よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

『ライティング・スペース』と脚腰

2009年09月21日 | No Book, No Life


哲学者の黒崎政男が翻訳した、ジェイ・デイヴィッド ・ボルター「ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール」は、口頭言語、写本、印刷術、ハイパーテキスト、というメディアの変遷とともに、「書くこと」と「読むこと」の根本的な変容を描写している。

マクルーハン、脱構築理論、人工知能研究などの視点をもおさえて、新たなテキスト文化論の出現を予兆させる示唆的な本だ。1990年代前半の作品だが、今日のネット社会の昂進を正確に捉えて「書くこと」の変化をたんねんに素描する。

「ライティングは、記憶を取り集めたり、人間の経験を保存したりするためのテクノロジーだ。書くという技術は農業や織物ほど直接に実践的な技術ではないかもしれないが、それは明らかに、社会を組織化する人間の能力を--確固とした法や、歴史・文芸の伝統を持った文化を与えることによって--拡張する」(p53)

そして、ボルターは「文化的なリテラシーとは、ようするにPCリテラシーと同義になりつつある」とさえ言うのだ。

ものを書いて読むという欲望の出口は、ハイパーテキスト化、ウェブ化、クラウド化の勢いを得て拡張につぐ拡張。拡張された地平線にあまりにも多様な欲望のはけ口があるがゆえに、欲望はむしろたじろぐ。

社会の組織化とは、データ、情報、知識、知恵をいかにオーガナイズしていくかということ。意味を与える、物語を紡ぎあげる、フレームや理論を構築する、という負荷は情報・知識処理系の脳に強烈な負担を強いることになる。

その負担をバネにして伸長するか、ヘナるかは案外、アタマが乗る胴体、そして胴体を支える足腰の鍛え方と強靭さが問われるような気がする。今年の夏は自転車で2000キロ走ったが、「書くこと」と「読むこと」の秋にどう出るのか、さて。