伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2016/05/30

2016-05-30 08:04:25 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 40:1-5
『主はモーセに言われた。 「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。 そして、その中にあかしの箱を置き、垂幕で、箱を隔て隠し、 また、机を携え入れ、それに並べるものを並べ、燭台を携え入れて、そのともしびをともさなければならない。 あなたはまた金の香の祭壇を、あかしの箱の前にすえ、とばりを幕屋の入口にかけなければならない。」』

一年の計は元旦にありといいます。年の始まりにあたり、何を一番とするかが問われます。エジプトを脱出してちょうど一年目の元日に、神様はモーセに幕屋を建てることを命じられました。ここに神様を第一とする信仰生活の基本的姿勢があります。

私たちもまた何をスタートラインとするかが問われます。一年の始まりのみならず、物事の始まりにあたり、神様を礼拝し仕えることから始めることは何よりも大切で、私たちの祝福の基となります。

http://bible.com/81/exo.40.1-5.ja1955

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出エジプト記 40:9-10
「そして注ぎ油をとって、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、それとそのもろもろの器とを聖別しなければならない、こうして、それは聖となるであろう。 あなたはまた燔祭の祭壇と、そのすべての器に油を注いで、その祭壇を聖別しなければならない。こうして祭壇は、いと聖なるものとなるであろう。」

幕屋建設は、支柱を立て、幕で仕切って聖具を運び入れたら、それで終わりではありません。最も大切なことは、聖なる油を注いで幕屋を聖別することです。この注ぎ油は聖霊を表します。聖霊に満たされてはじめて神の幕屋はきよめられ、罪の世と隔絶されて、いと聖なる神様の御臨在なさる場所となります。

とかく日本人は形から入ることを好み、外見だけ整えて満足しがちですが、こと神様を礼拝することに関しては、聖霊様の注ぎによるきよめなしには絶対にあり得ません。それは教会のみならず、神の宮とされた私たちの心も同じです。見かけ倒しの教会、形ばかりのクリスチャンとなることなく、聖霊様によって満たされ、きよめられることを何よりも大切にする私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.40.9-10.ja1955

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出エジプト記 40:11-15
「また洗盤と、その台とに油を注いで、これを聖別し、 アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い、 アロンに聖なる服を着せ、これに油を注いで聖別し、祭司の務をさせなければならない。 また彼の子たちを連れてきて、これに服を着せ、 その父に油を注いだように、彼らにも油を注いで、祭司の務をさせなければならない。彼らが油そそがれることは、代々ながく祭司職のためになすべきことである」。

油注ぎによるきよめが必要とされたのは幕屋だけではなく、神の幕屋に仕える祭司たちもまた、きよい者とならなければなりません。そのためにはまず祭司たちが体を洗う洗盤をきよめ、次いで祭司たちが水で自らの体の汚れを洗い落とし、祭司の服を着た後に油注がれてきよめられ、祭司の職に任ぜられました。

神様の御前に立つ者は、一点の汚れもないように徹底的にきよめられる必要がありました。神の僕として仕える者とされた私たちもまた、徹底的なきよめが必要です。まず自分の置かれた環境から不品行や悪習慣などを断ち切り、悔い改めて身についた罪を洗いきよめ、その上で聖霊様の満たしを求めて徹底的にきよめていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.40.11-15.ja1955

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出エジプト記 40:16-17, 20-21
「モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。 第二年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った。

彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、 箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。」

モーセは神様から命じられた通りに出エジプトの翌年の元日に神の幕屋を建て上げ、神様から授けられた契約の証である十戒の石の板を神の箱に収め、罪を購う贖罪所で封印して、幕屋の奥の至聖所に人の目に触れないように隠しました。これはいと聖なる神様に、罪深い人間が触れてはならないことを意味し、モーセもまたこれ以降、神の箱に直接手を触れることはありませんでした。

神のきよさは、罪深い私たち人間の目では直視できないほどきよく、栄光に包まれたものですから、私たちは神様の聖を決して冒してはなりません。いと聖なる神様を畏れ、神様の領域にみだりに手を触れることなく、最大級の畏敬の念をもって神様に仕える私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.40.16-17,20-21.ja1955

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出エジプト記 40:33-35
「また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」

神の幕屋が建てられたとき、主の栄光が雲となって幕屋の内に満ち、神様と直接語り合ったモーセですら会見の幕屋に入ることができませんでした。それほどまでに神様の御臨在は人間の入る余地のない、いと聖なるものです。

「栄光の雲が宮に満ちて」という讃美がありますが、神様の御臨在はしばしば光り輝く雲として現されます。私たちの教会にも、私たちの心にも、罪にまみれた私たち自身が入る余地のないほどに主の栄光の雲が満ちて、徹底的にきよめていただきたいと願います。

http://bible.com/81/exo.40.33-35.ja1955

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出エジプト記 40:36-38
「雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。 しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。 すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。」

主の栄光の雲が幕屋に留まっていることは、神様がイスラエルと共にいてくださる証となりました。そして雲が幕屋から立ち上るとき、イスラエルは神様と共に歩み始めました。そして神様の御臨在の雲は、昼は幕屋の上にあってイスラエルの民たちを強い日差しから守る陰を作り、夜は外敵から守る火となりました。

これは私たちの人生の歩み方を教える教訓です。自分の都合に合わせて思い通りの人生を歩むのではなく、神様がこの道に歩めと命じられる通りに歩み、神様が留まれと言われるときには忍耐をもって留まるとき、神様は昼も夜も私たちから離れることなく、その歩みを守ってくださいます。今日も神様の御臨在に感謝して、主の備えられた道を真っ直ぐに歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.40.36-38.ja1955
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【今日の聖句】 2016/05/30

2016-05-30 05:30:32 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 3:18
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」

罪の根本原因は私たちと神様との関係に亀裂が生じている状態にありますから、御子イエス様の御名を信じる者は罪に定められることなく、信じない者は罪人として裁かれます。信じない者にならないで信じる者となり、神様との関係を修復して、永遠の裁きから救いへと移される私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.3.18.ja1955
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