泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

持統天皇の「吉野行幸への道・芋峠」

2019年05月12日 21時48分02秒 | 歴史

日本書紀」によると、「持統天皇」は「斉明天皇」が造営されたとある「吉野宮」に31回 も行幸をされたようです。その道は、飛鳥と吉野を結ぶ古道にある「芋峠」だと言われています。

「大海人皇子(のちの天武天皇)」が壬申の乱の直前、鸕野讃良皇女らと共に近江から飛鳥嶋宮を経て吉野入りした際もこの道を通ったと思われます。

「持統女帝」は、夫である「天武天皇」が亡くなってからも、夫との思い出の吉野へこの峠を越えて31回も訪れました。

今回は、「持統天皇」の「吉野行幸への道・芋峠」と思われる古道を紹介したいと思います。

 その行幸は、明日香から芋峠を越えて吉野川に出て宮滝にあったとされる「吉野宮」に向かわれたものです。1日で行ける行程とは言え、「吉野古道」の山道を通り芋峠を越えて、行幸されたと思われます。「吉野宮」は、亡き夫の「天武天皇」との思い出の地ではありましたが、なぜこれほどまでに「吉野行幸」を繰り返されたのでしょうか・・・

今回は奥明日香・栢森から「持統天皇」が通ったとされる「吉野古道」を部分的に歩き、ほんの少しですが「吉野行幸」を体感してきました。

明日香村から吉野町の宮滝まで約18キロ程ありますので、今回は車で栢森まで行き、ここから徒歩で古道の入口から小峠を通り行者まで。次の日、行者から三軒茶屋跡を通り芋峠まで歩きました。今回、2回に分けて歩きました。その後、車で芋峠から吉野町千股に下りて、宮滝にあったとされる「吉野宮」まで行きました。

(ルート)

明日香村から稲渕地区ー栢森地区ー古道入口ー小峠ー行者ー三軒茶屋跡ー芋峠ー吉野町千股(車で移動)-宮滝にあったとされる「吉野宮」へ 

今から約1300年程前に「大海人皇子」は、近江大津宮から飛鳥「島の宮」(明日香村島庄)を経て吉野に身を隠します。このときの「吉野への道」は、最短距離でもある『芋峠越え』が有力視されています。

やがて兵を挙げて「壬申の乱」に勝利し、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で「天武天皇」として即位しますが、686年に没後、皇后であった鵜野讚良(うののさらら)が「持統天皇」となります。在位中、吉野離宮に行幸した際も、飛鳥川に沿って稲渕,栢森を経て芋峠を越えたのではないかと考えられており、「吉野への道」は飛鳥時代の「歴史の道」ともいえる道です。

ところで、芋峠(標高556m)の語源は、芋を背負って峠を越えた という伝承や、疱瘡(ほうそう・いも)の疫病神を払 うという説のほか、吉野の「妹山」が見おろせる峠の説などがあります。芋峠を下ると現在の吉野町千股に入り、「持統天皇」は宮滝にあった「吉野宮」に向かったと思われます。

 

今回、「持統天皇」が通ったとされる「吉野古道」を部分的に歩きました。思った以上に古道は整備されており、ポイントの所は表示板等が設置されていました。

今から約1300年程前に「大海人皇子」や「持統天皇」が通った道。どのような景色を見、またどのような想いをはせながら通ったのかと想像しながらの「吉野古道」の歴史散策は、ロマンあふれる散策となりました!

                                                                                                        

   

 

 

 

 

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