泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥時代の学問僧「南淵請安の墓は何処に?」

2020年08月29日 20時21分21秒 | 歴史

「南淵 請安(みなぶち の しょうあん」は飛鳥時代の学問僧で、現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕に住んだ「南淵漢人(みなみぶち のあやひと)」と称される漢系渡来氏族出身の知識人です。奈良県明日香村稲渕の集落の小高い丘に「南渕請安の墓」があります。

今回は、飛鳥時代の学問僧「南淵請安の墓は何処に?」を紹介したいと思います。

「南淵請安」は、608年に小野妹子に従って隋に渡り、 640年帰国しその後大兄皇子・中臣鎌足らに儒学を講じ、「大化の改新」に大きな影響を与えたといわれています。中大兄皇子と中臣鎌子は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられます。「請安先生」が伝えた知識が「大化の改新」に与えた影響は大きいのですが、彼自身は新政府に加わっておらず、これ以前に死去したものと思われます。没年は不明ですが、飛鳥川の上流南淵に居住したと伝えられています。

〇稲渕の集落を歩くと龍福寺の先の少し小高い丘に「南渕請安の墓」があります。小さな祠は、藤原鎌足を祭神とする談山神社で、お墓はその反対側の南を正面としています。南面には、「南淵先生之墓」と書かれた石碑が建てられています。この墓は、別名「明神塚・セイサン塚」と呼ばれ、元は別の場所にあったようです。1736年の「大和志」に「明神塚」の記録があり、この地が墓とされるようになったようです。元々「請安先生の墓」は、朝風にあって「セイサン塚」と呼ばれていたようです。伝承では、朝風付近は「朝風千軒」とよばれる集落があったとされ、そこが「南渕請安」の故地とあったと考えられています。

ところで、「南渕請安の墓」がある場所は、春には桜がとても綺麗な所で隠れた桜の名所ですよ!

                    

    はたして、元々あった「南渕請安の墓」は一体何処にあったのでしょうか・・・

〇元々の墓は、「朝風」の地にあったとされ「セイサン塚」と呼ばれていたようです。

奥飛鳥と呼ばれている稲渕は、棚田百選にも選ばれていてよく散策しているのですが、ふと「南渕請安の墓」はどこにあったのだろうか思い、久しぶりに「ブライズミ」をしてみました。

古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」とは違って、何の根拠もありませんが、「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」を久しぶりにしてみました。(以前、ブライズミ「飛鳥京への道」・「古代の畔」探訪ということで紹介させていただきました。)

何かヒントらしきものをと思い、以前教わった「奈良県遺跡地図」をみていると、稲渕の棚田にある「塚本古墳」の近くに、一つの「謎の古墳」があることがわかりました。(「塚本古墳」は、墳丘は方墳で1辺39m、高さ3m以上ですが原形を殆ど失っています。2段築成で7世紀前半築造されたと思われます。稲渕の棚田の中にある巨石古墳ですが、わずかに奥壁と東側石がその名残りを残しています。訪れる方は、歴史好きな方以外はほとんどおられません。残念ながら、説明板もありません。)

「南淵請安先生の墓」は、もと「朝風」にあって「セイサン塚」と呼ばれていたようで現在、その地には「セイサン」と呼ばれる小字があり「ショウアン」との類似が注目されています。その場所に、「謎の古墳」があったのです。

何の根拠もないのですが、謎の古墳のある場所が大変立地条件(丘陵の先端にあり、「塚本古墳」から約100mの北西の高台の位置にあります。また、稲渕を一望できる場所です。)が良い所にあります。また、この古墳がある場所の字名が、なんと「明日香村稲渕字セイサン塚」なのです。

近くまで行って、確かめたのですが古墳らしき形はあったのですが、形態等は不明でした。

32年間も間中国(隋・唐)において、色々な事を学んで故郷に戻ってきた飛鳥時代の学問僧「南淵請安先生」は、一体何処に眠っておられるのでしょね・・・

この場所からは、故郷の南淵(稲渕)が一望でき、ここに安らかに眠っておられたらいいなと思われる素敵な場所でした・・・

何の根拠もない久しぶりの「ブライズミ」、約1400年程前の事を想像しながらの散策でした!

             

 

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