語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『汚れた海』

2010年02月18日 | ミステリー・SF
 三好徹の本名は河上雄三。読売新聞社で敏腕記者として鳴らした。彼が作成した取材の要諦は、後輩から後輩へ引き継がれボロボロになるまで読まれた、という。
 上司と喧嘩して横浜支局のとばされ、同期のあらかたが本社に戻ってもなお支局に配置されつづけたため、作家に転身した。三好の愛読者として、読売新聞社の無能な人事部局に感謝したい。

 こうした経歴のせいか、三好には新聞記者を主人公とするミステリーに秀作が多い。たとえば、主人公の新聞記者が横浜市及び神奈川県を舞台に探偵する天使シリーズ。他方、まきこまれ型スパイ小説の名手でもある。直木賞受賞作品を含む「風」シリーズ3部作がある。
 本書は、記者を主人公とするまきこまれ型のミステリーだ。秀作の多い三好作品の中でも、ことに秀逸な一冊だ。
 草競馬の八百長と公害。これらの隠蔽から暴露までの間に二つの殺人事件が発生する。事件の捜査(または記者による探求)と平行して、暴力団に内通する警察官の監察が進行する・・・・。

 T・S・エリオットは、チェスタートン論かどこかで、大衆文学は純文学より影響力がおおきい、と喝破した。大衆文学が有する影響力の要因はいくつかあるが、三好の場合、まず文体をあげなくてはならない。
 社会部記者の名残か、簡潔にして明晰。硬質にして論理的。ナルシシズムは毫も見られない。感傷もない。「私の逃亡も、これまでのところ、かなり図式的である。/金がないから、質屋に時計を入れよう、などとしたことはその最たるものだった。図式的な逃亡者は、 図式的な警察にかなうわけがない。それを思えば、私は図式からはずれた行動をしなければならない」
 かつての職業柄からか、世間知に満ちている。「おかしな言い方になるが、信用のあるノミ屋は信用のある客を選ぶのだ」
 しかも、作家らしく人情のヒダに分け入る。「『「喫茶店に入ろうよ』/私は、残り少ない財布のことを思ったが、おとなにはおとなの威厳を保つ必要があった」
 折りにふれて、ほとんどアフォリズムに近い一行または数行が挿入され、世間あるいは人間のありようを閃光で浮き上がらせる。「沢本は慰めるようにいいはしたが、慰めるということは、ある意味で肯定に通じている」
 モラリスト的文体は、三好ミステリーをたんなる謎解きにとどまらない厚みをもたらすとともに、殺人という稀れな出来事、大多数の実人生では一生に一度遭遇するか、しないかの事件を日常に近づける。

 ところで、犯罪捜査とは、三好の定義によれば、犯人に対する時間的空間的接近である。主人公が警察官ではなく新聞記者の場合でも、犯人に対して時間的空間的接近を図る。じつに旺盛な探求精神である。
 主人公は、しばしば記事を書くより探究を優先させ、探偵としての有能が記者としての無能を結果したりもする。本書の場合がそうなのだが、このあたりは伏せておくのがミステリー・ファンの仁義だろう。 

□三好徹『汚れた海』(中公文庫、1974)
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書評:『ロス・アラモス 運命の閃光』

2010年02月18日 | 小説・戯曲
 1945年4月、米国ニューメキシコ州中北部に位置するロス・アラモスで事件が起きた。正確にいえば、この地から38km南東のサン・タフェで死体が発見されたのである。顔はつぶされていたが、身元はまもなく判明した。原爆秘密製造基地の保安部員であった。
 機密が漏洩したのか、情痴のもつれが原因か、はたまた単なる行きずりの強盗殺人か。いずれであるかの見極めが急務となった。調査のため、ワシントンで「(マンハッタン)計画」の隠蔽工作に従事していた主人公、マイケル・コノリーが呼びよせられる。

 この謎解きがあるがゆえにミステリー小説に分類されるのだが、本書のふところはもう少し深い。
 まず、歴史小説ないしノンフィクション・ノベルとして読める。昼夜兼行で原爆開発にいそしむ科学者たち。余暇には音楽会やパーティを楽しむ。ナチス・ドイツが降伏すると、「計画」続行の大義名分が失われたがゆえに今後を集会で討議しようとする。これら科学者たちを秀でた頭脳と強靱な意志でひっぱる研究所長オッペンハイマー。彼の胸中も複雑である(史実では後に水爆開発に反対して公職を追放される)。完成を急がせつつも、オッペンハイマーに友情をいだく基地総司令官グローヴス陸軍中将(史実では准将)も実名で登場する。そして、基地本来の目的遂行をそっちのけに、赤狩り、スパイ狩りに狂奔して科学者へ圧力をかける保安部。内幕を知る人でないと書けない、と評される詳しさである。

 恋愛小説でもある。マイケルとエマの情事は姦通なのだが、奇妙にさわやかなのだ。一見あばずれ風のエマの直行な性格、純情は、やがてマイケルにある重大な決断をとらせるに至る。雄大な自然の中に、インディアンの滅亡した部族の遺跡をたずねる二人は、ほとんど道行といってよい。
 恋愛場面ではそれが主体となるほど、全体として会話の多い文体で、読みやすい。長編だが、一気呵成に通読できる理由の一つはこのあたりにある。
 ひとすじ縄ではいかない会話もある。

  「将官ってやつはみんな似たりよったりなんだ」
  「幸福な家庭と同じだよ」
  コノリーは笑った。「学卒だな、あんたは」

 同僚ミルズ中尉と主人公は、初対面で軽いジャブを交わしあう。『アンナ・カレーニナ』の冒頭を下敷きにしたやりとりで、後にマイケルが陥る情事を暗示するしかけにもなっている。
 かといって、ペダンチックな文体ではない。「言うことなど何もない、ただ生きていられればそれだけで充分なのだ、というようにじっとこちらを凝視しているその目」という鮮やかな描写があるし、「冗談が通じないのだ。このせいでダニエルは年よりも若く見えた」といった人生論的洞察もある。

 著者は、30年間にわたって出版社につとめ、編集や経営にたずさわった後、本書を書きおろした。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀処女長編賞受賞作家としては、最高齢の範疇にはいるらしい。文章に年季がはいっているのも、むべなるかな。

□ジョゼフ・キャノン(中村保男訳)『ロス・アラモス 運命の閃光(上・下)』(ハヤカワ文庫、1999)
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書評:『ハリウッドをカバンにつめて』

2010年02月17日 | エッセイ
 映画『オーシャンと11人の仲間』は、2001年にリメイクされたが、1960年版の「仲間」の一人、サミー・デイヴィス・ジュニアは無類の映画好きであった。子どもの頃から数千本の映画を見てきた。病こうじて、地方公演へ出かける際にもコレクションを持参し、ために飛行機を余分に1機確保しなければならなかったらしい。

