申命記 21:5
「その時レビの子孫である祭司たちは、そこに進み出なければならない。彼らはあなたの神、主が自分に仕えさせ、また主の名によって祝福させるために選ばれた者で、すべての論争と、すべての暴行は彼らの言葉によって解決されるからである。」
祭司の務めは、神様に仕えること、人々を祝福すること、そして争いを鎮める仲裁人の役割でした。なぜ祭司たちがその役割を担ったのかというと、神様の御側近くに仕える者こそ、神様の御心を見分ける信仰の目が養われているからです。
神の僕とされた私たちもまた、罪の世にあって神様の近くにいるきよい者です。世の人々は、私たちクリスチャンを見て神様を知ります。ですから神様の御心に適う信仰生活を通して世の人々に模範を示し、よき相談相手また仲裁者としての役割を担うことができる者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/deu.21.5.ja1955
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申命記 21:6-9
「そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは皆、彼らが谷でくびを折った雌牛の上で手を洗い、 証言して言わなければならない、『われわれの手はこの血を流さず、われわれの目もそれを見なかった。 主よ、あなたがあがなわれた民イスラエルをおゆるしください。罪のない者の血を流したとがを、あなたの民イスラエルのうちにとどめないでください。そして血を流したとがをおゆるしください』。 このようにして、あなたは主が正しいと見られる事をおこない、罪のない者の血を流したとがを、あなたがたのうちから除き去らなければならない。」
犯人を特定できない犯罪が起きたとき、自分には責任がないと主張するばかりで罪を放置してはなりません。神様はイスラエル人の守るべき規定として、犯罪の現場から最も距離の近い町の長老たちが自分たちには責任のないことを証言しつつも、罪は罪として購うことを命じられました。
無責任や無関心は罪です。義なる神様は罪を放置したり、黙認することは決してなさいません。私たちは罪は罪として購い、神様の呪いが自分の身に降りかからないように努めることが求められます。
http://bible.com/81/deu.21.6-9.ja1955
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申命記 21:11-14
「もし捕虜のうちに美しい女のあるのを見て、それを好み、妻にめとろうとするならば、 その女をあなたの家に連れて帰らなければならない。女は髪をそり、つめを切り、 また捕虜の着物を脱ぎすてて、あなたの家におり、自分の父母のために一か月のあいだ嘆かなければならない。そして後、あなたは彼女の所にはいって、その夫となり、彼女を妻とすることができる。 その後あなたがもし彼女を好まなくなったならば、彼女を自由に去らせなければならない。決して金で売ってはならない。あなたはすでに彼女をはずかしめたのだから、彼女を奴隷のようにあしらってはならない。」
イスラエル人が他の民族と婚姻関係を結ぶことを禁じられた神様は、なぜイスラエルが戦って滅ぼした捕虜の女性と結婚することに対する規定を定められたのでしょうか。それは欲情に逆らうことのできない私たち人間の弱さを思いやって、最低限守るべき規定を定めて譲歩されたことを意味します。
決して神様は異教の民、神様に逆らう者との結婚を推奨しているわけではありません。神様の祝福は、主を畏れ、聖書の御言葉に聞き従う、神様の喜ばれる者との結婚にあることに変わりありません。あくまでも情欲に逆らえなくなった者が罪を犯すことのないようにするための措置であることを忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.21.11-14.ja1955
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申命記 21:16-17
「その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。」
一夫多妻制も神様が認めたものではありませんが、すでに一般的に行われていた世の慣わしを全否定することなく、その中で神様の御心を行うにはどのようにすればよいか、基準を定めたものです。
長子の特権は、神様の定められた祝福の継承の基準です。神様の定められた基準を、人の意志や好き嫌いで曲げることを神様は禁じられました。神様は私たちのわがままに多く譲歩してくださいましたが、ここだけは決して曲げることができないという信仰の根幹に関わる最低限の基準は、私たちは守らねばなりません。
http://bible.com/81/deu.21.16-17.ja1955
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申命記 21:18-21
「もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、 その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、 町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。 そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。」
「あなたの父と母を敬え」と十戒にも記されているのは、目に見える父母を敬うことは、目には見えない神様を畏れ敬うことの訓練として命じられたものです。なぜなら最も身近にいる肉の両親にさえ従えない者が、霊の父である神様に従うことなどできるはずがないからです。
不従順には懲らしめが伴います。肉の両親の教えと諭しに耳を貸さず、イスラエルの社会では、罪を犯し続ける不従順の子は、公衆の面前で撃ち殺されました。実際の懲らしめを見なければ不従順を改めることができないほど、人の心は罪で汚れています。自分自身が祝福の民から絶たれることのないよう、聖書の戒めを守り行い、神様の御心に適う者となる私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.21.18-21.ja1955
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申命記 21:22-23
「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、 翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」
時代劇にもあるように、日本では昔、「市中引き回しの上獄門」あるいは「晒し首」など、重罪人は見せしめのために公開処刑されました。同様にイスラエルや中近東の古代社会では、木にかけてさらし者にする処刑が行われていました。しかし神様は、たとえ重罪を犯して処刑された呪われた者であっても、その日の内に埋葬しなければならないと定められました。それは呪いが満ちて地が汚れることのないようにするためでした。
この規定は、イエス様の十字架の時にも守り行われました。しかしイエス様は何の罪も犯していないのに処刑され、十字架につけられました。なぜでしょうか?それは今の私を含むすべての人の罪を一身に担い、私の身代わりに呪われた者となって、木に掛けられさらし者とされたのです。このイエス様の十字架の購いの故に、私たちは罪赦され、神様の御前にきよい者とされたこの恵みを、私たちは決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.21.22-23.ja1955
