英文タイトルが「RECYCLE」。タイトルどおり、昔のヒット曲のカバーアルバムだ。3つの矢印が三角を作る、リサイクルマークまで付いている。曲もリサイクルだけど、ほぼ引退状態だった彼自身もリサイクル?!
が、安易な作りではない。吟味して曲を選び、時間をかけて録音に臨んだように感じられる。昔ほど声が伸びていないけれど、彼本来の魅力である低音を丁寧に聞かせている。最後のアルバムから10年近く経っているが、ボーカルは成熟した部分が大きいかもしれない。
先行オンエアの「為什麼」は五輪真弓の作曲で、続く「一首獨唱的歌」は中村雅俊の「ふれあい」。香港ポップスの名曲の多くが、日本のポップスのカバーだった時代があることの証しといってもいい。昔の曲は歌詞が美しく、しみじみする。
デビュー当時から彼をバックアップしてきた倫永亮のピアノで静かに歌う「願」とドラマチックに歌い上げる「内心戯」。今、ピアノだけでこれだけちゃんと歌える人はあまりいないかも・・・
昨年亡くなった黄霑詞曲「忘記他」は、スパニッシュギターにカスタネットで、麗君のしっとりした歌い方とはまた違った味わいだ。王菲の「如風」葉[イ菁]文の「零時十分」は林振強作詞で、これも数々の名曲を残した作詞家の仕事を噛みしめる。60年代のナイトクラブを舞台にした映画主題歌「我和春天有個約會」はシンプルなバンドのライブ感覚で、映画の場面が思い出される。最後の3曲は北京語で、ちょっとアップテンポにした羅大佑「童年」、切ない女心を歌って意外と違和感がない辛曉「味道」も聞ける。
プロデュースは陳澤忠。昔の李國祥の作品でもよく一緒にやった人だけど、はっきり言って、最近この人の名前を聞くことが少なかった。けれど、昔以上に、今の李國祥の良さを理解して引き出したと思う。同時に、陳澤忠の音楽を体現できる歌手が李國祥なのかな、という気がする。(最近仕事が少ないのは、そういう歌手が少ないから、かも)
音数ひかえめ、衣装もシンプル、凝らないパッケージとコストをかけてない感じだが安物っぽくはない。そのまま大陸で発行するのか、ISRCナンバー(大陸での曲の登録番号のようなもの)も各曲に振ってある。レーベルはおそらく陳澤忠グループのもの。ディストリビューションだけ東亞唱片。ベテランが個人レーベルからアルバムを出すのは、最近では李樂詩の例もある。コストをかけずにうまくやれば、何万枚も売れなくても採算が取れる方法がありそうだ。大手がばっちり広告費をかけて売り出しても元が取れるとは限らない昨今、実力のある人がプレッシャーを受けずに好きな音楽を出してそこそこ売れたら、悪くない。
引退後の李國祥は、福祉施設でリハビリ関係の仕事をしていたと聞いている。これからどんなスタンスで歌っていくつもりなのか(そもそも完全に復帰するつもりなのか?)わからないけど、今の彼は、歌うことを大切に思っている、と思う。空白の時間は無駄ではなかった。
循環再唱 @YesAsia.com
しかもマイケル、大真面目に広東語で「我想問你△*◇☆~」とかなんとか、タモリに話しかけてる。誰かに「司会者は広東語がわかる」と吹き込まれてたりして?(タモリが話せるのはハナモゲラ語と外国語もどきだっつーの^^; そりゃ本物そっくりだけど)
何日か滞在してプロモーションするんだろうか。香港映画が見直されるきっかけになるかな?
