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木曜日に新幹線に乗って京都へ。京都大学で行われるシンポで講演ひとつ、パネルひとつでお話するため。大変ラッキー!なことに、祇園祭の山鉾巡行の日と重なっている。
長年の懸案(夢)だった祇園祭を、こうして楽しむことができるようになったのだ。
前の晩、京都大学の時計台ホールの前にある小奇麗なパブで、シンポ関係者の方々と下打ち合わせを兼ねてビールをひっかけてから、四条方面へ繰り出すと、山鉾から流れるお囃子(はやし)が次第に大きく聞こえてくる。そして人、人、人の波。群衆の熱気にたまげる。
参拝料1000円払うと山鉾に乗せてくれるのだ。10時にお囃子の演奏が終わってから、「お囃子終わっちゃったけど乗れますか?」と頼むと、なんとタダにしてくれた。ありがたし。
四条通りに面したビルの2階に神様がお祀りされていて、その神さまの偶像が明日山鉾に移って市内を練りまわる。そこでお参りしてから2階から突き出た渡り橋を踏んで山鉾に乗る。
動く美術館には文化材が満載。とはいえ、うーん、結構狭い。山鉾に乗って笛、鐘などを奏でる衆が内向きに座っているのはなるほど、スペースの有効活用のためか。
翌朝は京都大学へ行く前に、またそそくさと四条に行く。
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圧巻は辻回し。
まずは道路の車輪が移動するあたりに竹を敷きつめ水を柄杓で捲く。
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そして、山鉾の車輪が竹の上にやってくる。
日の丸の扇子を振る衆がヨーイヤサッと気合いをいれると、綱引きの衆が一気に山鉾を引きにかかり、バリバリーーと轟音を立てて車輪が青竹を粉砕しながら90度回転する。
この模様を至近で見ていた外国からの観光客とおぼしき女性がなんとこう叫んだ。
"Oh, My God!"
おいおい、それを京都で言うのなら、"Gods"と複数形で言ってくれよ笑)。
多神教の都、多神教の祭りなのだ。
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貞観11年(869年)、当時流行った疫病を鎮めるために卜部日良麿が66本の矛を立て、神輿3基をかついで牛頭天王(ごずてんのう)を祀り御霊会(怨霊を鎮め、退散させるための儀式)を行ったのがその起源。
通説では、牛頭天王は外来のカミでインドの出自とされるが、これは怪しいものだ。幼年神ミトラのミトラ教によって屠られる牡牛の故郷イラン北部がオリジナルな故郷で、それがインドに伝搬して牛頭天王の元型となるカミに習合していったのではなかろうか。
さて牛頭天王は、疫病や災いをもたらす、いわば疫病神として祇園信仰では位置づけられる。これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようというのが、この祇園祭。
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目の前を動く美術館はたしかに優雅にして絢爛。しかし、その背後には、怨霊、魑魅魍魎が跋扈する呪術的な世界が展開する。
そしてそんなアンビバアレンツな二面性をそっと顕現させながら、典雅な調べに乗って32基の山や鉾は四条の通りを次々と過ぎ去ってゆく。
***
祇園祭りは、970年(安和3年)から毎年行うようになったと言われる。その後、応仁の乱や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在まで延々と千年を超えて、祇園祭りは受け継がれているのだ。
卜部日良麿がはじめた呪術的なソーシャル・イノベーションは、こうして京都の怨霊、御霊に満ちた精神空間に埋め込まれ、京都の摩訶不思議なソーリャル・キャピタル基盤となっている。その基盤には、世界を神につくられたものと前提する一神教的な存在論は微塵もない。