よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

「技術立国日本は危機的な状況」とオープン・イノベーションのレトリック

2009年08月20日 | 技術経営MOT
オープンイノベーションに関する見解は以前ここでも書きました。経済産業省の『中長期的な研究開発政策のあり方~ 競争と共創のイノベーション戦略~中間とりまとめ』は、MOT関係者にとって一読の価値があります。

<以下貼り付け>

朝日新聞記事

経済産業省は19日、中長期的な産業技術政策のあり方についての提言をまとめた。「技術立国日本は危機的な状況にある」と警告し、複数の企業が協力して行う研究開発などの強化が必要だとしている。

 経産相の諮問機関である産業構造審議会の小委員会がまとめた。提言は、日本は07年の特許の新規登録件数が世界1位なのに、実際の製品開発や市場開拓に効率的に結びついておらず、欧米に後れをとっていると分析。経済危機を受けた企業の研究開発投資の落ち込みも加わって危機的な状況に陥っていると指摘した。

 こうした状況を打開するために、複数の企業や研究機関が共同で研究を行う「オープン・イノベーション」や、実際の製品化を見すえた基礎から応用までの一貫した研究開発の強化が必要だとしている。

<以上貼り付け>

以下意見です。

たしかに技術経営関係者の間では、「技術立国日本は危機的な状況にある」との見解には深刻なものがあります。そして上記のような多くの評論は、さらなる「オープン・イノベーション」の必要性を強調して終わります。

以前このブログでも述べましたが、危機の元凶は「オープン・イノベーション」の不徹底にある、という論法はよくわかります。

ただし、この種のメッセージを解釈するときには注意すべきことがあります。それは、「オープン・イノベーション」には産学官にわたる多様な当事者がいるわけで、この主張の便利なところは、「オープン・イノベーション」を進めてこなかった罪科を少数のセクターやプレーヤーに帰属させることなく、不作為の分散ができるということです。

まさに総論反省、各論言い訳ありあり、という問題を大局的に述べるのには「オープン・イノベーション」は実に好都合なレトリックとなります。

現下、日本で「オープン・イノベーション」が声高に唱えられ、喧伝されている背景にはこのような事情が存在しています。したがって上記のような「オープンイノベーション」を説くレポートや書物を読むときには注意が必要です。


社会科学の対象としての日本教

2009年08月20日 | 日本教・スピリチュアリティ

日本教とはいったいなんなのか?日本の宗教を理解するためには、3段構えのアプローチが必要だ。第一段目は、日本の多元・多層・多神的な宗教的心象風景が広がっていることへの理解だ。第二段階は、その心象風景の奥底に息づいている行動様式への理解である。そして第三段階は、このような行動様式が日本的制度にいかに影響を及ぼしているのかについての理解である。

第三段階としては、たとえば日本的人事と日本教の関係など。
日本教と日本的人的資源
仲間主義と日本教


第二段階の行動様式を日本教と見立てて日本教:小室直樹、橋爪大三郎の対話でコンサイスに議論されている。第三段階へいたる道のりで押さえておくべきポイントがまとまった形で討論されているので日本教を考究する社会科学学徒必見。

<以下メモ>
              ***

日本に入ってきた宗教はすべて日本教に包摂されてきた。たとえば仏教。天台宗最澄によって戒律を消去して日本の仏教はインドで生まれた仏教とまったくことかったものとなった。本来ありえない仏教の姿になった。さらに江戸時代の檀家制度を経て仏教はますます換骨奪胎されてゆく。でも仏教徒と名乗る人々は多い。こうして仏教は、日本教仏教派となった。

たとえば儒教。儒教式葬式は中国では一般的だが、日本ではない。日本に入ってきて儒教は宗教ではなく道徳の変形となってしまった。こうして儒教は日本教儒教派となった。

日本教は、役人や支配階層が宗教を創ってきたという側面がある。また日本人はそれらを受け入れてきた。これは通常の一神教の宗教とは隔絶された生き方だ。一神教では、なにをさておきまずはGODが存在し、神の命令で世界が創られた。

日本教ではなにが大事とされるのか?それは、日本の国民の好みである。人間そのもの重視。日本人として普通に暮らすことが大事。ユダヤ・キリスト教でははじめにGODありきで、かれらの宗教観からすれば日本教は奇妙奇天烈。

日本教では人間がはじめにありき。神仏をたてまっつっても人間の都合にあわせていいように変形させられてきた。日本教では神が人間に命令するわけではない。

欠陥だらけの日本人なのだが、神は究極的に人間のために存在するという大前提を古来から敷いていた。表面的に神仏をたてまつっても本質的には人間中心。日本人としての仲間が最も重要なのである。