AERAで「華流・韓流」の特集があったり、昨今のアジアエンタテインメントのブームはすごい。(台湾ブームは台流と呼ばれたり華流と呼ばれたりするが、中国や香港がからむときは華流でまとめるらしい。)あちこちの雑誌でしょっちゅう取上げられるので、漢字で見慣れていた台湾・中国の俳優や歌手の名前の、カタカナ表記に目が慣れてきた。初めのうちは誰が誰だかわからなかった^^; 香港の芸能人は英語名を持っていることが多いので、「ジェイソン・チャン」のように英語名+姓をカタカナ表記されても違和感がないのだが、英語名がない人を姓+名でカタカナで書かれても、漢字が思い浮かばなかったのだ。
それでも、記事のどこかに漢字が出ていればいいのだが(AERAの記事はちゃんと出てた)、映画(特に中国)の紹介記事などに全く漢字が出ていないと、頭の中が???になってしまう。監督も主演も、誰?・・・タイトルは日本語になってるけどオリジナルは何?・・・これは一体、どの映画のこと? 結局、ストーリーを読んで「ああ、あれ!」と合点。見ていない映画でも、製作段階で香港あたりの芸能ニュースで話題になると、漢字のタイトル・監督・主演でぼんやり記憶に残る。その記憶の中のどれかと一致するまでが大変^^;
なんでこうなるの?と考えると、、、韓国人の名前を漢字の日本語読みから韓国語読みのカタカナに変えたのが発端じゃないかと思う。私が小さい頃、韓国の大統領は「ぼくせいき(朴正熙)」さんで、「金大中」氏は「きんだいちゅう」氏だった。変わったのがいつ頃か正確に覚えてないが、大統領は「ノ・テウ(盧泰愚)」さんの時代だったか。元々、日本では「外国人の名前はその国の発音にできるだけ近い音をカタカナで」という原則があって、マスコミはその原則に従って表記・発音していたのだが、漢字の名前に関しては漢字の日本語読みだった。それを韓国・北朝鮮に関しては現地発音主義に改めたわけだ。これが定着するうちに、漢字名前の人も現地発音で表記するようになってきたんじゃないだろうか。(中国人の場合、簡体字が日本語のどの漢字に相当するか調べるのが面倒だったり、日本の漢字に書き換えてしまっていいのかわからなかったりして、全部カタカナにするほうが楽なのかも)
でも、韓国人の名前と中国系の人の名前では、カタカナ表記する意味が違うと思う。韓国人の名前を現地発音に改めたのは、日本語も韓国語も、互いに表音文字を持っていて、やろうと思えばそれなりに本来の発音に近い音で表記できるからだ。やっぱり、自分の名前がかけ離れた発音で呼ばれるのは、気分のいいものじゃないし。(韓国では、漢字使用が少なく漢字教育も短縮された時代に、自分の名前を漢字で書かない人が多くなっていたこともあるかも。また、名前?!に書いたように、命名の時漢字を決めないことも多くなっているのも理由かも)
一方、中国系の人々は、「漢字でどう書くか」を重要視しているように思う。中国各地の地方言語によって、ひとつの漢字の発音も違ってしまうわけで、行く先々でその地域の発音で呼ばれてしまうのは織り込み済み、みたいな感じだ。たとえば、香港にやってきてプロモーションする台湾や大陸の芸能人は、広東語の司会の中で自分の名前が広東語読みされても、当然のように受け入れている。また、台湾語と北京語を使い分けて生活している台湾人は、台湾語の日常会話の中では家族や友人の名前も台湾語発音で呼びあうが、改まった場面(学校や兵役)では北京語で呼ばれているらしい。だから、日本で日本語読みされても、いっこうにかまわない(と考える人が多い、らしい)。(NHKのニュースでは相変わらず漢字の日本語読みで通している)
もちろん、中国系でも発音のほうが大事と考える人もいて、シンガポールのアーティスト、Dick Leeは、香港でプロモーションする時、初めは「李迪文(李炳文だったかも)」と漢字を出していた。でも、広東語で「れいでぃっまん」とかなんとか呼ばれるのが嫌だったのか、すぐ「Dick Lee」の英語表記に戻してしまった。(彼は広東語を少し話すが、父方は広東系ではないようで、中文名もLee Peng Boonと広東語発音とはかなり違う。この発音からすると、漢字はやはり李炳文かな? 正確なところをご存知の方、教えてくださいませ)
なんだか混乱してきたが(汗)、いくらカタカナで表記しても、中国語の発音を完全に表せるわけじゃないので、どこかに漢字も書いておいてくれないと、何かと困る!ということが言いたかったのです。(簡体字を日本の漢字に直しても、たぶん中国人は文句言わないと思うけど・・・)日本のマスコミの皆さん、よろしく~。