「その時レビの子孫である祭司たちは、そこに進み出なければならない。彼らはあなたの神、主が自分に仕えさせ、また主の名によって祝福させるために選ばれた者で、すべての論争と、すべての暴行は彼らの言葉によって解決されるからである。」
祭司の務めは、神様に仕えること、人々を祝福すること、そして争いを鎮める仲裁人の役割でした。なぜ祭司たちがその役割を担ったのかというと、神様の御側近くに仕える者こそ、神様の御心を見分ける信仰の目が養われているからです。
神の僕とされた私たちもまた、罪の世にあって神様の近くにいるきよい者です。世の人々は、私たちクリスチャンを見て神様を知ります。ですから神様の御心に適う信仰生活を通して世の人々に模範を示し、よき相談相手また仲裁者としての役割を担うことができる者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/deu.21.5.ja1955
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申命記 21:6-9
「そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは皆、彼らが谷でくびを折った雌牛の上で手を洗い、 証言して言わなければならない、『われわれの手はこの血を流さず、われわれの目もそれを見なかった。 主よ、あなたがあがなわれた民イスラエルをおゆるしください。罪のない者の血を流したとがを、あなたの民イスラエルのうちにとどめないでください。そして血を流したとがをおゆるしください』。 このようにして、あなたは主が正しいと見られる事をおこない、罪のない者の血を流したとがを、あなたがたのうちから除き去らなければならない。」
犯人を特定できない犯罪が起きたとき、自分には責任がないと主張するばかりで罪を放置してはなりません。神様はイスラエル人の守るべき規定として、犯罪の現場から最も距離の近い町の長老たちが自分たちには責任のないことを証言しつつも、罪は罪として購うことを命じられました。
無責任や無関心は罪です。義なる神様は罪を放置したり、黙認することは決してなさいません。私たちは罪は罪として購い、神様の呪いが自分の身に降りかからないように努めることが求められます。
http://bible.com/81/deu.21.6-9.ja1955
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申命記 21:11-14
「もし捕虜のうちに美しい女のあるのを見て、それを好み、妻にめとろうとするならば、 その女をあなたの家に連れて帰らなければならない。女は髪をそり、つめを切り、 また捕虜の着物を脱ぎすてて、あなたの家におり、自分の父母のために一か月のあいだ嘆かなければならない。そして後、あなたは彼女の所にはいって、その夫となり、彼女を妻とすることができる。 その後あなたがもし彼女を好まなくなったならば、彼女を自由に去らせなければならない。決して金で売ってはならない。あなたはすでに彼女をはずかしめたのだから、彼女を奴隷のようにあしらってはならない。」
イスラエル人が他の民族と婚姻関係を結ぶことを禁じられた神様は、なぜイスラエルが戦って滅ぼした捕虜の女性と結婚することに対する規定を定められたのでしょうか。それは欲情に逆らうことのできない私たち人間の弱さを思いやって、最低限守るべき規定を定めて譲歩されたことを意味します。
決して神様は異教の民、神様に逆らう者との結婚を推奨しているわけではありません。神様の祝福は、主を畏れ、聖書の御言葉に聞き従う、神様の喜ばれる者との結婚にあることに変わりありません。あくまでも情欲に逆らえなくなった者が罪を犯すことのないようにするための措置であることを忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.21.11-14.ja1955
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申命記 21:16-17
「その子たちに自分の財産を継がせる時、気にいらない女の産んだ長子をさしおいて、愛する女の産んだ子を長子とすることはできない。 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。」
一夫多妻制も神様が認めたものではありませんが、すでに一般的に行われていた世の慣わしを全否定することなく、その中で神様の御心を行うにはどのようにすればよいか、基準を定めたものです。
長子の特権は、神様の定められた祝福の継承の基準です。神様の定められた基準を、人の意志や好き嫌いで曲げることを神様は禁じられました。神様は私たちのわがままに多く譲歩してくださいましたが、ここだけは決して曲げることができないという信仰の根幹に関わる最低限の基準は、私たちは守らねばなりません。
http://bible.com/81/deu.21.16-17.ja1955
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申命記 21:18-21
「もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、 その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、 町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。 そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。」
「あなたの父と母を敬え」と十戒にも記されているのは、目に見える父母を敬うことは、目には見えない神様を畏れ敬うことの訓練として命じられたものです。なぜなら最も身近にいる肉の両親にさえ従えない者が、霊の父である神様に従うことなどできるはずがないからです。
不従順には懲らしめが伴います。肉の両親の教えと諭しに耳を貸さず、イスラエルの社会では、罪を犯し続ける不従順の子は、公衆の面前で撃ち殺されました。実際の懲らしめを見なければ不従順を改めることができないほど、人の心は罪で汚れています。自分自身が祝福の民から絶たれることのないよう、聖書の戒めを守り行い、神様の御心に適う者となる私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.21.18-21.ja1955
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申命記 21:22-23
「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、 翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」
時代劇にもあるように、日本では昔、「市中引き回しの上獄門」あるいは「晒し首」など、重罪人は見せしめのために公開処刑されました。同様にイスラエルや中近東の古代社会では、木にかけてさらし者にする処刑が行われていました。しかし神様は、たとえ重罪を犯して処刑された呪われた者であっても、その日の内に埋葬しなければならないと定められました。それは呪いが満ちて地が汚れることのないようにするためでした。
この規定は、イエス様の十字架の時にも守り行われました。しかしイエス様は何の罪も犯していないのに処刑され、十字架につけられました。なぜでしょうか?それは今の私を含むすべての人の罪を一身に担い、私の身代わりに呪われた者となって、木に掛けられさらし者とされたのです。このイエス様の十字架の購いの故に、私たちは罪赦され、神様の御前にきよい者とされたこの恵みを、私たちは決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.21.22-23.ja1955