 本書は、ハリウッドに生きた人々の人物論である。
 たとえば、エリヴィス・プレースリーはサミーに劣らぬ映画狂でものまね上手、ユーモア感覚が豊富だったらしい(世間が見ていた気むずかし屋ではない)。映画俳優としての素質があった、とサミーは証言している。時間をかけて本物の映画俳優になろうとしていたが、会社は、金のなる木だから40歳になってもアイドル路線を変えさせなかったのである。

 あるいは、『真昼の決闘』。フレッド・ジンネマン監督は新人のグレース・ケリーにのぼせあがり、ラブ・シーンをやたらと撮影したためにフィルムが予定の倍の長さになった。覆面試写会では当然ながら不評、制作者のスタンリー・クレーマーは「このままでは封切できない」と撮影所に通告した。「頭のいい編集者」が女優の出番を大幅に削り、時計を主役にすることによって、この映画は西部劇の古典となった。

 マリリン・モンローの微妙な逸話にもふれているが、未読の方の楽しみに残しておこう。
 リチャード・バートンとハンフリー・ボガードにはそれぞれ一章をあてている。後の大スターを若い頃から見てきたし、成功したエンターテイナーとして私生活でも親しく交際したから、俳優や監督たちの知られざるエピソードがふんだんに盛りこまれている。

 銀幕の俳優も日常生活ではただの人である。サミーも『サイコ』を見た後しばらくは部屋中明かりをともしていないと安眠できなかったし、互いにサイコごっこをやってマイケル・シルヴァーに音をあげさせた、という。こんな茶目気が随所に見られて楽しい。

 サミーは、映画製作の現場を足しげく見てまわったから、映画の技法に熟達した。個々の作品に紙数は多くは割かれていないけれども、批評したときの批評は冴えている。
 かれは、映画産業の興隆期に成長した。『モダンタイムス』(1936)には2億2千万人が10万の映画館で入場料を払った、というような書き方をする。本書は、映画という主題から見た米国現代史でもある。
 かれは、また、黒人(ブラック・マン)である。映画界における人種差別について証言し、公民権運動にてこ入れしたことも語っている。これもまた、米国現代史の一側面である。

□サミー・デイヴィス・ジュニア(清水俊二訳)『ハリウッドをカバンにつめて』(早川書房、1981。後にハヤカワ文庫、1984)
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書評:『書斎の旅人』

2010年02月16日 | 批評・思想
 「書評ふうの短いエッセイ」を全70編おさめる。選択された本のジャンルは文学にやや偏るが、歴史、経済、政治、科学も含む。文学は、小説がおおいが、詩歌、ミステリーにも目くばりされている。また、対談集も論じる。
 単行本の刊行の時期をほぼおなじくする『本のなかの本』【注1】と、評された本が部分的に重複する。しかし、本書の各編の字数は『本のなかの本』のそれの倍になっているから、その分、引用は豊かに、要約は懇切に、批評はていねいになっている。名著のさわり集成としても読める。
 どのページを開いても著者が読むことを楽しんでいるさまがじんわりと伝わってくる。市井の読書人が本業をはなれて楽しむ本、というのが選択基準らしい。だから、一読後、さっそくネット書店、ネット古書店を検索して発注したくなる。
 かつて、おおいに満足して読了した本が褒められていると、同志よ、とつぶやきたくなる。
 たとえばロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』【注2】。「男の中の男」とタイトルにある。自伝にそって活躍のあとをたどりつつ、さわりを引用してキャパのひととなりを活写する。

 「しかし、『ちょっとピンぼけ』の最大の魅力は、窮地におちいるたび、それを機知に富んだ寸描でさらりとかわす、軽妙な、あるいは洒脱な語り口である」

 著者は、文章にうるさいひとだ(うるささが高じて『文章読本』【注3】を書いた)。名文に目の肥えたひとが拾い出す名文、その文体の特徴の指摘は、なるほどと思わせる。
 自伝全体の褒め方も、尋常ではない。「作家、画家、写真家たちの書く自伝は一個の独立した著作として読まれる以上に、しばしば、その本職である小説や絵や写真の仕事についての脚注として興がられる」。しかし、「少なくとも私にとっては、この一巻の書こそロバート・キャパというたぐいまれな男の本文であって、彼の撮った数千葉の写真はその脚注にとどまる」。
 もとより世評高い写真の価値は動かない。だが、それほど知られていない自伝の価値は写真以上にある、と強調しているのだ。ちょっとしたレトリックである。
 著者独自の文章美学は、よいと評価する作家の発言でもうのみにしない。
 戦前ドイツ・オーストリアの批評家フランツ・ブライの『同時代人の肖像』【注4】をとりあげて(「洒脱な人物スケッチ」)、カフカをスケッチした箇所を引用して評する。「さりげない印象記と見えて、しかし的確に要点をおさえたこの一節は、今日なお、いやむしろ今日だからこそ、カフカに関する最良の手引きとするに値する」
 こう評価しながら、ブライのカール・クラウスに対する点の辛さに疑問を呈して、別に一編をあむ(「アフォリズムの粋」)。

 「ここでクラウスの人柄や批評活動全体を云々する資格は私にはないけれども、『アフォリズム』一巻に関する限り、ブライの危惧は当たっていないとしないわけにはいかない。余事は知らず、警句作家としてのクラウスの天稟はまぎれもない」

 書評家向井敏の面目躍如というところ。世間の通念をひっくりかえし、それだけの説得力をもって議論をすすめていく。たしかに、著者が引用したクラウスのアフォリズム【注5】を読むと、テレビに映る政治家のまばたきが気になったりする。すなわち、

 「モラルは見つめるとまばたきする」

 【注1】向井敏『本の中の本』(毎日新聞社、1986。後に中公文庫)
 【注2】ロバート・キャパ(川添浩史/井上清一訳)『ちょっとピンぼけ』(ダヴィッド社、1956。後に文春文庫)
 【注3】向井敏『文章読本』(文藝春秋社、1991。後に文春文庫)
 【注4】フランツ・ブライ(池内紀訳)『同時代人の肖像』(法政大学出版局、1981)
 【注5】カール・クラウス(池内紀訳)『アフォリズム』(法政大学出版局、1978、カール・クラウス著作集第5巻)

□向井敏『書斎の旅人』(中公文庫、1993)
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ディック・フランシスを悼む ~フランシス小論~

2010年02月16日 | ミステリー・SF
 2010年2月14日逝去、享年89。元競馬騎手。引退後、新聞記者をへて推理小説家となった。著書は、小説43冊及び自伝『女王陛下の騎手』(1957年、邦訳1981年)。

