泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

日本最古の官道 「横大路」

2016年01月29日 15時12分18秒 | 歴史

大阪府と奈良県を東西に結ぶ「竹内街道」。「横大路」は、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に、「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された「大道」のルートと重なることから、日本最古の官道と呼ばれています。

今回は、日本最古の官道と呼ばれている「横大路」を紹介したいと思います。

「横大路」は、葛城市の長尾神社から桜井市の慈恩寺北交差点まで東西にほぼまっすぐに進む道です。元々は古代、難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備された大路でした。 江戸時代には伊勢参りの道として使われ、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれ賑わったそうです。

 西側では堺からの「竹内街道」と長尾神社で接続し、東側では慈恩寺北交差点で初瀬街道に接続して、堺、大阪方面から伊勢神宮へ至ることができます。長さは約14km程度です。

今回は、古代の幹線道路である「下つ道」と「横大路」が交差する所で、近世高札場があった八木町の「札の辻」から桜井の「小西橋」までの約7kmを、2回にわたって紹介したいと思います。

 近鉄大和八木駅前から「横大路」散策をスタートしました。駅前には、伊勢神宮参詣の道案内として設置された明和8年(1771年)に建立されたと考えられている「太神宮灯籠」を見ることができます。すぐ近くには、「横大路」の南の側溝跡を示す説明版がありました。

いよいよ、狭い街道に入ると「八木町」・「北八木町」という地名があります。「今井町」と同じく環濠集落だったといわれています。両側に古い家並が見られます。

最初に、「接待場(せんたいば)」跡を見ることができます。ここは、江戸時代に伊勢神宮にお参りする人々を無料で食事や湯茶の接待した場所とされています。現在は、説明版しかありません。

           

当時の姿を思い浮かべながら、街道を進むとすぐに「札ノ辻」に着きました。ここは、古代の幹線道路である「下つ道」と「横大路」が交差する所で、近世高札場があったことから「札ノ辻」と呼ばれていたようです。

「下つ道」を挟んで対称形に東西の平田家があります。元は両方とも旅籠屋で総二階建です。東の方は改装されて、「札の辻交流館」として開放されていて、屋内を見学することができます。ボランティアの方がおられ、とても詳しく説明していただきました。熱いほうじ茶の接待がとても嬉しく思いました。

                           

 

「下つ道」を少し北に進むと、芭蕉句碑を見ることができます。かつて、江戸時代に活躍した松尾芭蕉もこの地で宿泊したようです。芭蕉句碑の隣に河合源七郎宅を見ることができます。この家は、江戸時代の町屋で現在、登録文化財となっています。
その隣も河合家の邸宅で登録文化財となっています。こちらの方が源七郎家より規模が大きく、先に登録されているようです。旧高取銀札引替所だったそうです。このあたり河合姓の家が多いようです。河合家は「絞り問屋」を営んでいて、安政6年には北八木村の庄屋を務め、両替商も兼ねていたということです。
「下つ道」を南下し横大路を越えて街道の南側に移ると、幕末の儒者である「谷三山」の生家が今でも残っています。「三山」の卓越した学識を認めた頼山陽や吉田松陰など幕末の知識人とも親交があったといわれているようです。

        

近鉄大和八木駅前から道挟んで数分の所でしたが、見どころ満載の「札ノ辻」周辺でした!

次回は、八木町の「札ノ辻」から「横大道」の東の終点と言われている桜井市の「小西橋」までを、紹介したいと思います。   

 

 

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 「冬の飛鳥」 散策

2016年01月22日 18時00分12秒 | 散歩

奈良県明日香村においては、このところ穏やかな天気が続いていたのですが、1月19日には初雪が降りました。いよいよ本格的な冬到来の時期となりました。

冬の時期は、観光客も少なく閑散としています。寒さは厳しくなってきましたが、相変わらず毎日散策しています。

今回は、「冬の飛鳥」散策ということで、散策しながら新しい発見がありましたので紹介したいと思います。

 

