国営飛鳥歴史公園のボランティア活動で普段活動されている歴史が大好きな皆さんと一緒に、9月の中旬頃に京都の史跡等を巡ってきました。
今回は、京都「長岡京・恵解山古墳・勝龍寺城跡」を紹介したいと思います。
いつもは、飛鳥の案内等を行っている国営飛鳥歴史公園の「歴史サークル」の皆さんですが、今回は、研修の一環として京都の方まで約50人位で貸し切りバスを借りて研修に行ってきました。
〇京都府向日(むこう)市・ 長岡京市付近に置かれた古代の都である「長岡京」は、今から1200余年前の延暦(えんりゃく)3年(784)11月11日、桓武(かんむ)天皇の命によって奈良の平城京から遷(うつ)された都です。
日本史にその名を長くとどめることはありませんでしたが、研究が進むにつれ、諸制度の改革や蝦夷(えぞ)の統治など国家の建て直しをはかり、平安京の基礎をつくった貴重な時代であったことが明らかになってきました。
この都は、東西4.3km、南北5.3kmと平城京、平安京に匹敵する広大なもので、向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部の地域に及んでいます。
政治の中心である「長岡宮(ながおかきゅう)」は向日市、経済の中心である市(いち)は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎町大山崎・京都市伏見区淀にあり、諸国から多くの人々が往来する日本の政治・経済・文化の中心地となりました。
しかしながら、792年の大洪水や桓武天皇の弟である早良(さわら)親王の死、その怨霊(おんりょう)などから、794年10月22日に平安京へ都が遷されました。
主な建物は壊され新しい都へと移され、徐々に田園地域へと姿を変え、10年間の都の歴史は地中で長い眠りにつき、やがて「幻の都」と呼ばれるようになりました。
住宅地の中に「長岡宮(ながおかきゅう)」跡があり、一部は公園として遺跡が保存してありました。
〇京都府長岡京市勝竜寺にある「恵解山古墳」は、古墳時代中期(今から約1600年前)に造られた前方後円墳です。古墳の大きさは全長128m、後円部の直径約78.6m、前方部の幅約78.6mで、乙訓地域最大の規模を有しています。古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及びます。
築かれた当時は斜面全体に石が葺(ふ)かれ、平らなところには埴輪(はにわ)が立て並べられていました。古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが、古墳の大きさなどから少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
「恵解山古墳」は、昭和55年、墓地拡張工事の際に前方部の中央付近からで鉄器が出土し、長岡京市教育委員会が緊急調査を行いました。調査の結果、鉄製の武器(大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点余り、ヤス状鉄製品5点)など総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見されました。古墳からこのように多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しく貴重であることから、恵解山古墳は昭和56年10月国史跡に指定され、鉄製武器などの出土品は平成11年に府指定文化財に指定されました。
「恵解山古墳」公園として整備されており、見応えがある古墳でした。
〇京都府長岡京市勝竜寺にある「勝龍寺城 (しょうりゅうじ じょう) 」は、室町期から戦国期にかけて使われた城郭で、元々は守護大名の郡代役所だった建物が時代に応じて要塞化した例とされています。有名なエピソードとして、細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所で、明智軍vs秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却した場所などがあります。戦国期までは三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝(後の幽斎)の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改めました。江戸時代初期に廃城となります。主郭跡地は公園となり、模擬櫓や模擬城門などのお城風建築物が並びます。
「勝龍寺城」は1339年、足利尊氏の命により細川頼春によって築城されました。 1578年明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が、細川忠興に嫁ぎ、2年間、この城で幸福な新婚時代を過ごしました。本能寺の変の後、山崎の合戦では光秀がこの城に本陣を構えました。 勝竜寺城公園は1992年、勝龍寺城跡に造られた都市公園で、「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。
今回、案内していただいた方は、実際に「長岡京」等の発掘調査に携わった方で、大変勉強になり充実した研修会でした!