 その作品の特徴は、次のとおり。
(1)全巻、常に競馬が関係する。ただし、作品に競馬の占める重要性の度合いは、作品によって異なる。
(2)全巻、常に謎があり、謎解きがある。よって、すべての作品はミステリーに分類される。主人公の職業が謎解きに寄与する作品が多い(たとえば『証拠』)が、職業に無関係な謎もある(たとえば『帰還』)。謎は、観察、調査によって解明される。
(3)一連の作品の主人公に共通する要素がある。
 第一に、作品ごとに主人公が異なる。例外は、『大穴』、『利腕』、『敵手』および『再起』に登場するシッド・ハレー、また、『侵入』および『連闘』に登場するキッド・フィールディングのみ。フランシス作品に起きるような事件は、依頼におうじて事にあたる探偵社の社員でもないかぎり、ひとの一生に何度も出くわすものではない。「まきこまれ型」のスパイ小説に倣っていえば、フランシス作品は「まきこまれ型」の犯罪小説である。
 したがって、これが第二の特徴になるが、探偵を職業とする主人公の数はすくなく、むしろ稀れで、主人公の職業は社会各層にわたる。外交官、政府の諜報部員、貿易会社支店長、牧場経営者、サラブレッド仲買業経営者、玩具製造業経営者、誘拐対策業共同経営者、競走馬輸送業経営者、ジョッキークラブ保安部員、ジョッキークラブの調査部主任、探偵社調査員、新聞記者、騎手、アマチュア騎手、航空機パイロット、ワイン商、サヴァイバル専門家、作家、画家、教師(物理学)、気象学者、銀行員、公認会計士、セールスマン、映画俳優、建築家、映画監督、ガラス工芸家・・・・。
 第三に、主人公の出自も、一様でない。上流階級の貴族から労働階級の商人まで。
 第四に、主人公の年齢は、おおむね30台前半である。恋愛において、新鮮な心持ちでいることのできる齢ともいえるし、若い女性には保護者的立場にたつ年配でもある。他方、恋愛または情事をおこなうことができる年上の女性にもこと欠かない。主人公と愛しあう女性の年齢は、主人公の年齢プラス・マイナス10歳と幅広い。
 第五に、主人公の性格は、ほぼ常に知的、聡明、ストイック、穏健、爽やか、不屈である。情熱に圧倒されることはなく、情熱より職業倫理が優先される。ただし、職業倫理をきびしく守りつつ、これと利益相反する情熱の実現を最大限求める事件もあり、どう折りあいをつけるか、読者の興味をつなぐ作品もある(『障害』)。
 第六に、主人公は、所与の職業のプロたることに専念する(上昇志向はあまりない)。作品ごとに主人公の活動分野が限定されるから、主人公やその関係者の技倆、事の成否が読者にわかりやすい。フランシス作品は、ストーリーも登場人物たちの行動・動機・性格も概して明快である。ここから、しばしばアフォリズムめいた所見が挿入される(たとえば『騎乗』)。アフォリズムは、流動性のひくい社会において有効である。

【参考】
●受賞歴
 1970年 アメリカ探偵作家クラブ賞(MWA賞)エドガー賞長編賞 『罰金』
 1979年 英国推理作家協会賞(CWA賞)ゴールデンダガー賞 『利腕』
 1981年 MWA賞エドガー賞長編賞 『利腕』
 1989年 CWA賞ダイヤモンドダガー賞
 1996年 MWAエドガー賞長編賞 『敵手』 
 1996年 MWA巨匠賞 

●小説(原著出版年順、括弧内は訳書刊行年)
 1962年(1968年) 『本命』 Dead Cert
 1964年(1968年) 『度胸』 Nerve
 1965年(1976年) 『興奮』 For Kicks
 1965年(1967年) 『大穴』 Odds Against
 1966年(1976年) 『飛越』 Flying Finish
 1967年(1969年) 『血統』 Blood Sport
 1968年(1977年) 『罰金』 Forfeit
 1969年(1970年) 『査問』 Enquiry
 1970年(1971年) 『混戦』 Rat Race
 1971年(1978年) 『骨折』 Bonecrack
 1972年(1973年) 『煙幕』 Smokescreen
 1972年(1974年) 『暴走』 Slayride
 1974年(1975年) 『転倒』 Knockdown
 1975年(1976年) 『重賞』 High Stakes
 1976年(1982年) 『追込』 In the Frame
 1977年(1982年) 『障害』 Risk
 1978年(1984年) 『試走』 Trial Run
 1979年(1985年) 『利腕』 Whip Hand
 1980年(1986年) 『反射』 Reflex
 1981年(1982年) 『配当』 Twice Shy
 1982年(1988年) 『名門』 Banker
 1982年(1989年) 『奪回』 The Danger
 1984年(1985年) 『証拠』 Proof
 1985年(1991年) 『侵入』 Break In
 1986年(1992年) 『連闘』 Bolt
 1987年(1992年) 『黄金』 Hot Money
 1988年(1989年) 『横断』 The Edge
 1989年(1990年) 『直線』 Straight
 1990年(1996年) 『標的』 Longshot
 1991年(1992年) 『帰還』 Comeback
 1992年(1998年) 『密輸』 Driving Force
 1992年(1994年) 『決着』 Decider
 1994年(1995年) 『告解』 Wild Horses
 1995年(1996年) 『敵手』 Come to Grief
 1996年(1997年) 『不屈』 To the Hilt
 1997年(2002年) 『騎乗』 10 LB. Penalty
 1998年(1999年) 『出走』 Field of Thirteen
 1999年(2000年) 『烈風』 Second Wind
 2000年(2001年) 『勝利』 Shattered
 2006年(2006年) 『再起』 Under Orders
 2007年(2007年) 『祝宴』 Dead Heat
 2008年(2008年) 『審判』 Silks
 2009年(2010年) 『拮抗』 Even Money
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書評:『ダルタニャンの生涯 -史実の『三銃士』-』

2010年02月16日 | ノンフィクション
 世界でもっとも有名なフランス人、といわれるのがダルタニャン。すくなくとも、日本ではフランスの現大統領よりも知名度が高い。
 本書は、史実に即して、『三銃士』の主人公のモデルの生涯を再現する。

 シャルル・ドゥ・バツ・カステルモールは、1615年頃ガスコーニュに生まれたらしい。デュマ描くところの名門貴族ではなく、新興貴族の出自だった。
 ガスコーニュは、ラテン語の「ヴァスコニア(バスク人の国)」に由来し、フランス人とは異なる伝統、文化、慣習をもつ。その住民、ガスコンも、独特の気性、狡猾なほど世間智があって、しかも血の気が多いことで知られる。地味が豊かでない土地柄ゆえに軍人を志す者が多く、じじつ勇名を馳せた武人が輩出した。
 われらがシャルルも、野望を胸に1630年頃パリへ上った。
 王都には、ガスコンの共同体が形成されていたから、貧乏な新興貴族では印象が薄い。そこで、母方の姓ダルタニャンを名乗った、と著者は推定する。ダルタニャン家は名門貴族で、ガスコーニュ有数の名族モンテスキュー家の分家である。
 15歳のシャルルは、後年磨きをかけた世間智を、さっそく発揮したわけだ。