飛鳥の中心である「飛鳥京跡」に隣接する「飛鳥京苑池」跡に、休憩施設とトイレの館が建築されていました。近いうちに「飛鳥京苑池」も復元される予定です。どの様な形で復元されるのかが楽しみです。できれば、発掘された状態での「飛鳥京苑池」を見てみたいものですね。

     

 

飛鳥寺の西側の田んぼに昨年末よりテントが張られていました。気になって見に行くと発掘作業用のためのテントでした。飛鳥時代によく出てくる「槻の木の広場」の発掘作業が行われていました。

毎年、飛鳥寺の西側を発掘しているのですが、今回はどの様な発見があるのでしょうか。これまた、楽しみです。

                

 

明日香村の阿部山という所には、国特別史跡である「キトラ古墳」があります。現在、この地域は「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」として整備されています。

「キトラ古墳」も整備されていました。公園完成を楽しみにしていますが、あまりにも綺麗に整備された「キトラ古墳」を見て「・・・!?」。

         

 

飛鳥を歩いていると、いつも新しい発見があります。寒いけれど冬の花を見ながらの散策は、とても気持ちがいいものですね!

        

    

 

 

 

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飛鳥栢森 「綱掛神事(女綱)」

2016年01月17日 16時58分10秒 | 歴史

奈良県明日香村の奥飛鳥と呼ばれている稲渕集落と栢森集落において、1月11日に「綱掛神事」が行われました。
「綱掛神事」は、稲渕と栢森両大字に伝わる神事で、稲渕では成人の日に、栢森(かやのもり)では毎年正月十一日に、勧請綱を新しく取りかえる神事です。

今年は何と、同一日になり一度に2ヶ所において「綱掛神事」が行われました。幸運にも、2つの「綱掛神事」を見ることが出来ました。

前回の稲渕の「綱掛神事(男綱)」に引き続き、今回は栢森の「綱掛神事(女綱)」を紹介したいと思います。

飛鳥川の上流、稲渕(いなぶち)と栢森(かやのもり)の両大字の入り口にあたる飛鳥川には、男綱(稲渕)、女綱(栢森)と称される綱が掛けられています。

栢森の「綱掛神事(女綱)」は、午前中から集落の男性によって綱が編まれ始め、午後3時ごろに神事が行われる予定でしたが、幸運にも少し作業が遅れたせいか午後4時位から神事が行われ、「綱掛神事(女綱)」を見ることが出来ました。

「女綱」は直径約10cm。長さは約40m。女性になぞらえたシンボル部分を含めると重さは数10kgです。綱の編み方は注連縄とは異なり、ワラが飛び出したような編み方をします。

栢森の「綱掛神事(女綱)」の特色は、仏式のお祀りです。栢森の竜福寺住職を先頭に隊列をなして、縄やお供えを持って綱掛けをする「福石」まで移動し、住職の読経の後、綱が飛鳥川の両岸に掛けられます。「子孫繁栄、五穀豊穣」を祈るとともに、貴重な飛鳥川の水を清めるために綱を掛けると言い伝えられています。

今年は、幸運にも、2つの「綱掛神事」を見ることができ、何かとても幸福な時間を過ごすことができました!

                         

 

 

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飛鳥稲渕の 「綱掛神事(男綱)」

2016年01月12日 15時50分54秒 | 歴史

久しぶりに飛鳥に戻ってきました。穏やかな天候のもと、奈良県明日香村稲渕集落と栢森集落において、1月11日に「綱掛神事」が行われました。早速、見学・参加してきました。
「綱掛神事」は、稲渕と栢森両大字に伝わる神事で、稲渕では成人の日に、栢森(かやのもり)では毎年正月十一日に、勧請綱を新しく取りかえる神事です。

今年は何と、同一日になり一度に2ヶ所において「綱掛神事」が行われました。

今回は、奥飛鳥に残る「綱掛神事」を2回に分けて紹介したいと思います。最初は、稲渕の「綱掛神事(男綱)」です。

「綱掛神事」は、集落の下手の飛鳥川の上に綱を張ります。「子孫繁栄と五穀豊穣」を祈ると共に、悪疫などがこの道と川を通って侵入するものを押しとめ、住民を守護するための神事といわれています。