長男が3歳くらいのころ。ひとりで遊びながら♪ばおべぇとぅいぷち、ぷしゃぷあいにぃ♪と歌いはじめた。なんと、当時流行っていた草[虫孟](グラスホッパー)の「寶貝対不起」。それなりに北京語っぽく聞こえる!驚く母を気にも留めず、歌い終わるとそのまま機嫌よく遊んでいた。少し大きくなってからきいてみたら、本人は全然覚えてなかった。親はこの子天才!と思ったのに(笑) 幼稚園の年長くらいになると[台阝]正宵( サミュエル・トイ)の「一千零一夜」がお気に入りで、たまに「あれ聴きたい」と言ってCDをかけさせていた。どうしてこの曲が好きだったのかわからないが、子どものコーラスが入るのが良かったんだろうか。
次男は2度目に香港に来たとき8歳になっていたので、ママが蘇永康のファンということがなんとか理解できていた。私が蘇永康主演のドラマ「騎[口尼]大状」を一生懸命見ていたら、タイトルの意味をきいてきた。「変な弁護士」と直訳したら、蘇永康の写真を見ると「変な弁護士!」と言うようになってしまったので、「そーさんって呼んで!」と訂正しておいた。が、時々「騎[口尼]大状」の主題歌「智恵齒」を口ずさんだりする。彼の中では、この曲が“そーさんのテーマ曲”になってしまったかも・・・。
つれあいとは一度だけ中華ポップスの曲をカラオケでデュエットしたことがある(いきさつは忘れた)。成龍(ジャッキー・チェン)と陳淑樺(サラ・チェン)の「明明白白我的心」。すごくヒットしたのでさすがに歌えると思ったら、成龍のパートは微妙に難しく、つれあいは苦労していた^^;(ちなみにこの曲、池谷幸雄が日本語でカバーしているのを聞いたことがある。タイトルは「見つめていたい」)
長男は今頃になって「中国語を勉強したい」と言い出した。母子の愛読書「動物のお医者さん」中文版「愛心動物醫院」を見て、「わかんないけど笑える~」なんて言ってる。そのうち、マイク103にでも連れてってみようかしら?
中国政府がこの決定をした背景には、大陸のポップス市場の急激な拡大に伴って、歌手の急増と商品化が進み、質の低下につながるという危機感がある、のかな~という気がする。
昔の中国では、西洋音楽系なり伝統歌曲系なり、きちんとした専門教育を受けた歌手が、政府の意向と大衆の好みの間で絶妙なバランスを取っている曲を歌ってきた。当然、マイクがなくては歌えないような歌手は歌手とは呼べず、声量と声質が絶対条件。容姿はいいに越したことはないが、必須の条件ではなかった。(そのせいか、大陸で絶大な人気を誇る歌手の中には、かなり恰幅のいい体格の人がちらほら^^; もちろんオペラ歌手ではなく、普通の歌謡曲・ポップスの歌手。)林子良を紹介したとき、「中国大陸だったら歌手になれない」と書いたのはそういうわけだった。80年代後半からは北京搖滾と呼ばれるロック(バンド)の流れもあるのだが、全国的&全世代的に受け入れられたのは最近じゃないだろうか。
しかし、改革・開放政策は歌謡曲・ポップスにも大きな影響を与えた。海外の音楽が自由に聞けるようになっただけではない。香港・台湾の歌手が大陸で活動できるようになり、大陸の歌手が香港や台湾でもアルバムを出せるようになった。厳然と区別があった大陸と台湾の北京語ポップス市場が、だんだん一体化してきた感じなのだ。いわゆる“大中華圏”市場というやつ(シンガポールやマレーシアの華人市場を含む)。
そんな中で、私でもわかるような変化の一環が、“容姿重視”の新人歌手たち。人口の多い中国のこと、香港のように“どうみても容姿だけ”というわけではなく、ちゃんとそれなりに歌える子ばかりなのだが、なんとなく似たような雰囲気の、同じくらい美人orイケメンの子が次々と出てくる。このままだと、本当に実力のある歌手が育たなくなるのでは? まして、「口パク」が許されたら、ますます“容姿重視”が進み、台湾や香港の歌手みたいにお洒落でカッコいい歌手を目指した挙句、結局際立った存在にならず、逆に台湾香港歌手に押されてしまう、、、かも?
もっとも、恵まれた環境で音楽教育を受けた人の中には、作れて弾けて歌えて踊れてと、何拍子も揃った人が出てきている。そういう人たちが大陸の音楽シーンを引っぱっていくだけでなく、香港台湾でも活躍できるようになると面白くなる。