 以下、シャルルの生涯を追って、読者をして血湧き肉踊らしめる。
 小説家の手にかかれば、歴史も小説的に脚色されるのだ。

 実在の人物も、世界一高名な小説の主人公のモデルとなるにふさわしい器量だった。
 当初は枢機卿マゼランに、彼亡きあとはルイ14世に忠実に仕えた。そして、出世のために、抜け目なくマゼランの権勢や絶対君主の信頼を活用する。
 実際、軍人としても実務家としても有能だったらしい。任務において豪胆、人情の機微を解して細心、たとえば麾下の銃士隊の人心掌握のためにきめ細かな手をうった。王命により逮捕した財務長官フーケに対しても配慮を忘れず、ためにフーケ支持者からも憎まれなかった。
 もっとも、細君の心をつかむには失敗した。富豪の名門出身の夫人アンヌは、かくも精力的に仕事に打ちこんで家庭を顧みない夫を捨てて、結婚2年後に自分の領地へ引きこもってしまった。現代日本の仕事人間は、おお同志よ、とつぶやくかもしれない。

 当時さかんに行われた官職売買や二つの銃士隊の確執、シャルルの二人の息子やその子孫の追跡も読者の関心をひくだろう。
 東に『大菩薩峠』あり、西に『ダルタニャン物語』あり。今日、結末のあってなきがごとき『大菩薩峠』を全編を読みとおす人は数すくないが、主人公の壮烈な戦死まで『ダルタニャン物語』につきあうファンは多い。
 ファンならば、本書をおおいに楽しむはずだ。

□佐藤賢一『ダルタニャンの生涯 -史実の『三銃士』-』(岩波新書、2002)
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書評:『聖マルコ殺人事件』 ~塩野七生の歴史小説~

2010年02月15日 | 小説・戯曲
 13世紀以来興隆を誇っていたヴェネツィア共和国も、16世紀前半、ようやく落日の光に包まれつつあった。かたや、勃興するトルコ帝国に地中海の基地を次々に奪われ、かたやイタリア半島支配をめざすオーストリア及びスペインの両ハプスブルグ家から圧迫を受けていた。貿易立国たるヴェネツィアは、異教徒の国トルコ帝国との和平を国是としたが、他方、西欧のキリスト教社会と足なみをそろえなければならない。ヴェネツィアの外交は、まさに綱わたりであった。
 こうした難しい時期に、マルコは若くして抜擢され、ヴェネツィア政界の階段を一歩づつ駈けあがっていく。私生活も申し分なかった。ローマ市民を足もとにふれさせたという才色兼備の高級遊女オリンピアがいた。
 元首アンドレア・グリアッティの庶子、アルヴィイーゼは、ダンドロ家のマルコの幼なじみにして親友であった。庶子なるがゆえにヴェネツィアでは支配階級から受け入れられないアルヴィイーゼは、イスタンブールで貿易商人として台頭していく。
 ヴェネツィアは、国益のため、スレイマン大帝の寵臣、イブラヒム宰相とよしみを通じていた。スレイマン大帝に野心的な愛人ができたことから、盤石だったイブラヒムの地位に翳りが生じだす。愛人ロッサーナは、トルコ帝国の伝統を破って、スルタンの正妻、つまり皇后になった。
 アルヴィイーゼには、ヴィネツィア貴族の夫をもつ愛人がいた。二人が一緒になるため、また、祖国では立身がおぼつかないため、アルヴィイーゼは賭けにでる。イブラヒム宰相と結び、遠征軍を率いてハンガリーを抑え、オーストリアのハプスブルグ家と闘ったのである。遠征が成功すれば、イブラヒム宰相の権力基盤が安定するという点で、またオーストリアのハプスブルグ家による圧迫が減少するという点で、ヴェネツィアにとっては有利であった。しかし、西欧キリスト教社会との関係上、公然とは支援できない。
 マルコは、密命をおびて、イスタンブールに潜入する。
 イスタンブールに呼び寄せた愛人リヴィアとアルヴィイーゼとの蜜月は、短かった。バルカン半島で客死したアルヴィイーゼのあとを追って、リヴィアは海に身を投じる。
 帰国したマルコを待ち受けていたのは、国政を動かす「C・D・X(10人委員会)」による峻厳な尋問であった。思いもよらないところに訴因があった。本書の冒頭で起きた「聖マルコの鐘楼」における死亡事件には、マルコの意気を阻喪させる事実が背後にあった・・・・。

 本書は、『メディチ家殺人事件』および『法王庁殺人事件』とともに三部作をなし、かつ、その嚆矢だ。
 時代は単なる背景として借りたにすぎず、小説の中を闊歩するのは現代人であるのが時代小説であるとすれば、史実にほぼ忠実で、史料のすきまに想像力をふくらませるのが歴史小説だ。三部作は、歴史小説である。
 主役は、『聖マルコ』はアルヴィイーゼ・グリアッティ、『メディチ家』はロレンツィーノ・デイ・メディチ、『法王庁』はピエール・ルイジ・ファルネーゼやその庶子アレッサンドロで、マルコは仮構の存在だ。しかし、作品に占めるマルコの比重は、後の作品ほど高まる。第一作では純然たる脇役、事件に対する視点を提供する存在にすぎないが、第二作では高級遊女オリンピアとの交情に紙数が割かれる。第三作では、マルコがほぼ主役に近い地位を確立している。オリンピアとの華麗な、しかし悲劇的な末路となる恋が彩りを添える。
 歴史の語り部である塩野七生の歴史小説は、細部に妙味がある。当時の建物から通りの様子、芸術作品まで、小説のディテールに筆を惜しまない。読者は、当時の人々の生活ぶり、ヴェネツィア独特の行政機構、イタリア内外の政治情勢、そして史上実在した人物の風貌を目のあたりにする思いをするだろう。
 そして、当時の主要都市を旅する楽しみも提供される。「C・D・X」により公職追放された3年間、マルコはフィレンツェおよびローマを訪れるのだ。
 三部作には、塩野七生のエッセイや歴史物語のこだまを見つけるの愉しみもある。たとえば、マルコ、ロレンツィーノおよび教養のある政治家フランチェスコ・ヴェットーリのマキャベリをめぐる鼎談だ(『メディチ家』)。ここでくり広げられる議論は、『わが友マキャベリ』の読者にはつとに親しい。

□塩野七生『聖マルコ殺人事件』(朝日新聞社、1988)、『メディチ家殺人事件』(朝日新聞社、1990)、『法王庁殺人事件』(朝日新聞社、1992)
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書評:『読者は踊る』

