伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/03/10

2018-03-10 19:45:12 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 50:2-3
「わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。見よ、わたしが、しかると海はかれ、川は荒野となり、その中の魚は水がないために、かわき死んで悪臭を放つ。 わたしは黒い衣を天に着せ、荒布をもってそのおおいとする」。

私たちは時折、神様が本当にいるならどうしてこんなひどいことが起こるのか?という疑問が心にわき上がるときがあります。しかしそれは私たちの側の思い違いで、神様は必ず前もって私たちに警告を発しておられるのに、私たちが気が付かなかったり、あるいは神様の救いなんて必要ない、当てにならないと、無視し続けているのです。神様にさんざん背を向けておきながら、いざ苦しみに遭うと神様に責任をなすりつける、これが罪深い人間のなせる業です。今一度、自らの姿勢を振り返り、神様に対する態度を改めて主の細き御声に聞く耳を持つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.50.2-3.ja1955

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イザヤ書 50:4-6
「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。 わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。」

この箇所に記された「わたし」とは、私たち人間のことではなく、人々を罪から救うメシヤとしてこの世に来られたイエス様の御姿です。イエス様はその公生涯において、いつも御言葉をもって私たちを助け、神様の教えを解き明かされて、「聞く耳のある者は聞くがよい」と語られました。また苦難の僕として、神様の定められた十字架の使命に背くことなく、一歩も引かずにその重荷を一身に背負われ、唾を掛けられても顔を隠さず、その恥を厭いませんでした。このキリストの受難の故に私たちは罪赦され、神の所有として購われた事実に心からの感謝を捧げ、主の十字架を自分のためのものとして受け入れる私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.50.4-6.ja1955

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イザヤ書 50:10-11
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。 見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め。あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる。」

主なる神様を畏れ、苦難の僕として来られたイエス様の御声に聞き従い、罪に沈めるお暗きこの世の人生を歩む中で自ら脚光を浴びることなくとも、なお主の御名を頼みの綱とし、まことの神に寄り頼む者は誰かと、主は私たちに問いかけられます。

対照的に、自ら火を燃やす者が出てきます。これは自分の頑張りや努力で生き抜こうとする私たちの姿です。しかしどれほど一生懸命に努力しても、不完全な人間の為す業には必ずほころびが出ます。人類最高の英知と科学技術の結晶、夢のエネルギーであった原子力発電がどれほどの被害をもたらしたでしょうか。自分の起こした火の不始末は、自ら責任を取らなければなりません。

そして原子力発電所の事故よりも更に重い課題があります。人は必ず死ぬという事実です。誰一人としてこの課題を解決できた人はいません。この課題に対する唯一の解決手段こそ、神様の救いの御手に寄り頼む信仰です。ですから私たちは神様の側から伸ばされた救いの御手に、素直にすがりつこうではありませんか。

http://bible.com/81/isa.50.10-11.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/10

2018-03-10 08:25:11 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 12:2
「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

妥協は本来の目的を見失わせる惑わしです。私たちの生きる目的は善を実践することを通して神の栄光を世に表し、主に喜ばれる全き人生を送ることです。この世と妥協することなく、日々心新たに、御心に適う生き様を世に証する私たちでありますように。

http://bible.com/81/rom.12.2.ja1955
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