列王紀上 17:1
『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』
イスラエル最悪の王アハブと悪妻イゼベルによって北イスラエル王国が最も霊的に堕落した時代に、旧約聖書を代表する最も偉大な預言者エリヤが登場します。彼はアハブ王に対し、次に神様から御言葉が与えられるまでイスラエルが飢饉になると大胆に預言しました。これは食料そのものの飢饉であると同時に、御言葉の飢饉の到来でもあります。実はアハブ王は、霊的には最悪の王でしたが、経済的には国を豊かにした優秀な王でした。エリヤが活躍した時代背景は、物質的には恵まれていながら御言葉に飢えている現代にも共通していないでしょうか。
このような中でエリヤは、神様から託された言葉を大胆に語ります。人は権力者の前で媚びへつらい、平安や祝福の言葉を語りたがるものですが、神様から遣われた人は、厳しい裁きの言葉、不幸をも告げ知らせる言葉も語らなければなりません。私たちが誰かに伝道するとき、神様の愛と恵みだけを語る方が楽ですが、なぜ罪を指摘しなければならないのか、クリスチャンは独り善がりで罪と裁きを語ると揶揄されたりすることもあります。しかし神様の御言葉は、そのまま語らなければなりません。人目を気にして偽りの平安、見せかけの祝福ばかり語る者は、神様の御心に沿うものではありません。エリヤのように勇気を持って大胆に、しかし憐れみの心をもって、罪の世に神様の御言葉を正しく語り告げる私たちでありますように。
http://bible.com/81/1ki.17.1.ja1955
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列王紀上 17:3-6
『「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。 そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。 エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。 すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』
神様は飢饉の中でエリヤを養うために、ヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに住むよう命じました。それは川の水でエリヤを乾きから救うためでした。しかしなぜ神様はからすによってエリヤを養うと言われたのでしょうか。それはエリヤが神様の御言葉に従うかどうかを試みるためだったかも知れません。
からすは鳥の中でももっと最も自己中心で、食料を得るためになら仲間をも蹴落として独り占めしようとする鳥です。神様はそんなからすをも用いて、エリヤを養うと言われました。飢饉も超自然的な奇跡ですが、からすが人のためにパンと肉を運ぶということなど、決してあり得ない奇跡です。しかしエリヤは人の知識や経験で物事を判断せず、神様のご命令に従いました。人の判断基準で物事に対処するのではなく、愚直に神様の御言葉に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/1ki.17.3-6.ja1955
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列王紀上 17:7-9
『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』
イスラエルを干ばつと飢饉が襲ってからも、しばらくはケリテ川の水を飲んでいのちをつなぐことができましたが、雨が降らなかったため、ついに川の水も枯れてしまいました。人は水なしには生きて行くことができません。そこで神様はエリヤに、外国であるシドンのザレパテという町に行って住むように告げました。
そこで神様が用いようとされたのは、異邦人の貧しいやもめでした。福祉制度の充実した現代とは異なり、当時の寡婦は仕事もないため経済的に非常に厳しく、自分一人あるいは家族で生きて行くのがやっとでした。ルツ記でも、彼女はしゅうとのナオミと生計を立てるために、裕福な家庭の麦畑で落ち穂を拾って食いつなごうとしました。それなのに見ず知らずの他国の預言者など、やもめ女に養えるはずなどありません。
しかし神様はこの寡婦女に奇跡を示すことによって、主こそまことの神であるとの異邦人への福音を委ねられたのです。そして同時に、たった一人で生きて行こうとするエリヤに、神様だけでなく人の助けも受けて生きることの大切さを学ばせようとされたのではないでしょうか。私たちは神様に寄り頼む信仰がまず一番大事ですが、同時に人との関わりの中で生かされることも大事です。
http://bible.com/81/1ki.17.7-9.ja1955