2010年02月14日 | 批評・思想
 本書は、「鳩よ!」誌に連載された45回分のコラムがもとになっている。特に定まった主題はない。しいて言えば、タレント本から哲学まで「売れた本、話題になった本」である。小説には見向きもせず、もっぱらノンフィクションを扱う。
 流行の最上の定義はすぐ過ぎ去ることだ、と加賀乙彦はいった。流行というほどはやったわけではないが、すぐ過ぎ去った本であることは間違いない。試みに書名索引をざっと眺めてみると、文庫入りしてしぶとく生き残った本もある(『少年H』)けれど、たいがいは店頭から消えている。
 本書の単行本は1998年刊。文庫入りにあたって書誌的情報を最新のものに更新し、コメントを追加している。時とともに鮮度の落ちる時評に対する「せめてもの延命処置」と謙遜しているが、自負はそうとうなものだ。
 全253冊が9つのカテゴリーに振り分けられている。すなわち、<カラオケ化する文学><ニッポンという異国><文化遺産のなれのはて><野生の王国><科学音頭に浮かれて><おんな子どもの昨日今日><歴史はこうしてつくられる><知ったかぶりたい私たち>である。タイトルだけで内容を察するのは難しいが、なかみを読んでタイトルに戻ると、言いえて妙という命名のしかただ。
 個々の本を単独で論じる方式はとらず、テーマにかなう複数の本をとりあげて横断的に論じる。
 複数の本を並べて比較し、その特徴をとりだす手際はあざやかだ。たとえば、3種類の辞書を論じて、『日本語大辞典 第2版』を「企業社会に密着した御用学者か顧問タイプ」などと命名する。イメージあざやかな命名だ。もち、『大辞林』及び『大辞泉 第2版』からも実例を引いて比較した上の結論だ。
 もっとも、並べて比較するくらいのことはオレだってできるぞ、とおっしゃる方もいるかもしれない。著者はとくに反論しないと思う。あくまで一読者の立場に立つと、宣言しているのだから。単行本あとがきにいわく、踊る読者とは「あなたや私のような小市民的読者のことなのである」
 ちゃんとアリバイを用意しているのだ。この著者、一筋縄ではいかない。高所から見下ろし、教えさとす学者的な姿勢は無縁だと宣言しているのだ。
 要するに、本書は本を介した世相の診断書である。
 では、以下、本を腑分けする見事なメスさばきを追跡しよう。

 <野生の王国>の中の1編、「盆栽鑑賞式の天然記念物図鑑が自然保護とは笑わせる」をサンプルに、時事的話題の奥にあるものをつかみだす手際をみる。
 朝日新聞の1995年5月1日付記事から書き起こす。日本産トキ「ミドリ」(雄・推定年齢21歳以上)が死亡、「キン」(雌・推定年齢28歳以上)のみが残って国産のニッポニア・ニッポンの絶滅が確定した、云々。
 当時長寿で知られた人間のきんさん、ぎんさん並の報道ぶりだが、嗤うのはさっと済ませて、本質的な問題設定を行う。
 すなわち、トキ報道につきものの「特別天然記念物」は何を記念しているのか。
 俎上にのせる本は『日本の天然記念物』。オールカラーで約1,100ページ、国の天然記念物955件が収録されていると、まず概要を示す。○○寺の大イチョウ、大ケヤキといった銘木、巨木、古木のたぐいが目立つところから、「天然記念物はもともとこういう銘木を残したいという願望からはじまったと聞く。早い話が盆栽の名品みたいなものである」
 「早い話」以下に批評の鉈がふるわれる。管轄官庁が文化庁である点を指摘して、天然記念物=盆栽説を補強する。
 これはしかし、まだ序の口だ。「日本の動植物相を守る」目的はちっとも環境保護と関係していない、と容赦ない。天然記念物指定の底に珍奇を守る発想があるからだ、と理由を推定する。だから、いかがわしさは指定の仕方に端的にあらわれる、と追求する。指定は地域指定と種指定に分かれるが。種指定は捕獲が禁止されるだけで、その動植物が棲息する自然の開発・破壊には何ら規制が加えられない、と指摘する。どこにでもいるウグイやウミネコは地域指定とされるところからして、開発の妨げになるものは種指定、観光名所になりそうなもの(あるいはそれ以外役立ちそうもないもの)は地域指定と使い分けされているらしい、と言いにくいことをズバリと言ってのける。うがった意見のように見えて、こう整理されるとわかりやすい。
 『日本の天然記念物』にはいちおう提言が出ていることは出ているのだが「おざなりの感がする」と観察し、以下、痛烈な機関銃弾が炸裂する。「もっときっぱりした提言はできないのだろうか」「種指定の問題点をわかっていない大ボケの記述まであったりする」「<美しい自然を守りたい!>(帯のコピー)というならば、『心ないマニア』なぞというチンケな敵だけじゃなく、個別の『大きな敵』を具体的に指摘したってバチはあたらないと思うぞ」
 余勢をかって『レッドデータアニマルズ』も斬って捨てる。そもそもレッドデータは名簿でしかない、そんなものはやめろとはいわないが、「ただ、リストだけ作って満足するというやり方が、いかにもお役所的でアホらしい気がするだけである」
 文庫版の追記で辛口に拍車がかかる。メダカが絶滅危惧種第二種に指定されたことをとりあげて、「メダカが絶滅しても、だれひとり本当には困らない。自然保護行政のとろさは、人々の無関心と表裏一体なのである」

 ズケズケと言ってのけるにもかかわらず嫌みを感じさせないのは、軽いノリの文体のせいだ。<カラオケ化する文学>の5編から実例を引く。
 「にしても一読、ふーん、やるじゃん、という感じがした」
 「やくざ映画以外にも、こんな価値観が意味をもつ世界がまだあったのか・・・・と思うと、頭がクラクラしてくるぜ」
 「まっとうな意見だとは思うけれども、案外逆かも。当節の「文学」をちっとは読んでみたから、『あっ、この程度でいいのね』と思って応募してくるとか・・・・」
 「ほらあ、同じでしょ?」
 「鮮度で選ぶなら、批評意識のある点を買って、Bグループでしょう。わっかんないな」
 くだけた言いまわしで、威勢がよい。著者にならって、「はすっぱ文体」と命名しよう。
 その特徴は、第一に、独特の軽快なリズムを醸し出す。
 第二に、気のおけない者同士の会話みたいだから、憎まれ口をきいても大人げない反応はとりにくい。紳士淑女ならつつましく口に出さないことを著者があえて口にしても(卑語だって遠慮しない)、紳士淑女の諸君は無視すればよい。
 第三に、巷間のはやり言葉(「トレンディ俳優」唐沢寿明)を引用して抵抗感を起こさせないし、時代の表層に密着するポーズをとりやすい。あくまでポーズである。じっさいは流行に身を任せてなんかいない。和して同ぜず。
 第四に、軽快な口調は視点を身軽な移動させていることを示す。
 こうした軽さは、なだ・いなだのそれの延長にあると思う。また、ざっくばらん調は丸谷才一のライト・エッセイの延長にある。評論の世界で、なだ・いなだや丸谷才一というブルトーザーが整地したから、斎藤美奈子という軽自動車が疾駆できるようになったのだ。
 「はすっぱ文体」は軽佻浮薄に見えるが、ときどき啖呵を切ってすごむから油断できない。フットワークは軽いけれど、「蝶のごとく舞い、蜂のごとく刺す」のだ。時にはヘビー級のパンチをくりだす。
 個々の書評のタイトルにもこまめにジャブをくらわす。たとえば、哲学がはやりの世相を一刀両断して「哲学ブームの底にあるのは知的大衆のスケベ根性だ」、あるいは『全共闘白書』を論じて「死ぬまでやってなさい。全共闘25年目の同窓会」。

