ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.7.17 父の葬儀終了に思うこと

2016-07-17 22:24:44 | 日記
 長い1週間が終わった。
 父の逝去から今日の葬儀まで、とりあえず無事に終了することが出来た。厳しかった父が及第点をくれるかどうかわからないけれど、自分なりに精一杯やらせてもらったので、今はただただ安堵しており、悔やむことがない。

 家族や親戚、職場の方々、友人たち、そして目に見えない沢山の力に支えられてここまで頑張ることが出来たことに、改めて深く感謝したい。

 父の亡骸は、父がどこよりも好きだった自宅でまる3日間を過ごした。その間、ご近所の方たち、デイサービスでお世話になった方たち等からの弔問が続いた。
 自宅での3泊を経て出棺する際の湯灌。虫の知らせだったのか、入院する前日に床屋さんでカットを済ませていたので髪の毛はさっぱりしていた。生まれて初めて父のシャンプーを手伝わせてもらったけれど、それが亡くなった後のことで、これが最初で最後になるとは、なんとも複雑な気持ちだった。

 ドライヤーをかけ、髭をそり薄化粧をして頂き、準備したお洒落な夏服を着せてもらった。着替えの最後には母と2人で新しい靴下をはかせた。そして普段使っていたもの、好きだったものとともに棺に入った。
 やることなすことすべてが初めての体験。母にとっても私にとっても、とても重たい経験だった。

 亡くなってから葬儀まで1週間、はやはり長い。1週間の間、毎日実家に通い、落ち込む母の相手をしながら、あらかじめ出来る事務手続きや葬儀社との調整をし、ずっと気持ちをキープしておくのは正直しんどく、気持ちを奮い立たせながらの日々だった。
 その間色々不自由をさせてしまった夫には申し訳ない気持ちだった。
 ごく内輪の葬儀といっても、数十年ぶりに会う父方の従姉・従兄もおり、粗相がないように、とやはり緊張した。

 そして昨日が通夜式。指示された時間に斎場に到着すると、既に白と紫を基調とした生花で一杯の祭壇が完成していた。あれこれ打ち合わせや調整をしているうちに、三々五々親戚が到着。前日夜遅く息子も京都から駆けつけており、ほっとした。なんといっても父にとっては唯一の孫。どれだけ可愛がったかしれない。
 コンサート当日の部長挨拶だけはしなくては、ということで今朝早くのとんぼ返りだったけれど、よく来てくれた、と思う。

 遺影の写真は、5月の末、デイサービスで開いて頂いた5月生まれの誕生会のもの。とても穏やかな顔をしており、母が選んだ。まさかその時は、その1か月半後に亡くなっているとは誰も思わなかっただろう。

 夫が、息子が生まれてからの別人のように表情豊かで幸せそうな父の、沢山のスナップ写真を見繕って小さなアルバムにしてくれた。私には厳格な父だったけれど、こと孫には別人のように寛大なおじいちゃんだった。男の子が欲しかったという父は、私に息子が生まれて本当に嬉しかったのだろう。
 3年前の義母の葬儀の時は、生まれて初めて家族の葬儀というものを経験し、あられもなく大泣きしていた息子も、亡くなった父を棺から眺めながら、静かに焼香していた。これは息子なりの成長の姿なのであろう。

 ご住職にご挨拶を済ませ、予定通りに通夜が開式。喪主である母の隣に座った。ヨロヨロする母にハラハラしながら、とにかく明日まで頑張ろうね、と叱咤激励する。
 浄土真宗東本願寺派は戒名ではなく、法名という。「釋慶昭居士」という名前を頂いた。この宗派は特殊で、四十九日を迎えるまで白装束での旅支度もなく、即得往生なのだという。父は既に仏様になったわけだ。ご住職からは、88年という生涯を終えたという個人的な“喜び”ではなくもっと大きく深い“慶び”を表す法名だ、とのお話を頂いた。

 職場には内輪の式ということでもろもろご辞退させて頂いていたが、それでも上司やお世話になっている方々、友人、夫の職場からもお花や弔電等のお心遣いを頂き、恐縮した。有り難いことである。

 通夜式終了後は、翌日の告別式が早いので、母には義妹夫婦とともに式場近くのホテルに泊まってもらった。私は自宅に戻ったが、何やら疲れすぎてしまってここ数日すっかり不眠状態。
 