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列王紀上 17:13-16
『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』
初対面の相手に水ばかりでなくパンをも提供するように要求したエリヤに、ザレパテのやもめ女は、なけなしの小麦粉と油でパンを作って息子と最後の食事をとって死のうとしているのに何を言うのかと反論しました後、エリヤは、まず自分に食べさせるならば食材は尽きずに与え続けられるとの主の御言葉を告げました。果たしてその通り、やもめ女がエリヤに小さなパンを作って与えると、瓶の粉は尽きず、瓶の油も絶えることがなく、飢饉の間、食事に困ることはありませんでした。
ここでエリヤは、小さなパンを作るようにと言いました。神様は決して私たちには到底できないような無理難題を課すお方ではなく、私たちにできる範囲で、しかし最大限の捧げものすることを求めておられます。これはレプタ2つを神殿に捧げたやもめ女や、5つのパンと2匹の魚を捧げた少年と同じ心です。神の国と神の義とをまず第一に求める者に、主は生きるために必要なものを、すべて添えて与えてくださるお方です。
http://bible.com/81/1ki.17.13-16.ja1955
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列王紀上 17:17-18
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』
エリヤと共に住むことで飢饉の中を生き延びることができたザレパテのやもめ女と息子でしたが、一難去ってまた一難、今度は息子が重い病気にかかり、死んでしまいました。そこでやもめ女は、親子揃って飢え死にせずに済んだのは病気で息子が死ぬのを見させるためかとエリヤに詰め寄りました。このときやもめは、私の罪を思い出させるためかとも言いました。彼女がどうしてやもめ暮らしをすることになったのか、聖書に理由は記されていませんが、突然罪の話が出てきます。もしかしたら何らかの罪を犯して離縁されたのかも知れませんし、不道徳な暮らしをしていたのかも知れません。
いずれにせよ私たちが苦難に遭うと、何か自分に罪があったのかと因果応報的な考え方をしてしまうのは、古今東西を問わずすべての人に共通することではないでしょうか。しかし、神様はたとい私たちが罪人であっても、人を生かし、恵みで満たしてくださるお方です。私たちの神様に対して抱くイメージが、罰を与えるお方という厳しいものではなく、恵みで満たしてくださる憐れみ深いお方というものであるならば、なんとさいわいなことでしょうか。
http://bible.com/81/1ki.17.17-18.ja1955
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列王紀上 17:19-22
『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。』
エリヤにとっても、やもめ女の一人息子が病で死ぬことは想定外だったのでしょう。しかしエリヤの良い点は、どんなことでも神に祈り求めることてした。彼は死んだ息子の上に三度体を伸ばし、魂を元に戻してくださいと祈りました。死んだ人の体はとても冷たく、体に触れるだけでも生気を奪い取られることだと聞きます。ましてユダヤ人は、死体に触れることは汚れることだと忌み嫌っていましたから、なおさらです。しかしエリヤはそれほど必死に祈ったのです。
神様はこのエリヤの祈りを聞かれ、やもめ女の息子は生き返りました。このエリヤの行為は、私たちにいのちを与えるためにイエス様が3日間陰府に下られたことを象徴しているように思えてなりません。私たちのために命を懸けて祈られたイエス様の故に生かされていることに、心から感謝したいと思います。
http://bible.com/81/1ki.17.19-22.ja1955
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列王紀上 17:24
『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』
ザレパテのやもめ女は、死んだ息子が生き返った奇跡を目の当たりにして、エリヤこそまことの神に仕える人であることと、エリヤの語る主の言葉が真実であることを思い知るに至りました。神様に愛された国でありながら偶像の神々を拝むイスラエルから逃れた預言者エリヤによって、神様から遠く離れた異邦人がエリヤの神こそまことの神であると認め崇めるとは、なんと皮肉なことでしょうな。