 造語(「お役所チック」)や略語(「学まん」=学習まんが)を大量生産して、威勢のよさ、軽快なリズムはいっそう磨きがかかる。
 ことに略語は、言葉にまとわりつく情緒を切り捨てて記号化する作用を伴うから、威力を発揮する。
 たとえば、聖書の翻訳を論じた2編(「汝、驚くなかれ。いまどきの聖書日本語訳」の教会訳編と個人訳編)。周知のようにキリスト教はカソリック(旧教)とプロテスタント(新教)の二派に大きく分かれる。ここで著者は、旧教を○の中にカ、新教を○の中にプで表記するのだ。マルカとマルプである。唖然、なんたる冒涜。マルビとマル金よりもひどい。
 が、各種の翻訳をたんねんに読みこなした上で比較している。見かけによらず、研究熱心なのである。
 個人訳をとりあげては、本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』に「被抑圧者・被差別者」の視点を見て、そこからくる翻訳の特徴を拾いだす。「上」の一字があるとないとで超人イエスと人間イエスの違いが出てくる、云々。
 「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。(教会訳:新共同訳)
 「イエスは湖を歩いて弟子たちのほうへやって来た。(個人:本田訳)
 文体に工夫をこらす斎藤美奈子は、他人の文体にも敏感なのだ。
 ついでに言うと、中丸明『絵画で読む聖書』に着目した眼は鋭い。この本では、イエスは名古屋弁を話す(「なにをみゃあみゃあ騒いどるだぎゃあ。わしだ、わが身だがね。化物でもなんでもねゃあで」)。爆笑、と笑わせるが、ちゃんと理由はおさえているらしい(イエスの言葉はアラム語、カナン語の方言、日本語で言えば名古屋弁のミャーミャー)。
 新訳聖書は、「はじめに言葉があったんし・・・・その言葉が神さまだんし」のようにお筆先ふうに訳すと元のテキストの文体の雰囲気がよく伝わる、と林達夫がすでに指摘していた(「邪教問答」、『林達夫著作集第3巻 無神論としての唯物論』、平凡社、1971)。斎藤美奈子の着想は、意外と正統的だ。

 「はすっぱ文体」は、一見あらっぽく見えて、じつは意外と繊細、複雑なニュアンスをはらむ。
 <ニッポンという異国>の1編から、以下、引用する。
 「バブルの崩壊以後も、食べ物屋のガイドブックは、あいかわらず書店にひしめきあっている。/それらを端から立ち読みしているうちに、じわりと腹が立ってきた。タウン情報誌も旅行ガイドも食べ物屋、食べ物屋、食べ物屋。ったく日本人は金を払ってメシ食う以外に能はないんかい。/店を吟味する前に、書店にあふれるゴミの山をかきわけて、本を吟味しなければならない馬鹿ばかしさ。せめて「料理店」ガイドならぬ「料理店ガイド」ガイドがあったら、類書の洪水状態も少しは緩和されるかな。/というわけで、今回は、わが貧しい食卓もかえりみず、料理店ガイドの読み比べを決行することにした」
 これは、「安くてうまい本はどれだ。辛口『料理店批評』批評」の書き出しである。
 第一に、軽い俗語調で読ませる語り口で、読者をさっと自分の土俵へ引きこむ。
 第二に、問題設定がきわめて明快で、ゆえに書評する目的がすっきりと読者の頭にはいる。思わせぶりなところはひとカケラもない。
 第三に、細かいところですでに批評が挿入されている。たとえば「立ち読み」。買ってまで読む本じゃない、と暗にほめのかしているのである。「書店にあふれるゴミ」となれば痛烈。ゴミを書いた著者、刊行した書肆はムカッとくるにちがいない。
 第四に、自分の立場を明らかにしている。「わが貧しい食卓」という以上、その道の権威ではないということだ。一介の読み手、そんじょそこらの「小市民」である。この立場を明確にし、かつ、徹底している。
 第五に、「『料理店』ガイドならぬ『料理店ガイド』ガイド」などと、対象から等分に距離をおいてまとめて面倒を見る批評法、手の内を見せている。
 じじつ、このあとで5冊の本(『東京いい店うまい店』『恨ミシュラン』『いまどき真っ当な料理店』『東京いい店やれる店』『エピキュリアン』)をずらりと並べて標的にし、遠慮会釈のないツッコミを入れている。
 ここで第六点を追加するなら、斎藤美奈子はどの本にも妙な思い入れを示さない。愛想がないといえば愛想がないが、公平といえば公平である。このへんの潔癖は買いたい。

□斎藤美奈子『読者は踊る』(文春文庫、2001)
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書評:『銀行50億強奪犯の掘った奪った逃げた』

2010年02月13日 | ノンフィクション
 1976年7月19日(月)早朝、南仏の避暑地ニースは騒然となった。ソシエテ・ジェネラル銀行の金庫室が賊に侵入され、現金、宝石貴金属、有価証券など、当時の邦貨にして約50億円が強奪されたからである。
 賊の主犯、アルベール・スパジアリの手記が本書である。
 銀行強盗という事業を企画してから完遂するまでの7週間が記されている。緻密な計画の立案、友人や盗みのプロの組織化、警備状況や警報装置の内偵、下水道の下検分、機材収集といった準備作業から、トンネルの掘削、侵入まで。ことに金庫室への侵入に至る2日間は時間きざみで克明に綴られ、臨場感に富む。犯罪は、用意周到でなければ実行できないのだ。

 スパジアリは、金庫室を立ち去るにあたって、「憎しみもなく、暴力もなく、武器もなく」と壁に大書した。
 洒落た泥棒である。
 手記全体がこの調子で、興奮剤による躁状態で書きまくったみたな高揚感がみなぎっている。
 実際、警察に逮捕され、証拠不十分で釈放される寸前(と見せかけられて)、詭計にかかってベンゼドリン入りのコーヒーを飲まされ、所業をべらべらと喋ってしまった。

 しかし、そこは現代のアルセーヌ・ルパンのこと、たちまち(といっても拘置されてから4か月後に)逃亡する。
 厳重な非常線をかいくぐって国外へ脱出する過程は、ごくかいつまんでしか書かれていないが、その理由は察するに難くない。

 本書の原稿は、司直の手の及ばない国からスイスの代理人経由でフランスの出版社に届けられた。
 擱筆の言葉も洒落ている。「1977年末、脱稿[月の裏側にて]」。

 脱走当時44歳のスパジアリは、国家権力と金権社会へ挑戦する冒険家と自分を定義している。
 かく宣言する心底には、生育歴に起因する反抗精神があったらしい。イタリア系移民の子孫という出自からくる肩身の狭さ、ナチス・ドイツの占領下に過ごした少年時代の苦難、インドシナ戦争やアルジェリア戦争に従軍中の辛酸・・・・要するに、体制に幻滅していたのである。
 南仏は、歴史的に北仏から政治的、経済的圧迫を受け、抵抗精神も激しい土地柄である。スパジアリ一味が奪った大金の所有者は、大部分が北仏の人だった。地元の市民が喝采を送ったのもむべなるかな。
 泥棒は悪党だが、悪党にも憎むべき悪党と憎めない悪党があるのだ。