日本教には日本人の行動を拘束するという性格がある。ところが日本教では行動を外形的に規定しない。日本人が言う無宗教というのは日本教です、というのと同じ。イスラム教では外形的な行動を決めるので日本教とイスラーム教は対蹠的。したがって日本では日本教イスラーム派が成立することはなかった。

ヴェーバーは社会を近代化し、宗教を近代化することによって「勤勉」が西洋では実現された、と論じた。

主神である天照大御神はスサノヲが暴れた時に繭をつくって働いていた。キリスト、ゼウスは決して働かない。働くのは罰なのである。日本教では労働は罰ではない。先祖の先祖からみんなでいっしょに働くことが大好きだった。現在でも定年になってしょぼんとなってしまう人が多いが、ヨーロッパでは喜びいさむ。普通のヨーロッパ人にとっては、働くことと自分のやりたいことは違っている。

働くことに価値があるということは極めて宗教的。日本民族は資本主義国家として成功する条件が古来あったのだ。山本七平は、石田梅岩、鈴木正三などを引いて仏教、儒教の影響で勤勉が成立し、ひいては日本資本主義成立の契機となったと説いた。しかし、勤勉はそれよりはるか以前から日本民族に埋め込まれた宗教、文化だったのだ。

空気が支配するのも日本教の特徴である。空気とは人々が漠然と思うようなこと。ドグマ的断定がなくても、なんとはなしに良いと思うことが広まる。空気は、言葉にならないし合理的でない。にもかかわらず、日本人の意思決定や行動を拘束する力を持つ。

たとえば、三国同盟の時代、枢密院でさえ「ことここに至れば賛成せざるをえない」といって非合理的に、時の空気に流されてしまったことがあった。歴史上、空気によって重要な意志決定がなされた事例は山本七平の「空気の研究」に詳しい。

日本教では、個人の意見を表明する、議論をするという行き方は尊重されない。昔から討論ができない文化。信長ほどの独裁者でも、「自分がこう決めた」とは言わなかった。日本人は自分で決定したがらない。

近代西洋的な考え方とは対蹠的。マゼランは「自分がこう決めた」と言えばそうなった。絶対の神、絶対の価値という考え方に慣れていれば、そういう人に従うのは自然なこと。

キリスト教は2回日本に入ってきた。キリシタンの時。明治時代。キリスト教信者数は増えていない。キリスト教のみを徳川幕府が禁止するほど大きな影響をキリスト教は日本に与えた。イスラーム教は禁止されなかった。完全な宗教であるイスラーム教は日本教とは隔絶しすぎていたのだ。

踏み絵は偶像だが、キリシタンは踏み絵を踏むのをためらった。本来なら被造物、偶像を蹴っ飛ばす。すなわち、キリスト教を日本人は理解していなかった。こうしてキリスト教は日本教キリスト派となった。

明治維新の時は日本教ファンダメンタリズムが出現した。正典の存在、正典の記述の絶対的重要視、正典の記述を行動の思考の絶対規準にすることが、ファンダメンタリズムの基本。

明治時代、日本神話を初等教育のなかに組み込んだのは日本教ファンダメンタリズムの発現だった。日本教がファンダメンタリズムに徹した。神話を教えながらも近代的なもの。こうして日本が近代国家として誕生した。明治日本では、宗教と政治とが分離して国家が誕生したのではなく、宗教と政治が一致して日本国家が誕生した。

ところが大東亜戦争敗戦後、天皇の人間宣言が行われた。実はこのときに日本は近代化の契機を失ったといえる。その後、経済は発展したが価値観は混迷。平成になってからは経済さえも低落している。

結論。一人一人に行動様式がなくなってしまった。このような時代だからこそ、宗教教育ではない宗教理解が重要。とくに、一神教のなかでもキリスト教の勉強が必要だ。

<以上メモ>

社会科学の対象として宗教に接近する比較宗教の視点で日本を分析するとき、「日本教」という驚嘆すべき概念を提出した山本七平。かってタコツボ学会では一顧だにされなかったのだが、小室直樹そして橋爪大三郎によってこの議論が復活するのは日本の社会科学にとって歓迎すべき傾向だ。

日本制度、日本的教育、日本的価値観、日本的人的資源管理など、「日本的~」とつけたがるローカル志向の社会科学の骨格の議論が、実は日本教。しがたって日本教の議論には新しい視点の普遍性獲得の契機がある。