 そして今朝。息子は早朝京都へと戻り、夫と私が再び斎場へ向かった。
 猛暑でもなく、雨降りでもなく、やや蒸し暑い曇天だったけれど、来て頂く方たちには有り難い天候だったと思う。

 告別式は予定通り10時開式。
 葬儀、告別式終了後、初七日の法要もその場で終了し、弔電のご披露。出棺の前には祭壇の花々が入れられる。「お疲れ様、ありがとう。」と冷たくなった額に触れて小声で囁く。
 母は泣き崩れながら顔を撫でている。これもまたこの宗派のやり方で、棺に杭を打つことはない。皆で静かに蓋を閉めて、男性たちが棺台に乗せる。ここで喪主である母に代わって私が皆様に御礼のご挨拶をした。母が位牌を、私が遺影を持ち、同じ建物内の火葬棟に移動する。

 予定通りの時間に荼毘に付される。棺が移されてレールに乗り、消えていく。これでお別れ、と思うこの瞬間、義母の時には次にここに入るのは自分だろうか、と何とも言えない息苦しい気持ちになったことを思い出す。
 再び待合棟に移動して、昼食。さすがに疲れているのか、気圧の所為か今朝から胸痛が再燃している。

 収骨の準備が出来ました、とアナウンスが入り、皆で収骨場へ移動する。かつては174cmあった父は、立派な大腿骨で骨量が多い。股関節の美しい球体には驚いた。
 母が選んだ父が生まれた季節に因んだ新緑色した骨壺に、静かに骨を収める。さすがに圧迫骨折をしていた背骨から腰にかけてはかなり痛んでいたが、下顎骨にはいまだ入れ歯がなく、全て自分の歯だった奥歯が数本残っていた。両耳の骨、頭蓋骨等説明を受け、喉仏の骨や頭蓋骨が最後の説明とともに一番上に乗せられる。

 不思議なことに、義母の葬儀の時よりも自分のことに引き付けて考え過ぎることがなかった。これも瞑想でうまく心をコントロール出来るようになった成果なのだろうか。この1週間、心がざわつくこと、落ち着かないことも少なからずあった。その時には出来るだけ深呼吸をし、瞑想を繰り返した。瞑想というツールがあって本当に良かったと何度も思った。

 大きな骨壺を夫が持ち、位牌を母が、遺影を私が抱えて再び式場に戻り、解散。参列してくださった皆様に不慣れと不手際を詫びつつ、御礼。お見送りをした。

 帰途、数年前に建てた私たち夫婦用の墓地を母に見せてから、義弟の車で実家まで送ってもらった。雨が降らなくて本当に良かった。
 実家で一息ついたところで、葬儀社の方が、納骨の日までの後飾りを設えてくれ、整ったところで皆でお焼香を済ませた。
 今後のことの説明を受けた後、義妹夫婦を見送る。

 弔問に来てくださったご近所宅に、母に代わってご挨拶回りをしているうちに夕方を回る。このまま母を一人で置くのも・・・ということで、3人で夕食を摂りに出かけ、その足でタクシーで帰宅した。

 今は、こうして私が動ける体調で、順番通りに父を見送ることが出来たことに素直に感謝したい。
 義母の葬儀の時に「不肖の一人娘としては、実家の高齢の両親の行く末も気が気ではない。次は何としても逆縁だけは避けて、両親をしっかり見送りたいと願わざるを得ないが、今頃天国で再会しているであろう義父母が、私のささやかな希望を叶えてくれるよう見守ってくれることを望みたい。」と書いている。
 そう思うと、間違いなく義父母が見守ってくれているのだ、と心を強くする。

 母は60年連れ添った父を亡くし、その寂しさと喪失感は私には想像が出来ないほどなのだろうと思う。けれど、せっかく父が長患いをせずに旅立ってくれたのだから、これまで父がいるから、とあれこれ我慢してきたことを少しずつ解放しながら、残りの自分の人生を少しでも楽しく豊かに過ごしてほしいと思う。

 明日は一日ゆっくり休んで、明後日からは通常通り出勤の予定である。

 この度の父の逝去に対し、コメント、メール、LINE等でお悔みをくださった皆様、温かいお心遣いをどうもありがとうございました。心より感謝いたします。
 これからもどうぞよろしくお付き合いのほどお願いいたします。
コメント (5)
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