 本書は、開高健が絶賛したノンフィクションの怪作だ。
 当人自身が入獄、脱獄の経験をもつジョゼ・ジョヴァンニ主演で映画化された(1979年)。これも、まずまずの佳作である。

□アルベール・スパジアリ(榊原晃三訳)『銀行50億強奪犯の掘った奪った逃げた』(新潮社、1978)
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書評:『可愛い女』

2010年02月12日 | 小説・戯曲
 チェーホフの小説は、ストーリーの展開よりも人物の造型、内面的な掘り下げにおいて光る。
 たとえば、『可愛い女』。

 そこそこに器量がよくて、気立てがよくて、惚れっぽい女。
 自分の意見は何ひとつなくて、惚れた男の意見を受け売りするばかり。それがまた可愛い女と評判をとる理由になったりする。
 当然ながら、世間的に見て、よい夫にめぐまれる。
 ところが、佳人薄命。いや、この場合は佳人の旦那が薄命で、一人目ならず二人目にも先立たれてしまう。
 傍らに惚れた男がいないと、自分の代わりに考えてくれる者がいないから、空虚な存在と化する。

 そろそろトシで、器量も落ちてくる。
 器量が落ちれば、ひとは寄りつかなくなる。
 器量が落ちてなお、あるいは器量の如何に拘わらずひとを惹きつけるものがあるとすれば、見てくれとは別の何ものかなのだが、自分の意見というものがない女主人公オーレンカは、それに気づかない。
 ひとのよさをそのまま生きて、ちっとも自らを顧みない。自然児である。
 かくて、旧知の子どもに惚れこむ。
 雀百まで踊り忘れず。

  *

 余談ながら、日本には、「可愛い女」は、いまでは少なくなった・・・・ような気がする。
 しかし、会社その他の組織において、上司に忠実な「可愛い男」は絶えない。

□アントン・P・チェホフ(神西清訳)『可愛い女』(『可愛い女・犬を連れた奥さん』所収、岩波文庫、1965)
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書評:『読書の学』

2010年02月11日 | エッセイ
 本書は、言語は事実の伝達である、と説く。事実は、個人の外部に生起する歴史的事実、社会的事実、ひっくるめて外的事実を指すが、それだけではない。個人の内部に生起し蓄積する感情、思考、論理、つまり文学的事実、学問的事実、ひっくるめて内的事実をも含む、云々。
 また、「著者を読もう」と説く。何を言っているかの理解で満足せず、著者の心理に分け入る能力が「読書の学」であり、少数者の能力だが、学問において大事なのは少数派の意見である、云々。
 言語は事実そのままではなく、事実が人間に与える刺戟、それに反応する意識の所産である。自覚された意識そのままでさえない。事実そのものが重要であるとともに、事実によって生まれた著者の意識、あるいは意識を処理する著者の態度(文章ないし文体に反映する)、それを重視する方法が同時に存在しなければならない、というわけだ。
 以上は前半の要点で、後半は『論語』注解の各説、ことに18世紀の日中の学者、日本では荻生徂徠たち、中国では段玉裁ほかをとりあげ、「著者を読む」実践を行う。

 本書は、月刊「ちくま」に1971年夏から1975年春まで連載したエッセイを一巻にまとめたものである。
 雑誌に書ききれなかったことを5編の補注で示す。その補注5は、吉川幸次郎自身の五言古詩で、「読書の学」という考え方をよく示す・・・・らしい。漢詩の素養がないから、らしい、という言い方しかできないが、詩句にいわく「人各無窮思」。人は各々無窮の思い。自注にいわく、「人心の同じからざるは其の面の如し」は徂徠の愛する『左伝』にある語のよし。

 要するに、「読書の学」と題する本書の読書は、読書一般ではない。私たちの読書の多くがそうであるような、漫然と読みながす受け身の読書とは異なる。
 それは攻めの読書である。
 当然、楽しくないから途中で放りだす、といった容易な態度で読むわけにはいかない。
 はなはだ不自由だが、不自由の先に待っているのは書き手の人格である。言葉の広大な荒野の向こうに一個の人格を見いだす喜びは、不自由の代価をはらって尚お釣りがくるだろう。それは、サハラ砂漠で遭難して渇きに渇いたサン=テグジュペリが、遊牧民と出会う僥倖によって生の側にたち戻る、そんな喜びに似ているかもしれない。

□吉川幸次郎『読書の学』(筑摩書房、1975)
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書評:『旅行者の朝食』

2010年02月10日 | エッセイ
 米原万里の本は、なかみを読まないでも買って損をしない。
 本書は、飲食に関してあちこちに書き散らした雑文をまとめたものだ。豊富な海外体験(ロシア、東欧)、博引旁証(調べ魔)にはいつものことながら感心させられる。その独特の切り口、語り口は一見シニックだが、暖かい。

 表題ともなっている「旅行者の朝食」は、ロシア人が好む小咄だ。
 ある小咄に登場する「旅行者の朝食」という言葉に、ロシア人はクックッと笑うが、理由がわからない。ある時、別の小咄を聞いて疑問が氷解した。「旅行者の朝食」という非常にまずい缶詰があるらしい(ソ連がまだ健在な頃のこと)。
 彼女は「ちょっと感動した。まずくて売れ行きが最悪な缶詰を生産し続けるという厖大な無駄と愚行を中止するか、缶詰の中身を改良して美味しくするために努力するよりも、その生産販売を放置したまま、それを皮肉ったり揶揄する小咄を作る方に努力を惜しまない、ロシア人の才能とエネルギーの恐ろしく非生産的な、しかしだからこそひどく文学的な方向性に感嘆を禁じ得ないのだ」

 こんな小咄もある。
 旅先の森で大きな熊に襲われた旅行者が絶体絶命の場面で天に祈る。
 「この恐ろしいけだものに敬虔なキリスト教徒の魂を授けたまえ」
 すると、あら不思議。熊は両前足を合わせ、祈りはじめたのだ。
 「天にまします我らが父よ・・・・美味しい朝食を恵んで下さいましてありがとうございます」

 旅行者の願うように熊はキリスト教徒の魂を授かり、敬虔に祈りをささげるのだが、その祈りの内容たるや、旅行者にとって不都合きわまるものなのであった。権力に下の宗教を揶揄して、痛烈きわまりない。
 全文読まないと妙味が十分に伝わらない。本屋で立ち読みしてもよいから、pp.36-37をぜひ一読していただきたい。

□米原万里『旅行者の朝食』(文春文庫、2004)
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書評:『騎乗』

2010年02月09日 | 小説・戯曲
 フランシス作品の主人公は、多様な職業に就いている。パイロットから公認会計士まで。出身階層も貴族から労働者階級までさまざまだ。
 だが、主人公のキャラクターはいずれも共通している。すなわち、意志的、自制的な情熱、鋭い観察眼、合理的な推理、さわやか。
 年齢は30代前半が多いが、本書には17歳の少年を登場させた。そこに教養小説の要素が入ってくる。

