出エジプト記 21:1-2
「これはあなたが彼らの前に示すべきおきてである。 あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。」
神様はモーセに十戒を授けられた後、その意味するところが誰にでもわかるように、具体的な事例を示して基準を定められました。第一の定めが奴隷に関するものです。現代社会では奴隷制度はほとんどありませんが、今でも私たちは罪の奴隷となっていることを忘れてはなりません。いずれにせよ、奴隷は一生涯奴隷のままとして搾取してはならないというのが第一の定めです。この背景には、奴隷の身分から解放されたばかりのイスラエル人たちに卑屈な心を捨てさせ、自立心と魂の尊厳を身につけさせようとされたのではないかと思います。
私たちも時折、自分はどうせダメな人間なのだと卑屈になることがあります。しかし神様は私たち一人一人のことを高価で尊いと仰せられました。私たちは愛される存在、価値ある存在なのだと気付くとき、心に希望が生まれ、喜びで満たされます。自分を大切に思う心を決して忘れず、前向きに生きる私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.21.1-2.ja1955
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出エジプト記 21:12-14
「人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。 しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。」
次の定めは命に関わることです。創世記でカインとアベルの事件に見られる殺人は、人類最初の、そして最大の罪です。それは神様から授かった尊い命を軽んじることです。神様はこの最も愚かな罪を犯さないように、人の命を奪った者は自分の命をもって償わなければならないと定められました。
また神様は、故意ではない過失の殺人に対しては逃れの町を備えてその人の命を守られ、同時に殺意をもった殺人に対しては神様を礼拝している途中でも裁くように定められました。和解は犠牲に勝るとの精神の現れであり、人の命は神様を礼拝することに勝って大切なことと教えられました。
私たちもまた、命を大切にしなければなりません。最近、殺人や自殺、戦争、暴力的な映画やゲームなど、目に余る罪が世の中に氾濫し、簡単に「殺す」という言葉を口にするほど、私たちの心は麻痺しているかもしれません。私たちは神様の愛をいただいた者として、人を愛し、命を大切にする者でありたいと心から願います。
http://bible.com/81/exo.21.12-14.ja1955
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出エジプト記 21:23-25
「しかし、ほかの害がある時は、命には命、 目には目、歯には歯、手には手、足には足、 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」
しばしば「目には目を、歯には歯を」という言葉は復讐を正当化するために利用されていますが、聖書に記された本来の意味は償いの基準です。人に損害を与えたら等価の償いをもって許しを得ることが、この言葉の最も大切な意義です。
時折、私は赦されたのだからもう罪はないといって償いを疎かにするクリスチャンがいますが、決してそのようなことはありません。そのような甘ったれた心では、本当に悔い改めて神様の赦しを得られたのかさえも疑問です。このことを肝に銘じて、徹底した悔い改めの心を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.21.23-25.ja1955