泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代の「百済の地を訪ねて(扶蘇山城・皐蘭寺・宮南池)」(1)

2019年12月06日 09時32分22秒 | 歴史

「古代飛鳥」の歴史を語るには、百済の国の地(歴史)を知らないといけないと思い、百済最後の都が置かれた「扶余(プヨ)」に行ってきました。

今回は、古代の「百済の地を訪ねて(扶蘇山城・皐蘭寺・宮南池)」(1)の様子を、数回に分けて紹介したいと思います。

11月中旬に、古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」の4日間、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。関西を中心に、約20名位の方々と関西空港から仁川空港まで飛行機(約1時間30分)で行き、バスで約3時間かけて百済最後の都が置かれた「扶余」の町に到着しました。今回は、「白村江の戦い」を中心にした歴史散策となりました。

(行程)

関西空港ー仁川空港ー扶余(プヨ)ー公州(コンジュ)ー益山(イクサン)ー端山(ソサン)ー仁川空港ー関西空港

朝鮮半島では655年に、高句麗(こうくり)と百済(ひゃくさい、くだら)が連合して新羅(しんら、しらぎ)に侵攻し、新羅は中国の唐に救援を求めます。唐の高宗は、660年にまず百済に出兵してその都扶余を落とし、義慈王は降伏して百済は滅亡しましたが、各地に残る百済の遺臣たちは百済復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を要請してきました。

 当時の「斉明天皇」と息子の「中大兄皇子(のちの天智天皇)」は、大軍派遣を決定します。661年に、「斉明天皇」は「中大兄皇子」とともに筑紫(現福岡県)に出征し、同地で「斉明天皇」が死去した後は天皇の座に就かないまま戦争を指導します。662年に軍を渡海させますが、663年に朝鮮半島西岸の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗しました。これが、「白村江の戦い」です。

白村江で唐・新羅連合軍は倭国水軍と4度戦い、倭国の船400隻を焼き払ったといいます。その煙と炎は天を覆い、海が赤く染まったといわれ多くの兵が溺死しました。数万の軍はほぼ全滅だったとみられています。

〇「扶余(プヨ)」は、「百済」最後の王都「泗沘(サビ)」として、26代聖王から31代義慈王の時代まで、123年間(358~660年)栄えた古都です。都からほど近い場所に築いたのが、世界遺産「扶蘇山城」です。「扶蘇山城」は、百済の都が「扶余」に移転した際に、敵に責められた際に逃げ込む城として、標高106mという小高い丘状の場所に建てられました。現在も、土塁等が残っています。

豊かな自然の山である「扶蘇山」は、普段は百済の後苑の役割を果たしていましたが、戦時には様相が一変し、百済最後の砦となりました。百済滅亡の悲劇といわれる「落花石」等に行ってきました。。
この時の百済王(豊璋)は、逃亡してしまいます。百済が陥落し永遠に滅亡しました。その後、
668年には、唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしました。その後、唐と新羅が対立し、676年には新羅によって朝鮮半島が統一されます。

「扶蘇山城」の麓にある「官北里(クアポクリ)遺跡地」は、かつての王城・泗沘城(サビソン)があったとされる遺跡です。発掘調査で、大型殿閣建物跡や上水道施設跡、貯蔵施設跡、蓮池、道路跡、百済の土器や瓦などが数多く出土しています。泗沘城の正確な位置はいまだ明らかになっていないものの、一部の遺跡の発見は学術的に重要な意味を持つとして、ユネスコ世界文化遺産(百済歴史遺跡地区、2015年)にも登録されています。扶蘇山麓に位置し「扶蘇山城(プソサンソン)」の正門(扶蘇山門)横や裏門(旧門)から直結しています。丁度紅葉がとても綺麗で、約4キロのウオーキングでした。

上りつめた所にある「百花亭」は、白馬江を見下ろす「落花石」という断崖絶壁の上に築かれた東屋です。唐の国と共に百済を攻めた新羅が、城に近づいてきた時、敵軍から純潔を守ろうとした女官たち3000名が、崖から身を投げたといわれている場所です。女官たちの次々に飛び込む姿が、まるで花がヒラヒラと舞い落ちるようだったことから「落花石」と名付けられました。この場所に立つと、なんだか胸が締め付けられる思いでした!

                   

〇「皐蘭寺(コランサ)」は、「落花石」から身を投げた女官たちの霊を鎮めるために高麗時代初期に創建されました。寺の後ろの壁には、女性たちが身を投げる様子が描かれています。皐蘭寺から、また石段を降りると「白馬江遊覧船」の船着き場に到着します。船からは、「百花亭」の下にある「落花石」が見え、かなりの高さであることがわかります。船は、昔の軍船を模した黄布帆壱船。ゆったりとした流れの大きな川を黄布帆壱船が行き交う様は、古代に戻ったようでした!

     

〇「宮南池(クンナムチ)」は、扶余市街の南側にある人口池です。百済時代の別宮の池で、武王(ムワン)の時代に王宮の庭園として完成しました。韓国で初めて作られた人工池で、もともと中央にあった島の上に東屋を建てたのは最近のことだとか。その東屋と陸地は橋でつながっていて、観光客やご近所の方々は自由に往来できるようになっています。丁度、夕方に行ったので夕焼けがとても綺麗でした!

「扶蘇山城」の麓にある「官北里(クアポクリ)遺跡地」を歴史散策してみると、福岡県太宰府市にある「大野城・大宰府政庁」とあまりにもそっくりなのに大変驚きました。「大野城」は、飛鳥時代に築城された朝鮮式山城です。663年に日本と百済(くだら)の連合軍が、唐と新羅(しらぎ)に敗れると(白村江の戦い)、百済の難民の多くが日本へ亡命してきました。朝鮮式山城とは、このときに百済人によってもたらされた新しい城郭形式です。「大宰府政庁跡」にたってみると、「扶蘇山」は「大野山」・「扶蘇山城」は「大野城」・「官北里(クアポクリ)遺跡地」は「大宰府政庁跡」・「白馬江」・「御笠川」と、あまりにもそっくりに風水思想によって造られた都市であることに驚きを感じえませんでした!

1350年程前に、日本へ亡命してきた百済の人達は、どんなおもいで大野城」等の築造に関わったのでしょうか・・・     ※最後の写真は、「大野城と大宰府政庁跡」の写真です。

次回は、古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)の様子を、紹介したいと思います。

       

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