ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.4.13 感度は高く、志も高く

2011-04-13 18:54:02 | 日記
 朝日新聞社のネット記事を見ていて、本当にそうだ・・・と思ったコラムがあったので転載させて頂く。

 ※ ※ ※ ※ (転載開始)

 民度と「官度」(2011年4月13日1時10分)

 未曽有の東日本大震災にもかかわらず、数多(あまた)の市民が惨事に耐えながら、未来に向けて粛々と対処する姿は、多くの国々に感動すら与えている。
 これは、わが国の民度の高さを改めて世界に示すとともに、復興に向けた大いなる希望のあかしともいえるものである。
 これと対照的なのが、政府の対応である。民主党政権は貧困な組織経営能力のため、場当たり的な危機対応しかできないでいる。官僚は相変わらずの縦割り意識と責任回避行動のため、各省バラバラの非常時対応しかできず、これが様々な風評被害をもたらしている。
 地域独占に安住してきた準官僚体質の電気事業者は、原発の「安全神話」を売り続けた立場からも言ってはならない「想定外」という言葉で責任回避を図ろうとした。
 さらに、個別企業では対処不能な事態が明白にもかかわらず、米国などからの外部の支援受け入れに無駄な時間を費やし、その後の相次ぐ放射能の「垂れ流し」というべき事態を引き起こしている。
 亡きJ・F・ケネディは「つながっていれば、できないことはほとんどない。バラバラなら、できることはほとんどない」といった。今や世界中がつながっている時代に、政、官および準官僚組織がバラバラな事態は、三者が連日個別に記者会見を行うという異様さにも如実に示されている。
 これは、「官災」ともいうべきものである。世界が称賛する我が国の民度の高さに比べ、「官度」の低劣さは憂慮すべきものがある。
 復興に際しての民力の強靱(きょうじん)さには疑問の余地もないが、「官災」がその妨げにならないことを強く願うものである。(四知)

※「経済気象台」は、第一線で活躍している経済人、学者など社外筆者の執筆によるものです。

 (転載終了)※ ※ ※ ※

 生きていく上で何につけても感度は高い方が良いに決まっている。人の痛みや気持ちがわかることもしかり、だ。勿論あえて鈍磨にしていなければ心が壊れてしまうこともある。
 だが、こと今回の「官度」…ひいては「感度」の低さについては、決して鈍磨でいていいものではないだろう。未曽有の災害時に、一番感度高くあってほしい時に、何とも残念な毎日だ。志高く、崇高なマニフェストを掲げて国を背負おうとしたのではなかったのか。

 天災がいつのまにか人災に、ここでいう官災になってはならない、と強く思う。それにしても官力をあてにせず、自ら動き出してしまう国民を国は誇っていいものかどうか。官は決してそれに甘えてはいけないのだと思う。

 大学でも被災地に派遣された第一陣の職員が帰還したという。傍目にもかなりの疲労度で放心状態だそうだ。被災地はやはり“百聞は一見に如かず”なのだろう。私自身は現地の本当の姿を見ることはできないが、それこそ感度を高め、できる限り被災者の心に沿って出来ることを粛々と続けていかなければならない、と思う。

 今日は久しぶりにお弁当を3個作って出勤した。今週は休薬の週。白血球の低下が体のだるさでわかる時には大事をとって休みを頂くのだが、今週は調子がいい。来週の検査結果が良いものでありますように、と満開の雪柳の花を愛でながら思う。

 帰宅すると久しぶりに宅配のお花が届いていた。今日のお花は淡いクリーム色と濃いオレンジ色のバラが3本ずつ、濃い赤紫のスプレーカーネーション、コデマリだった。それぞれ花言葉は「愛らしい」「素朴」「伸びゆく愛」だという。すっかり暖かくなったので暖房のない部屋でもあっという間に開いてしまいそう。長く楽しめればよいのだけれど。
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