  「政治家は」彼が言った。「まったくの真実を語ってはならない」
  (中略)
  「それに、政治家は、絶対嘘を言ってはならない」

 国会議員立候補者の父親は、続けていう。「人々は、通常、自分たちが信じたいことしか信じないものだし、それ以外のことを言えば、彼らはおまえを厄介者と呼んで追っ払い、絶対に元の職に戻らせてくれない、後におまえが完全に正しいと証明されても」
 読者は、政治的人間の心得を少年とともに学ぶことができる。選挙運動が活写されているから、風俗としての英国政治にうち興じてもよい。「ミスター・大物が二十分間喋った」のごとき渋い諧謔に、一介の市民であることの自信を読みとってもよい。
 少年は政治を好まず、後に数学者の道を歩むことになる。しかし、父親を理解し、父親の意向にそって当選のために尽くす。「私はやると言った・・・・だから、やる」の意志は、少年がフランシス作品の主人公たるにふさわしいことを証明している。鋭い観察眼、合理的な推理が暗殺を防ぎ、下心のない率直さが味方をふやす。
 当初、馬にたいする軽視をかくさなかった父親も、騎乗に対する少年の抑えがたい情熱をやがて理解する。
 愛情とは理解することだ。
 酸いも甘いもかみ分ける年代、70代なかばの著者は洞察していた。

□ディック・フランシス『騎乗』(菊地光訳、早川書房、1998)
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書評:『リプレイ』

2010年02月08日 | ミステリー・SF
 人生の晩年に若さをとり戻すファウストの願望は、万人の願いでもあるらしい。
 第二、第三のファウストは、いつの世にも登場する。
 
 本書の主人公ジェフも、第何番目かのファウストである。
 ただし、若さをとり戻す願望は、作者にあって、ジェフにはない。いや、ないとは言わないが、本人の願望いかんにかかわらず、勝手に若くなるのである。
 蘇るのはかつて自分が生きた過去の時代であり、前世の記憶を保っているのだから、もう一度人生をやりなおすことができる。当然、未来が予測できるから、賭博に確実に勝てるし、投資も過たない。つまり、経済的基盤の確立は容易で、億万長者への道はたやすい。
 なんと恵まれていることか。
 と考えるのは早計で、当事者には余人の知らぬ苦痛がある。冨は空しい、というのが最初の再生の結論だった。次の再生ではエピクロス的隠棲を選ぶ。
 再生に前世の記憶が伴うと、一種の不老長寿である。よって不老長寿の悲哀も味わわねばならない。自分を知る人々が先立つ寂寥感である。これもまた、再生する者が受けとめねばならない苦痛である。

 しかし、再生する者が自分以外にもあるならば、再生のつど再会して、二人して永遠に生きることができる。寂寥は生じない。
 ジェフは、もうひとりの再生者、パメラと出会うことができた。永遠の愛を誓う。
 再生してから再会するまでの苦労が、ストーリーに起伏をもたらす。

 ただし、これだと小説が永遠に終わらないので、本書はひと捻りする。再生しても前世の記憶をとりもどすまでに若干の時間を要する、という設定なのだ。
 さらに、もうひと捻りして、記憶が甦る時間が再生のたびに遅くなる、という設定も加えられている。最初18歳で過去の記憶に目覚めた主人公は、中年にならないと過去の記憶が目覚めなくなるのだ。そして、パメラもまた。
 一定の年齢に死ぬ定めだから、だんだんと(記憶の)再生から死去までの時間が短くなってくる。甦る時期がだんだんと遅くなって、やがて再生から死まで数刻となり、ついに永久の死がやってくる。
 二人のうちの一人は、他の一人よりも再生から死までのテンポが速い。よって、永久の死が他方より速くやってくる。とり残されることが確実な者の絶望は深い。
 さいわい、本書には救済措置がほどこされているから、読者も主人公に同調して絶望するに及ばない。

 余談ながら、小説の読書は、一種のリプレイといえるかもしれない。絵空事に没頭し、現実を忘れる人は、読みかえすたびに小説にえがかれた人生を再生している、ともいえるからだ。
 その再生が、ジェフとおなじ運命をたどることになるか、別の運命が開けるかは、当該作品が再読に耐えるか否かによるだろう。

□ケン・グリムウッド(杉山高之訳)『リプレイ』(新潮文庫、1990)
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書評:『カトー』

2010年02月07日 | 小説・戯曲
 2009年8月30日の衆議院議員総選挙で、民主党は国民の輿望をになってスローガンの政権交代を実現した。自民党に代わって民主党が与党になったこと、それ自体には異論がない。権力は腐敗する。政権は随時交代するべきだ。
 しかし、翌年2月5、6日に朝日新聞社が実施した全国世論調査では、鳩山由紀夫内閣発足以来初めて内閣不支持率が支持率をうわまわってしまった。最大の理由は、小沢一郎幹事長の政治資金問題だ。与党内部に自浄能力がない。首相からして及び腰だし、夫子自身、政治資金疑惑をかかえている。

 わが国会議事堂には、獅子吼する大カトーはいないのか。マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウスである。
 晩年、何か意見を述べるとき、前後の脈絡なく常に、「なにはともあれ、カルタゴは滅されるべきものと思う」と付けくわえた。堅固な意志でもって、第3次ポエニ戦役の火つけ役となったのである。

 大カトーは、質実剛健、廉潔の士として知られる。じじつ、昔風な勤労、質素な夕食や火を使わぬ朝食、粗末な衣服や庶民と同じ住居で暮らすことで、当時名高かったらしい。
 しかし、やりすぎもあって、召使いを役畜のように酷使し、彼らが高齢化すると追い出したり、売り払ったりした。
 これは頑固一徹の性格、人間と人間との間の結びつきは利益しかないと考えたからだ、とプルタークは批評している。

 雄弁家として知られたが、やりすぎは「爽快でまた激越、嘲弄的かつ厳粛、警句的でまた論争風」な弁論にも見られた。
 たとえば、ローマ人は羊に似ている、一頭(個人)では言うことを聞かないが、いっしょに集まったときには引っぱられていく、うんぬん。
 痛烈きわまる。
 この揶揄、日本人にもあてはまりそうではないか。

 皮肉の例を、もう一丁。
 放縦でふしだらな生活を送った者から非難されたとき、返す刀でいわく、「私とあんたとの戦いは対等でない。あんたは悪口を聞くのも言うのも平気だが、わしときては悪口を言うのは不愉快だし、聞くのには慣れていないから」
 とにかく歯に衣を着せない人物だったらしい。
 だから、自賛も遠慮しない。ローマ市民がカトーに負うほどにカトーはローマ市民に負うところはない、などと遠慮会釈もなくうそぶいた。

 いっしょにいると疲れるが、わが国会議事堂にはぜひ登場していただきたい人物だ。

□プルターク(村上堅太郎訳)『カトー』(『世界文学全集5 プルターク、クセノポン』所収、筑摩書房、1977)
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