御言葉の飢饉のようなこの時代に生きる異邦人の私たちもまた、聖書の神こそまことの神として畏れ、与えられた恵みの御言葉を心から喜んで受け入れ、聞き従う敬虔な信仰生活を送らせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/1ki.17.24.ja1955
『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』
イスラエル最悪の王アハブと悪妻イゼベルによって北イスラエル王国が最も霊的に堕落した時代に、旧約聖書を代表する最も偉大な預言者エリヤが登場します。彼はアハブ王に対し、次に神様から御言葉が与えられるまでイスラエルが飢饉になると大胆に預言しました。これは食料そのものの飢饉であると同時に、御言葉の飢饉の到来でもあります。実はアハブ王は、霊的には最悪の王でしたが、経済的には国を豊かにした優秀な王でした。エリヤが活躍した時代背景は、物質的には恵まれていながら御言葉に飢えている現代にも共通していないでしょうか。
このような中でエリヤは、神様から託された言葉を大胆に語ります。人は権力者の前で媚びへつらい、平安や祝福の言葉を語りたがるものですが、神様から遣われた人は、厳しい裁きの言葉、不幸をも告げ知らせる言葉も語らなければなりません。私たちが誰かに伝道するとき、神様の愛と恵みだけを語る方が楽ですが、なぜ罪を指摘しなければならないのか、クリスチャンは独り善がりで罪と裁きを語ると揶揄されたりすることもあります。しかし神様の御言葉は、そのまま語らなければなりません。人目を気にして偽りの平安、見せかけの祝福ばかり語る者は、神様の御心に沿うものではありません。エリヤのように勇気を持って大胆に、しかし憐れみの心をもって、罪の世に神様の御言葉を正しく語り告げる私たちでありますように。
http://bible.com/81/1ki.17.1.ja1955
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列王紀上 17:3-6
『「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。 そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。 エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。 すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』
神様は飢饉の中でエリヤを養うために、ヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに住むよう命じました。それは川の水でエリヤを乾きから救うためでした。しかしなぜ神様はからすによってエリヤを養うと言われたのでしょうか。それはエリヤが神様の御言葉に従うかどうかを試みるためだったかも知れません。
からすは鳥の中でももっと最も自己中心で、食料を得るためになら仲間をも蹴落として独り占めしようとする鳥です。神様はそんなからすをも用いて、エリヤを養うと言われました。飢饉も超自然的な奇跡ですが、からすが人のためにパンと肉を運ぶということなど、決してあり得ない奇跡です。しかしエリヤは人の知識や経験で物事を判断せず、神様のご命令に従いました。人の判断基準で物事に対処するのではなく、愚直に神様の御言葉に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/1ki.17.3-6.ja1955
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列王紀上 17:7-9
『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』
イスラエルを干ばつと飢饉が襲ってからも、しばらくはケリテ川の水を飲んでいのちをつなぐことができましたが、雨が降らなかったため、ついに川の水も枯れてしまいました。人は水なしには生きて行くことができません。そこで神様はエリヤに、外国であるシドンのザレパテという町に行って住むように告げました。
そこで神様が用いようとされたのは、異邦人の貧しいやもめでした。福祉制度の充実した現代とは異なり、当時の寡婦は仕事もないため経済的に非常に厳しく、自分一人あるいは家族で生きて行くのがやっとでした。ルツ記でも、彼女はしゅうとのナオミと生計を立てるために、裕福な家庭の麦畑で落ち穂を拾って食いつなごうとしました。それなのに見ず知らずの他国の預言者など、やもめ女に養えるはずなどありません。
しかし神様はこの寡婦女に奇跡を示すことによって、主こそまことの神であるとの異邦人への福音を委ねられたのです。そして同時に、たった一人で生きて行こうとするエリヤに、神様だけでなく人の助けも受けて生きることの大切さを学ばせようとされたのではないでしょうか。私たちは神様に寄り頼む信仰がまず一番大事ですが、同時に人との関わりの中で生かされることも大事です。
