創世記 48:10-11
『イスラエルの目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、ヨセフが彼らを父の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。 そしてイスラエルはヨセフに言った、「あなたの顔が見られようとは思わなかったのに、神はあなたの子らをもわたしに見させてくださった」。』
ヤコブは死ぬ間際にヨセフと息子たちを祝福します。死んだと思っていたヨセフに会えただけでなく、孫の顔までも見ることのできる幸いに与りました。そしてヨセフに生まれた孫を自分の子どもとして受け入れ、二倍の祝福をもって祈ります。
神様の祝福はこのように、失ったと思うところから始まることがあります。神様の前に手放すとき、神様が元通りに戻すだけでなく、二倍の祝福をもって返してくださるのです。私たちの手にあるものを必死に守ろうと我を張るのではなく、主は与え、主は取られる、という信仰に立って手放すときに、神様の御心であるならば二倍になって戻ってくるという、聖書の原則を忘れてはなりません。
http://bible.com/81/gen.48.10-11.ja1955
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創世記 48:13-14
「ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。 すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。」
ヨセフは自分の考え、また世の慣わしに従って、長男のマナセを嫡子として祝福してもらおうとしましたが、父ヤコブはあえて手を交差させて、弟エフライムを嫡子として祝福しました。ヤコブは高齢のため目が見えなくなっていたと書いてありますが、肉体の目は見えなくとも、霊の目で孫たちを見、神様の導きに従って祝福の順序を変えたのです。
私たちは、自分の見聞きするところが正しいと判断しがちです。しかし神様の判断基準は人の目や考えとは異なります。神様がこれと思う者を選び、一方的に祝福を賜ります。ですから私たちは、自分の側に祝福される理由があると考えてはなりません。私が今神様に選ばれているのは驚くべき幸いなのです!この驚きの心を失ってしまうと、神様の恵みがわからなくなります。何という幸い、何という憐れみ、人の見えるところや考えを越えたところにある神様の一方的な憐れみを驚きをもって受け止める心を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.48.13-14.ja1955
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創世記 48:17-18
『ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。』
私たちは自分の思い通りにならないと立腹することがあります。夢を解き、神様の御心を理解できたヨセフでさえも、子どもたちのことについては自分の考えに縛られ、父ヤコブに対して不満に思い、意見してしまいました。しかしヤコブには後の日に起こることまで含めて神様の御心がわかっていたのです。
私たちは常に信仰の目で物事を見なければなりません。自分の考えに縛られるとき、私たちは本質を見誤ります。まだ見ぬ将来の行く末までも見通される主の導きに従うとき、私たちはいつも安定して大局観を持つことができます。聖歌のように「見ゆるところによらずして信仰によりて歩む」私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.48.17-18.ja1955
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創世記 48:20
『こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った、「あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、『神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられるように』」。このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた。』
ヤコブはヨセフの弟息子エフライムを兄息子マナセの先に立てて、祝福の祈りを捧げました。事実、エフライムは北イスラエル王国の中心に立つほどに勢力を伸ばすことになります。神様の目は遠い将来に起こる出来事さえも見通し、また神様の祝福は今の世だけでなく後の世にまでも、千代にも及ぶことがわかります。
ですから私たちは神様の祝福を軽んじてはなりません。単なる言葉を越えた祈りの力を覚えなければなりません。「義人の祈りは大いに力がある」との御言葉にもあるように、神様の御名によって祈る祈りの力を私たちは知っているのですから、絶えず祈り、御言葉によって歩む幸いな生涯の秘訣を決して手放すことのない私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.48.20.ja1955
『イスラエルの目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、ヨセフが彼らを父の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。 そしてイスラエルはヨセフに言った、「あなたの顔が見られようとは思わなかったのに、神はあなたの子らをもわたしに見させてくださった」。』
ヤコブは死ぬ間際にヨセフと息子たちを祝福します。死んだと思っていたヨセフに会えただけでなく、孫の顔までも見ることのできる幸いに与りました。そしてヨセフに生まれた孫を自分の子どもとして受け入れ、二倍の祝福をもって祈ります。
神様の祝福はこのように、失ったと思うところから始まることがあります。神様の前に手放すとき、神様が元通りに戻すだけでなく、二倍の祝福をもって返してくださるのです。私たちの手にあるものを必死に守ろうと我を張るのではなく、主は与え、主は取られる、という信仰に立って手放すときに、神様の御心であるならば二倍になって戻ってくるという、聖書の原則を忘れてはなりません。
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創世記 48:13-14
「ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。 すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。」
ヨセフは自分の考え、また世の慣わしに従って、長男のマナセを嫡子として祝福してもらおうとしましたが、父ヤコブはあえて手を交差させて、弟エフライムを嫡子として祝福しました。ヤコブは高齢のため目が見えなくなっていたと書いてありますが、肉体の目は見えなくとも、霊の目で孫たちを見、神様の導きに従って祝福の順序を変えたのです。
私たちは、自分の見聞きするところが正しいと判断しがちです。しかし神様の判断基準は人の目や考えとは異なります。神様がこれと思う者を選び、一方的に祝福を賜ります。ですから私たちは、自分の側に祝福される理由があると考えてはなりません。私が今神様に選ばれているのは驚くべき幸いなのです!この驚きの心を失ってしまうと、神様の恵みがわからなくなります。何という幸い、何という憐れみ、人の見えるところや考えを越えたところにある神様の一方的な憐れみを驚きをもって受け止める心を持つ私たちでありますように。
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創世記 48:17-18
『ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。』
私たちは自分の思い通りにならないと立腹することがあります。夢を解き、神様の御心を理解できたヨセフでさえも、子どもたちのことについては自分の考えに縛られ、父ヤコブに対して不満に思い、意見してしまいました。しかしヤコブには後の日に起こることまで含めて神様の御心がわかっていたのです。
私たちは常に信仰の目で物事を見なければなりません。自分の考えに縛られるとき、私たちは本質を見誤ります。まだ見ぬ将来の行く末までも見通される主の導きに従うとき、私たちはいつも安定して大局観を持つことができます。聖歌のように「見ゆるところによらずして信仰によりて歩む」私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.48.17-18.ja1955
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創世記 48:20
『こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った、「あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、『神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられるように』」。このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた。』
ヤコブはヨセフの弟息子エフライムを兄息子マナセの先に立てて、祝福の祈りを捧げました。事実、エフライムは北イスラエル王国の中心に立つほどに勢力を伸ばすことになります。神様の目は遠い将来に起こる出来事さえも見通し、また神様の祝福は今の世だけでなく後の世にまでも、千代にも及ぶことがわかります。
ですから私たちは神様の祝福を軽んじてはなりません。単なる言葉を越えた祈りの力を覚えなければなりません。「義人の祈りは大いに力がある」との御言葉にもあるように、神様の御名によって祈る祈りの力を私たちは知っているのですから、絶えず祈り、御言葉によって歩む幸いな生涯の秘訣を決して手放すことのない私たちでありますように。
http://bible.com/81/gen.48.20.ja1955