いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第423週

2022年12月24日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第423週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の節気的食材

冬至に柚子を発酵乳に載せて食べました。

■ 今週の疑問;なぜに乳酸菌

メーカー web siteを見えても、なぜ乳酸菌なのか書いていなかった。

■ 今週の半額

ミニアンドーナツ 小松製菓(google

■ 今週の中共創始者の1/13;陳公博、あるいは、上海(1921)& 京都(1945)

wikipedia


中国共産党第一次全国代表大会の様子を蝋人形で「再現」した展示物(愚記事

中共創設者のひとりで後に漢奸として処刑される陳公博が、敗戦直後日本に逃亡して来た時、鹿苑寺・金閣に「隠れていた」と知った。知った経緯は、三島由紀夫の『金閣寺』についての本を読んでいたら書いてあった;

(水上勉が『金閣炎上』で金閣を放火した僧侶、林 養賢についての事件に至る状況を検討した中で)とりわけ重視したのが、中国南京政府主席陳公博一行の亡命生活を、外務省の依頼で住職が引き受けたこと、皆が貧窮する中で彼らが飽食や麻雀などの娯楽に興じ、殺生禁止の禅寺であるにも関わらず、鏡湖池の鯉までが食用に提供されたことであり、また時流に身を任せて、そうしたことを容認している住職の事なかれ主義である。このあたりは養賢の放火を馬鹿げた行為、狂気の沙汰とされていくことへの抗議であり、悲憤がが激情となって迸り出ている。 内海健、『金閣を焼かねばならぬ 林養賢と三島由紀夫』

といえば、中国共産党第一次全国代表大会の場にいた中国人13人のうちのひとりだ。漢奸として処刑されたことは知っていた(同上 愚記事)。大日本帝国の「傀儡」政権 [1]を担っていたからである。でも、漢奸裁判の前に、鹿苑寺・金閣に隠れていたとは知らなかった。

[1]  1940年に至って汪兆銘政権が成立すると立法院長を務めると共に上海市長を兼任。1944年3月から政府主席代行、11月に汪が死去すると政府主席・行政院長・軍事委員会委員長を兼任した。(wiki)

蒋介石・国府との事実上の国交断絶後の、日本がいうところの「新興政権」だ(愚記事:1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間)。

■ 今週の展示物の差し替え

上記、陳公博が参加した中国共産党第一次全国代表大会が行われた場所は現在中共の聖地である。おいらが訪れたのは、2012年だ(愚記事:上海参り2012)。そのとき下記の再現蝋人形展示を見た。ただし、下の画像は写真の写真である。現物は撮影禁止だった。

この蝋人形展示の特徴は、ひとりひとりの顔は実際に似て作っているが、会議のこの風景は、空想であろうことである。毛沢東がひとり屹立している。頭が高い。

石川 禎浩、「記念と展示に見る中国共産党第一回代表大会」(google)によると2016年に替わったとのこと。

2016年の新しい展示では毛沢東の際立った屹立が影を潜めた。ただし、頭ひとつは高い。

■ 今週のトータル閲覧数

トータル閲覧数が、5,000,000(5百万)を越えた。



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