稲渕の「綱掛神事」は、勧請(かんじょ)橋の近く飛鳥川に架けられた勧請縄で、中央に稲藁で作った男性のシンボルが吊り下げられているので、「男綱」と呼ばれています。
「男綱」は長さ約85m、重さ300kg。住民約20人位で午前中に橋の麓でわらを編んで作られます。午後より、長さ約85mの綱の中央に高さ1.5m、直径30cmほどのシンボルが取りつけられ、見学された方も一緒になって綱を運び、飛鳥川の上につるされます。

稲淵の「男綱」の特徴は、全体を神式で行うことです。飛鳥川の上に腸物を形どった「男綱」を掛け渡し、神所橋と呼ばれる橋に祭壇を設け、飛鳥の神職さんが御祓いを行います。

御祓いが終わった後、「子孫繁栄と五穀豊穣」のお札がついているミカンのついた竹串を、参加者が大切に持ち帰り家に飾られます。小さな女の子が大切に持ち帰る姿が、とても可愛らしかったです。

昨年は、遠くからの見学だけでしたが、今回は綱にサカキをつけたり、皆さんと一緒に綱を運んだりしました。参加型の稲渕の「綱掛神事」、とても貴重な体験をさせていただきました!

次回は、栢森(かやのもり)集落の「綱掛神事(女綱)」を紹介したいと思います。

                            

 

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神話に彩られた 「神の国・出雲」

2016年01月02日 16時26分12秒 | 歴史

 「新年あけましておめでとうございます!」

「泉飛鳥塾」のブログをはじめて4年目になりました。今年も、「飛鳥」の原風景と共に、「大和や大宰府」等の風景を紹介したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

2016年の最初は、日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた「神の国・出雲」を紹介したいと思います。

「神の国・出雲」は、朝鮮半島などから土地を引き寄せて島根半島が出来上がったという「国引き神話」。オオクニヌシノミコトによる「国造り」に続く天照大御神(あまてらすおおみかみ)への「国譲り」。日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた「神の国・出雲」。大和の中心にある三輪山になぜ「出雲の神様」が祭られているのでしょうか。今回は、謎多き、出雲地方を歴史散策しましたので、紹介したいと思います。

〇「出雲大社」(島根県出雲市)

縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています。

                        

〇「荒神谷遺跡」(島根県出雲市)

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われました。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始されました。1984年からの2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。銅剣は、銅鐸・銅矛は国の重要文化財に指定されていましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。出雲市が中心となり、1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備されました。現在、出土品は出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されていて見ることができます。 

            

〇「四隅突出型墳丘墓(西谷墳墓群)」(島根県出雲市)

島根県・出雲地方を代表する古代遺跡としてあげられるのが、弥生時代の墳墓「四隅突出型墳丘墓」です。その独特の形状には数多くの謎があり、その解明は古代出雲世界の姿を知るのに必要不可欠であると考えられています。方形の墳墓の四隅から舌状の張り出しが伸び、ヒトデのようにも見える奇妙な墓で、今から1800~1900年前の弥生時代後期に隆盛しました。古墳時代になると、四隅突出型墳丘墓はなぜか築かれなくなります。代わって登場するのが、前方後円墳。その変化は、古墳時代に入り、古代出雲が勢力を伸長させてきた畿内のヤマト政権との結びつきを強めていったことを指し示しているかも知れませんね。

            

 「荒神谷遺跡」の青銅器が埋められたのは弥生時代後期初めごろで、「四隅突出墳」の出現とほぼ重なります。これは、「四隅突出墳に埋葬される強大な統治者が出現したため、これまでの銅剣や銅鐸をあがめる祭祀が終焉(しゅうえん)し、一括して埋められたのでは」と推測する方もおられるようです。

日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた「神の国・出雲」。とても興味をそそられた歴史散策でした!

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