よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

「生きる意味」と「患者の生き方」

2010年11月11日 | No Book, No Life
このところ、いのへるがらみでいろいろな御縁を頂いて、すばらしい何冊かの本を献本いただいています。原稿の草稿づくりも兼ねてメモしておかねば!

***

医療サービスのイノベーションは薬品、医療機器、人工多能性幹細胞、移植臓器を含む人間・生物由来製品などのモノ(物質圏)によって<も>創発します。とくに、モノのイノベーションを重視する製造業、エンジニアリング、MOT(技術経営)などの視点にとってイノベーション・パイプラインやオープン・イノベーションは今や中心的な課題となっています。

このような文脈ではビック・サイエンスと医工連携などのエンジニアリングによるビック・チケットが俄然注目されます。


<田中彰吾、意味のある偶然の一致の現象学、p138を改変)

ところが、医療サービスには患者の心身に対して提供され、患者とともに共創される、という性格があります。心身の「心」は精神圏であり、心身の「身」は身体です。生命圏は、身体を中心にして物質圏、精神圏にまでまたがっています。絵にするとたぶん上のようになります。

でも、物質圏を相手にしてきた近代の自然科学、そして正統的な西洋医学では、原因と結果という因果律を重視し、データの蓄積と分析から一般性のある理論を導くという普遍志向があります。特に1980年代にサケット博士らによる根拠のある医療(EBM: Evidence Based Medicine)の台頭以降、この傾向が強まっているようです。

この傾向を定着させたのが近代科学を牽引してきた物理学であると見立てる向きからは、「物理学帝国主義」(村上陽一郎)という揶揄さえもたびたび投げかけられていますが、ちょっとこの言い方は品がないですね。


それに対して、精神圏では、個別・特殊性が重視され、意味、物語、情念、情緒といった側面が全面に出てきます。たとえば患者の苦しみ、やるせなさ、しんどさ、絶望、希望、生きがいといった心象や意味は、(狭義の)近代科学の手法のみではなかなか捉えることができません。先端的といわれる認知心理学や脳科学でさえも、やっと意味、物語、情念、情緒の定量的把握の鳥羽口についたばかりです。

ちなみに、物質圏の因果律に対して、ユングは、物質圏、精神圏を通底する意味のある偶然の一致=共時性(シンクロニシティー)を対置させていますが、遠隔癒し(distant healing)、治療的接触(therapeutic touch)などの医療サービスの領域からユングのシンクロニシティーは復活してくるでしょう。



こんなことを考えるために東工大の上田紀行先生に頼んで寺子屋セミナーでお話をお願いした折、「スリランカの悪魔祓い」、「宗教クライシス」、「生きる意味」、「肩の荷を降ろして生きる」(まだまだ他にもあります)の一連の著作の論点と主張を、人生経路の披瀝を含めながらのお話を伺いました。



上田先生の巧みな話法とリスナーを巻き込む臨場感溢れる解説は、凡夫が語れば露悪的な身の上話(?)でさえも、ペーソスに満ちながらも不思議と明るく意味深い挿話に昇華させます。

さて、前述した個別性、特殊性について、上田先生は、もっとわかりやすく「かえがえのさな」とスパッと表現します。生きる意味が涵養され、発揚される人間の「かえがえのなさ」は、競争的市場のなかでは、交換可能なモノになってしまい、市場原理によって効果、効率が強く求められる結果として、「意味」が疎外されてゆくと論じます。

「スリランカの悪魔祓い」は決して荒唐無稽で面妖な呪術ではなく、共同体を維持させる伝承文化であり、絶対主義に立とうとも、構成主義に立とうとも、十全な精神界ひいては社会システムを保持するはたらきがあるわけです。

この文脈において、日本の「悪魔祓い」はどこに行ってしまったのか?という問いは重いものです。「悪魔」が市場の陰に隠蔽され、市場そのものが、癒しと絶縁された呪いの悪魔になっているのかもしれません。

物質界は自然科学(サイエインス)、精神界は人文(ヒューマニティ)などという都合のよい二項対立的な区分け、あるいは棲み分けは、本来の医療サービスにはできません。本来の医療サービスは二項対立ではなく、止揚を志向するものだからです。



寺子屋セミナーで、知己を得た慶応義塾大学教授(医療看護学部・医学部)の加藤眞三先生(患者のための医療情報リテラシーというサイトを運営されています)から「患者の生き方」と「患者と作る医学の教科書」を贈呈いただだきました。

ラッキーというか実に不思議な邂逅です。ちなみに加藤先生は上田先生による著作物の熱心な読者でもあります。

「患者の生き方」に通底する姿勢は、患者の生命圏全体をホーりスティックにケアしてゆこうというものだと感じました。もっとも主体は「患者」にあるので、ケアする⇔ケアされるというのは、対等な、あるいは互恵的な関係から出発すべきもとと捉えます。患者と医師あるいは医療チームの関係を、筆者はこのようなタームは使わないまでも、まさに、共創性、共時性、共進性、共振性の様相と捉えている点に共感しました。



上に記した物質圏のビックサイエンスによるビックチケットと対置して言えば、「患者の生き方」で提唱されている「行(生)き方」とは、生命圏に力点を置いて、身近な医療資源を引き寄せてじょうずに使いこなし、患者と医療チームとが、よりよい医療サービスをいっしょに考え、実践してゆこうという、草の根医療サービス・イノベーションと言ってよいでしょう。すばらしいです。

イノベーション研究では、ビックサイエンスの知を、産官学プラス金融とが連動し、知財に転換して応用し、ビックチケット、ビッグイノベーションを創発させるという流れに注目が集まりがちです。しかし、長大かつ高額なイノベーション・パイプラインを経ることなく、公共圏で特段の占有的権利を主張することもなく、静かに悩める人々の間に普及・伝搬してゆく草の根医療サービス・イノベーションの効果にも注目したいものです。

第10章は「病における癒しと祈り」。でました!祈りの癒し効果は実はハーバード大学などの研究者が、無作為化臨床試験(RCT)を行い、統計的に有意な効果を認めています。

この章は、祈り(隠された力)というヒューマン・サービスをどうとらえるのか?についての奥深い示唆に富んでいます。生老病死の苦に対していったいどのような医療サービスが求められるのか、について極めて深い洞察が綴られています。

「今までの人生に対する空虚感、生きがいの喪失、死にゆくことへの不安感、死後の世界はどうなるのかなどの悩みが、スピリチュアル・ペインであり、その痛みに配慮し対処しようとするのがスピリチュアル・ケアです」(患者の生き方p122)

祈り(隠された力)とは、共創性、共時性、共進性、共振性の様相を取り込んだ生命圏のヒューマン・サービスなのでしょう。しかしながら、

「YES + 隠された力 = 癒し
NO + 隠された力 = 呪い 」(スリランカの悪魔祓い p279)

ともみたてられるので、要注意です汗)

もちろん、このような発想は、伝統的近代科学に凝り固まった人からみれば、「なんじゃ、それ!?ただの異端、妄説!逝ってよし!」ということでしょう。しかし、そこは、古人の言を借りて反論とするのが賢明でしょう。

「試に見よ,古来文明の進歩,その初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」(福沢諭吉)