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列王紀上 17:13-16
『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』
初対面の相手に水ばかりでなくパンをも提供するように要求したエリヤに、ザレパテのやもめ女は、なけなしの小麦粉と油でパンを作って息子と最後の食事をとって死のうとしているのに何を言うのかと反論しました後、エリヤは、まず自分に食べさせるならば食材は尽きずに与え続けられるとの主の御言葉を告げました。果たしてその通り、やもめ女がエリヤに小さなパンを作って与えると、瓶の粉は尽きず、瓶の油も絶えることがなく、飢饉の間、食事に困ることはありませんでした。
ここでエリヤは、小さなパンを作るようにと言いました。神様は決して私たちには到底できないような無理難題を課すお方ではなく、私たちにできる範囲で、しかし最大限の捧げものすることを求めておられます。これはレプタ2つを神殿に捧げたやもめ女や、5つのパンと2匹の魚を捧げた少年と同じ心です。神の国と神の義とをまず第一に求める者に、主は生きるために必要なものを、すべて添えて与えてくださるお方です。
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列王紀上 17:17-18
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』
エリヤと共に住むことで飢饉の中を生き延びることができたザレパテのやもめ女と息子でしたが、一難去ってまた一難、今度は息子が重い病気にかかり、死んでしまいました。そこでやもめ女は、親子揃って飢え死にせずに済んだのは病気で息子が死ぬのを見させるためかとエリヤに詰め寄りました。このときやもめは、私の罪を思い出させるためかとも言いました。彼女がどうしてやもめ暮らしをすることになったのか、聖書に理由は記されていませんが、突然罪の話が出てきます。もしかしたら何らかの罪を犯して離縁されたのかも知れませんし、不道徳な暮らしをしていたのかも知れません。
いずれにせよ私たちが苦難に遭うと、何か自分に罪があったのかと因果応報的な考え方をしてしまうのは、古今東西を問わずすべての人に共通することではないでしょうか。しかし、神様はたとい私たちが罪人であっても、人を生かし、恵みで満たしてくださるお方です。私たちの神様に対して抱くイメージが、罰を与えるお方という厳しいものではなく、恵みで満たしてくださる憐れみ深いお方というものであるならば、なんとさいわいなことでしょうか。
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列王紀上 17:19-22
『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。』
エリヤにとっても、やもめ女の一人息子が病で死ぬことは想定外だったのでしょう。しかしエリヤの良い点は、どんなことでも神に祈り求めることてした。彼は死んだ息子の上に三度体を伸ばし、魂を元に戻してくださいと祈りました。死んだ人の体はとても冷たく、体に触れるだけでも生気を奪い取られることだと聞きます。ましてユダヤ人は、死体に触れることは汚れることだと忌み嫌っていましたから、なおさらです。しかしエリヤはそれほど必死に祈ったのです。
神様はこのエリヤの祈りを聞かれ、やもめ女の息子は生き返りました。このエリヤの行為は、私たちにいのちを与えるためにイエス様が3日間陰府に下られたことを象徴しているように思えてなりません。私たちのために命を懸けて祈られたイエス様の故に生かされていることに、心から感謝したいと思います。
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列王紀上 17:24
『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』
ザレパテのやもめ女は、死んだ息子が生き返った奇跡を目の当たりにして、エリヤこそまことの神に仕える人であることと、エリヤの語る主の言葉が真実であることを思い知るに至りました。神様に愛された国でありながら偶像の神々を拝むイスラエルから逃れた預言者エリヤによって、神様から遠く離れた異邦人がエリヤの神こそまことの神であると認め崇めるとは、なんと皮肉なことでしょうな。
御言葉の飢饉のようなこの時代に生きる異邦人の私たちもまた、聖書の神こそまことの神として畏れ、与えられた恵みの御言葉を心から喜んで受け入れ、聞き従う敬虔な信仰生活を送らせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/1ki.17.24.ja1955