して以来、仏教が栄え多くの学問僧や山伏・僧兵などもいて、九州の天台宗の中心として栄えたようです。その後、戦乱の世となり次第に勢力が衰え、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教的なものは徹底的に破壊され、山伏も山を追われました。今は、山中に僅かに残る遺跡が往時を物語っています。

現在「竈門神社(かまど神社)」は、「縁結びの神様」として女性やカップルたちに人気の神社で、この日も多くの方がお参りされていました。また、「宝満山」(標高829,6mの)は、地元の方がよく山登りをされています。

太宰府は、学問の神様で知られる「太宰府天満宮」が有名ですが、他にも、多くの素敵な場所がありますね!

                                   

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小春日和の 「大宰府」散策

2015年12月12日 20時18分44秒 | 散歩

久しぶりに「大宰府」に戻ってきました。初冬なのですが、まだあちらこちらに紅葉が残っていました。

「大宰府」は、飛鳥時代に作られた役所です。九州中を治め、外国からの使節の往来もあって、とてもにぎやかな都会で西の都「遠の朝廷(とおのみかど)」とよばれました。

今回は、のんびりと「歴史の道・大宰府」を散策しましたので、紹介したいと思います。

(行程)

大宰府政庁跡ー坂本八幡宮ー太宰府市民の森ー武藤氏の墓ー観世音寺ー戒壇院

飛鳥時代の風景が、九州の地にも残っており、何度歩いても気持ちがいいですね!

                               

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛城山麓にある 「神明神社古墳・二塚古墳」

2015年12月07日 19時56分20秒 | 歴史

奈良県葛城市には多くの古墳がありますが、今回は葛城山麓にある「神明神社古墳・二塚古墳」を紹介したいと思います。

この二つの古墳は、葛城市寺口にある特徴ある古墳です。今まで見たことのない古墳(石室)で、とても興味をそそられました!

〇「神明神社古墳」

奈良県社会教育センターの敷地内にある古墳で、花崗岩切石を使用した無袖式横穴式石室をもち、全長6.14m、高さ1.5m、入り口幅1.86m。南に開口する円墳(径20m)です。寺口丘陵の南斜面に築かれ南方に突出した3本の屋根を利用し中央部に墳丘と前庭部を築き東西の屋根は半円形に整形し東西120m、南北80mの広大な墓域を設けています。築造年代は、7世紀後半で鉄製環金具、銀製金具、水晶切子玉、鉄釘などが出土しています。

この古墳がすごいのは、石室内の奥壁から3mの地点と4.5mの地点の両壁に幅約8cmの溝が縦に彫りこまれており、元々は木製の中扉と前扉がはめこまれ玄室と羨道が区別がされていたものと推定されています。同タイプの古墳としては明日香村にある「天武・持統合葬陵」です。内部を見れない天皇陵の石室を、この古墳で見ることができます!

                     

〇「二塚古墳」

葛城山の山麓の標高約200メートルの場所に位置しており、東に大和盆地を一望することができる古墳です。丘陵の尾根の先端を分断して造られたようで。6世紀前半から中ごろとみられている前方後円墳です。墳丘は二段構築で全長は60メートル、後円部の直径は36メートルで高さは10メートル、前方部幅約41メートル、高さや10メートル、くびれ部西側に造り出し部があります。後方部の高さも10メートルを越えており、円墳を二つ繋げたようなずんぐりとした形となっていますが、これは後方部にも石室をつくるために盛土をしたようです。

この古墳がすごいのは、後円部の横穴式石室は古くから開口しており存在が知られていたようですが、1958年の発掘調査で後方部と西側の造り出し部分にも横穴式石室があることが判明しました。一つの古墳に、何と3つの石室があり、現在見ることができます!

              

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする