よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

母の臨死体験

2010年11月23日 | 日本教・スピリチュアリティ

「看護管理」(医学書院)の12月号の連載テーマに「死と向きあうサービス」を取り上げて書き始めていた矢先の10月の始めごろ、母が死に直面した。

まさに縁起でもない!である。こんなシンクロニシティもあるのだ。


<我孫子市内の病院の医師から発行された病状及び治療方針についての説明書>

地元の病院に入院していた母が大腸炎から敗血症ショックに陥ったのだ。母は78歳(既往症として心筋拘束、現在は、糖尿病も罹患)なので敗血症ショックを起こすと、だいたい60-70パーセントの確率でシュテルベン(死)を迎える。

6年前に、母は重度の心筋梗塞を発症し、救急車で市民病院へ、そしてその後ヘリコプターで伊豆長岡順天堂病院に入院して心臓バイパス術を受けて一命を取り留めている。そんな顛末のすえ、幸いにも命拾いしてからは、「今度重い病気になったら延命はしないでね」というのが口癖だった。

地元の病院は15:1の看護体制で、ICUもない病院。これでは、まずい。まだかすかに意識があったので、「もうちょい生きるためにがんばって欲しいんだが、どう?」と訊くと力なく「ふんふん」と言う。

「ふんふん」は同意である。しめた!患者=母の同意さえあれば、あとはガンガン動くのみだ。

実はこのとき、これ以上のキュアとケアを母に拒否されても、僕は無常にも、その母の意思(近年では自己決定権といって重要な権利として認識されている)をカラッと無視して大学病院のICUに搬送することを決意していたのだ。

            ***

母は浜松の大空襲の中、米軍の戦略空爆機ボーイングB29から投下された無数の焼夷弾によって丸焼けにされた灼熱地獄を生き延びながらも、かわいがっていた弟は米軍によって殺された。その時、顔に火傷を負っている。その後、いろいろあって父と出会い、結婚し男児二人をさずかった。その大きいほうが僕だ。

母には、僕の息子たちに言って聞かせて欲しい物語りが山ほどにもある。できればそれらを記録に残したいのだ。

患者の自己決定権は尊重されるべきだ、一般論では。しかし、個別の特殊な母と子という文脈のなかでは、まだ可能性があるのならば、あらゆる手を講じても生きて欲しかったのだ、息子の勝手な思いを遂げるために。

            ***

それやこれやで、本医科大学千葉北総病院の片岡ひろみ副院長・看護部長に無理なお願いをして同病院のICUに救急車で緊急入院させてもらったのだ。

片岡ひろみさんとは、僕の講演を何回か聞いて下さったことがご縁。片岡さんには休日にもかかわらず出勤、ご対応いただき、さらには、片岡さんが直接救命救急センター長を説得いただき、なんとか千葉北総日本日本医科大学付属病院のICU入ることができたのだ。感謝の言葉もない。

救急車で日医大に搬送されたときは、血圧が50位まで下がり、危篤状態。腎機能も90%が消失し、人工透析を受ける。多臓器不全から心停止へ至ることを想定。そもそも敗血症ショックは症候群なので、決定的な治療方法は確立されていないし、確定的なクリティカルパスも存在しない。

医療チームを率いるK医師からインフォームド・コンセントを受けるが、僕の場合は患者である母の親族代表として「合意」のみするのではなく、いろいろと医師に「説明」もする。双方向のインフォームド・コンセントだ。たぶんうるさい家族だと思われたことだろう。

K医師は腕利きの臨床医だ。結局のところ、治療法が確立していない症候群のクリティカルな状況では、医師の経験的な判断、腕っ節、勝負勘、丹力といったものがモノを言うのである。

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ICU看護師、医師の懸命なチーム医療のおかげで、なんとか一命をとりとめ、回復し、一般病棟へと移ることができた。「あの状態からこんなに回復するとは普通はありえない」がK医師の言である。

実母の死に際で「死」を書くことは「縁起でもない」し、入院のバタバタ騒動で今月号の原稿が間にあわないかもしれない・・・。

母は数年前に心筋梗塞でバイパス術の後、臨死体験を語っている。

「紫色の光の中に包まれた。

三途の川のほとりで棺桶の中に入っている自分の姿を夢に見た。

その棺桶には南無妙法蓮華経と書いてあった」

などと話している。



そしてまた、今回意識が戻ったときに、「なにか見た?」と訊いてみた。

するとなんと、二度目の臨死体験をICUのベッドの上で語り始めたのだ。

「灰色の川のほとりに立っていた。

上流から腐った鮭がたくさん流れてきて気持ち悪かったに。

そうね、その川の幅は100メートルか200メートルはあったわね。

前回のような紫色の光をまた見たので、死にそうだなとわかったのね。

でもみんなの声が後ろのほうからしたので戻ることにしたに」

と。

              ***

いわゆる臨死体験については、大きく分けて二つの解釈ができる。

(1)死後の世界は実在する(本質主義)
諸宗教が想定するように死後の世界はまごうかたなく存在し、患者(母)はそれを垣間見た。

(2)患者の意識内での仮想(構成主義)
患者(母)の意識が人生の中で文化、伝統、風習などを通じて死後の世界のことを学習し、それが表出されて、仮想(幻覚、幻聴、幻視、妄想など)として意識される。死に至るプロセスで脳機能の変化によって変性意識状態(Altered state of consciousness)がもたらされ、臨死体験が「構成」された。

どちから一方が◯で、どちから一方が×じゃないと思う。客観的な事象として臨死体験をとらえようとするから、このような二項対立的な置き方になるのだ。

ケアする側、ケアされる側、ケアを共創する両者にとって大事なことは、対立する二項のどちらかを選ぶことではない。事象の意味こそが大切なのだ。

意味のない現象はない。構成主義をとろうとも、本質主義をとろうとも、その現象の意味、物語りこそが、現象と向き合う当事者やそのまわりの人々にとって重要なのだ。

『死の概念は、喪失でも悲嘆でもなく、また完全な終局を意味するものですらなく、死に至る過程は新たなる世界への旅立ちの準備を整える過程であり、この世界に意味のない現象はない』と エリザベス・キューブラー・ロスも書いている。

「前回のような紫色の光をまた見たので、死にそうだなとわかったのね」と母は語った。一回目の臨死体験から彼女は学習しているのである。一回目の臨死体験の意味は、二回目の臨死体験に繋がっていたわけだ。あちら側のちょっと手前から戻ってきたがゆえに、今回、このようなことが明らかになったのだ。

基督教、仏教、回教などでは死後の世界や死後のいのちを歴然たる実在として規定する。スピリチュアルケアには宗教と切り離せない部分がある。しかし、一見、宗教規範が薄弱化しつつある日本においては、さらには日本教(社会科学としての日本教)とでも言うべき精神風土では、案外、既存の宗教観の枠にとらわれない構成主義的なスピリチュアルケアが待たれているのかもしれない。

あるいは、和風スピリチュアルケアを構成するに足る、新しい宗教の構成、そしてそれらとの関わり合いが求められている。そしてそこにどのようなやり方で健康・医療・保健・福祉・看護・介護サービスなどが介入してゆくべきなのか。

多くの健康・医療サービスのイノベーションは患者と医療組織、様々な医療、看護、介護に関わる人との間のインタラクション層で創発する。それがヒューマン・サービスのイノベーションである。そしてヒューマン・サービスの奥深い位相には、スピリチュアル・ケアがある。

だとしたら、イノベーションが真に求められているのは、スピリチュアル・ケアの領域だ。

誰もが死に、死に際してはケアを必要とするのだから。否、生まれた時からすでに死は始まっている。だとしたら、死に目になって死の準備をするのではなく、生老病のあらゆる段階で、死とはなんなんなのか?という自問自答が必要だ。(でも日本の教育システムでは死を隠蔽しているので、大方は死の準備ができていないように思う)

母の死に際で「死」を書くことは「縁起でもない」と思った。

しかし、これも縁起か。やはり書かねばなるまい。因果なものである。